ゴブリンと大いなる奇人
「また実験を邪魔されたです」
地上で育成中だった創世樹が枯らされた。デンゼン=ヤグァラが育んでいた強さの木だ。
実に不当なことだ、とチリル=チル=テッチェは憤慨した。だがチリルが抱いた怒りや憎悪は、すぐに意志の原動力へと転換される。
「いかなる苦難も、チリルの計画を止めることはできぬです」
チリルは世界を作り変える計画を進めていた。片割れであるルネをふくめて、すべての神々を敵に回しても。
こうしている間にも、チリルの頭の角には心持つ誰かの嘆きが届く。
慟哭が。苦悶の呻きが。助けを求める声が。
「……この世界は容赦なく過酷です。小さな心たちは、無惨に踏みにじられてしまう。それはとても悲しいことです……」
チリルは決意を新たにする。
状況は良いとはいえない。心たちがあげる悲鳴は止むことはなく、冷酷非情な他の神々からチリルへの妨害もある。
だが、ここで屈するわけにはいかない。心の神である自分が立ち上がらなければ。心こそが至高のものであり世界の原理となる、そんな幸福な世界を作るために。
それがチリル=チル=テッチェの望みだった。
チリルの実験室は象徴的な空間に囲まれている。実験室の外にどんな光景が広がっているかは固定されていない。
今日の風景は静謐に包まれた庭園だった。数学の技法によって庭園は極めて人工的に整備されている。植物は幾何学的に刈りこまれ、一分の隙もなく整備されていた。
この空間に招待した者と向き合って、チリルはおもむろに口を開いた。
「ルネ=シュシュ=シャンテにそそのかされて、君は今まで動いてきた。そうですね?」
チリルは庭園のテーブルごしに向かい合っていた。ゴブリンの青年と。
バザウ。彼の魂からはチリルがよく馴染んだ実験室の空気の香りがした。チリルが創世樹の苗木を作る前段階で手がけた一つの実験。ルネによって台無しにされた、あのF1種実験だ。彼はその時の失敗から偶然発生した特異な存在だった。
「今度は自分の意志で創世樹計画を妨害しようと決断したそうですね。……ひとまずは意志を司る者として拍手でもしておくです。しかし、自分がどういうことをしているのか、本当にわかっているのです?」
枯れた木とその宿主を思い、意志の神はバザウを問い詰める。
「誰かが人生をかけてまで信じているものに、泥を塗りツバを吐きかけて愚弄して回るその行為が、正当で有意義なものであると。本心から胸を張りそう言えるだけの強い意志が、君にはあるのですか?」
***
イメージの断片が風に舞う花弁のようにどこまでも自由な膨張と収束に遊ぶのはサローダーの笑顔が蜂の大群を呼び寄せて不穏な羽音に嫌な予感がしていてもたってもいられなくなるほどプロンのことを案じても生死の条理に抗うことはできずフズはスクランブル・エッグになってゴブリンと人間の境界線の上に腰掛けコンスタントから文字を習い口にできない思いを紙に綴るのは真夜中の箱庭でジョンブリアンへの思慕とルネの奸計で幕を開けるネグリタ=アモルの三文芝居から歪んだ母子関係でデンゼン=ヤグァラが生誕し未だ顔をしらぬはずのチリル=チル=テッチェが庭園でバザウに何事かを語りかけるのは。
これは夢だからだ。
(これは夢)
バザウが漠然とそう認識した途端、混濁とした世界は明確な輪郭を持ち始める。
雲の上で誰かがイタズラっぽい笑みを浮かべ、盛大に種子をぶちまける。まどろみの中でそんな画面が見えた。
もっと詳しく見ていたいと思うのに加速度的に分離が連鎖する。
同じ色だった赤と緑が別物になり、ソーセージとベーコンは袂を分かつ。快と不快が区別され、自己とその他という概念が確立される。
「……」
バザウは目を開けた。
目覚めた直後のごく短い時間。頭はまだ半分夢うつつ、自分が何者かさえ認識できない。
やがて意識が本格的に覚醒し、バザウの自我と肉体がすっと一つのものになる。ごく自然に、とどこおりもなく、当然のように。
なんのことはない。いつもの目覚めだ。
(……腹が減った)
腸がグルリとわなないた。
バザウは放浪を続けた。ルネの案内を断り、行く先を決めるのは己の意志と足が頼り。
旅は順調で、単調すぎた。神に導かれていた時のように、ハッとするような偶然の出会いや強い縁を感じることもない。創世樹の手がかりを得ることもない。
バザウは思いしらされた。ルネ=シュシュ=シャンテの性根は劣悪であるが、それでもたしかに超常の視点と感覚を持ち合わせていた神だったのだと。
(創世樹は強い思いを養分とし……、思考の根を周囲に広げていく……)
バザウは知恵という武器に頼る。
極端な考えに染まった地域や集団は、チリルの創世樹計画の影響を受けているかもしれない。実際に直面したことのあるケースとして、真実の愛の箱庭では恋愛が、天空の山岳では強さが、そのコミュニティの価値観を決めていた。
だが神の視