七空学園とおしまいの時間
私は学園長室の前にいる。
バザウは心配そうな顔をして私を見送ってくれた。モブ化している私単独で行動した方が目立ちにくいから、と説明してなんとか彼を図書室内にとどめた。
ここまで怖いほどに順調にいっている。
他のヒロインにもう少しで気づかれそうになった時も、調度良いタイミングでお祭り騒ぎのモブの一団がやってきて私の気配を隠してくれた。
またしても有利な偶然。モブの煽動に成功した時といい、やたらと私にとって都合が良く世界が回っているのよね。
なんらかの大きな力に後押しされているってハッキリとした手応えを感じた。
学園ではそういう不自然な偶然がよく起きる。転入生はラッキースケベコンボを炸裂させることがある。
正規の因果や法則とは別に、まるで世界そのものがある意志を持つ者の味方についているかのように。
学園での運命の流れは最も萌え盛る者が作り出す。
この加護はずっと追い風となるのか、私が学園長と対峙した時にふっと消えてしまうものなのか。そこまでは確証は持てない。
「ふゥーむ。この騒動を引き起こしたのが、まさかこんな卑小な存在だとは思わなかった」
モノクルを光らせて私の姿を見透かす。
「その姿のままではこの老眼には少しつらァい。虹の一色を取り戻すが良かろう」
ティモテが腕を優雅に動かした。
モノクロのダレカだった私にキャラクターとして色がつく。
「お前の望みはいったいなんだ? 三つ編みと眼鏡萌えを主流にすることか? 緑ヒロインこそ至上という強固なミームを築くことであろうか?」
その言葉だけで確信するには充分だった。ティモテ=アルカンシェルはもはや純然たる萌えの信徒ではない。
二次元が彼を見捨てたのではない。彼が二次元を裏切ったのだ。
「……主流? ……至上? それらは人気と承認に根ざすものです。あなたが最初に理想に掲げた至純の萌えそのものじゃない。……いつからこんな風に変わってしまったんですか? ティモテ=アルカンシェル」
普通の人なら複数の価値観を持つことは別に悪くないと思う。
でもここが萌えを中心に回る学園で、ティモテ=アルカンシェルはその学園長であり、萌えを真理とした創世樹を維持するために転入生の命を犠牲にし続けている、となると話は違ってくるわよね。
七空学園のヒロインは萌えという価値観を破壊する行動を実行できない。そう設定されている。
だけどティモテ=アルカンシェル本人を萌えの求道者にふさわしくはない、と意義を申し立てることはできる。そうすれば萌え自体を否定することにはならない。
私はこの学園≪せかい≫の根幹にある萌えの力に則り、衰えたティモテ=アルカンシェルを学園長の座から追放する。
多分私たちを創造した時には、自分がこんな風に衰えることになるなんて、若かりしティモテ学園長は考えてもいなかったんだろうな。想定していないことのセキュリティは作れない。
「転げまわるほどの萌えを感じたのはいつのこと? あふれ出る萌えを自分の手で作品の形にしたことは? 他者の創作物を通じて、その熱意に心動かされたことは?」
「……」
「ティモテ=アルカンシェル。自分でももう気づいているでしょう? あなたはもう昔のようには萌えられない」
「んふゥ。最初は……萌えを分かち合える友の存在が純粋に嬉しかったのだよ」
老魔術師は乾いた唇の端を釣り上げる。
「国境を超えて電子の海で語り明かしたあの夜の、なんと楽しかったことか。仲間を見つけた! 魂の故郷を見つけたかのような充足感は忘れられない。自分の考えに賛同してくれる者がいると、抱いた信念が強くなった気がした。そんな気がした……しただけだった! 快適な共感と優しい賞賛が、ジワジワと小生を蝕んだ」
ティモテはギラギラした目つきで歯を向いた。
それが笑いを示しているのか、あるいは怒りを表しているのか、私には判別できなかった。
「はじめは喜びに包まれていた。だが小生の萌えが世間の萌えと乖離した際に、断絶が起きたのだ……。同好の士と出会う前の私ならば、いかなる中傷や侮蔑も恐れずに、己の信じる萌えを胸の奥に誇り高く抱き続けていただろう! ああっ! されど秘匿されていたはずの萌えが多くの目にさらされるようになった今……気になってしまうのだ。美しき萌えそのものよりも、それを眺め評価を下す無数の目のことが!」
他人から与えられる星の数ばかりに気を取られて、自分の心が感じる萌えを蔑ろにした。
真実の美へと通じるドアはこの老いた芸術家の中に確かにあったはずなのに、いつの間にかドアのありかは大勢の他人の評価の向こうにいってしまった。見えなくなってしまった。消えてしまった。
ティモテはもう七空学園の学園長ではいられない。
学園の秩序がどんどんおかしくなっていった。
窓の外では太陽と月が高速で追いかけっこ。
建築物が屈伸運動をはじめる。
私はそれでもティモテから目をそらさなかった。
理由はいたってシンプルで、彼がそこにいたからだ。
「特別に小生の根源へとご招待しよーゥ」
魔術師はマントをひるがえす。
私とティモテ=アルカンシェルは学園とは別の場所に立っていた。
「根源世界。普段は開示されない秘密の場所だ」
罠にはめよう、って雰囲気じゃないみたいね。
そこは窮屈で陰鬱な牢獄だった。厳しい現実をつきつけるような殺伐とした収容所に、ツヤツヤとした不思議なウツボカズラがあちらこちらに垂れ下がっている風景は幻想的ともいえる。
掃き溜めのような空気の中で、誰も座っていない一脚のイスだけがその気高さを失っていない。
空っぽのイスが神々しくさえ見えた。
「さァて、こんな逸話をご存知かね?」
ティモテは話した。
ある大きな戦争が起こり、そのさなか、ある兵隊たちが敵国の捕虜となった。
捕虜生活は悲惨なものだった。自尊心は踏みにじられ、気分は滅入る。灰色の毎日。
彼らの精神を救ったのは奇妙なアイディア。たった一人の、この場には実在しない、理想の美を投影した、淑女を創造することだった。
架空の貴婦人によって、過酷な環境の中でも捕虜たちは正気をたもち紳士的な振る舞いを忘れずに済んだ。
「ふっふ! ……今の小生を彼女が見たら、どう思うかな……」
「あなたはその兵士の一人だったんですか?」
ティモテは悲しげに微笑んだ後、ウィンクをしてみせた。
「それは君のご想像にお任せしよゥ。緑のマドモアゼル。小生は本当に捕虜だったのかもしれないし、捕虜同然の日々をすごしていただけかもしれない」
私はぼんやりと考える。ティモテ=アルカンシェルが興奮気味に胸の内を明かし、私を根源世界にまで連れてきたのは、はたしてどんな理由からなんだろう、って。
物語の終盤で悪役は自分の抱えた問題や背景を語ってきかせる、という世界の約束が作用しているのか。
または、年老いたオタクには創世樹を維持することがもはや熱意ある使命ではなく苦痛に満ちた義務と化していて、若い時に自分が夢想したユートピアを誰かが壊してくれるのを無意識に待っていた、とかね。
「老いさらばえた頭に最新の話題コンテンツを無理して詰めこんでも、本気で好きになれる萌えが見つからない……。見つけられなァい……。自分が何が好きなのか、すっかりわからなくなってしまった」
一人で黙々と彫刻を作り、より高次元な美のイメージをつかむために魔術にさえ手を出した狂気の芸術家。
あの頃のティモテは、人気も売上もメジャーもマイナーも意に介さずに、己の信じる美少女に奉仕し続けることができていた。
皮肉にも同好の士を見つけたことにより、ティモテが大切にする価値観は自分の中の萌えから多数からの承認へと、ゆっくりと移行していった。
「衰えてしまった自分の代わりに、他の人間の萌えをかき集めようとしたのだ。創世樹を使って世界中の人間全てを萌やし尽くせば、至純の美が顕現すると思った」
萌えは冷めやすく移ろいやすい。
キレイだけど不確かなもの。
灰色の毎日に束の間輝いた虹のように、儚くて頼りない。
だからこそ、キャラクターに本気で夢中になる少年少女の情熱は尊いのだと私は思っている。
あの痛さを伴う強い情熱が、私はすごく好き。
「……ここのところ新しい作品の制作に取り組んでいなァいのは、この手を動かさずとも経済的な余裕ができたからではない。そう……悲しいが、認めよゥではないか……。若かりし頃は萌え盛っていたあふれんばかりの創作への情熱は……とうに枯渇したのだと」
根源世界に存在する無人のイスの前で、ティモテは跪いて頭を垂れる。
丸めた背中はいやにちっぽけに見えた。
「申し訳ありません。小生は自分が信じる美にそむきました。今やこの目は濁り曇りきり、小生の灰色の日々を救ってくださった貴女のご尊顔さえも……見えないのです」
根源世界に地震のようなゆらぎが走った。ピシピシと不穏な物音があちこちから聞こえてくる。
作り物の世界が壊れる予兆を感じた。
「虹のユートピアも学園ハーレムも、これでおしまァいだ。ふゥーう……つらい灰色の現実へと帰るとしよう」
ティモテが立ち上がって振り返る。
モノクルの光が反射して私の目を一瞬だけくらませた。あやふやになった視界の中、無人のイスに腰掛ける貴婦人の幻影が見えたような気がした。
貴婦人は寂しそうに、けれどどこか安堵をにじませて、私とティモテに優しく微笑んでいた。
歪に成長した萌えの創世樹に剪定のハサミを入れたのは、他でもないティモテ=アルカンシェル本人。
ティモテの背を押したのは私で、私の原動力になったのは……。
七空学園の2657番目の転入生。
ゴブリン界きっての美男子。
ソーセージにご執心の。
読書家にして皮肉屋。
バザウだった。




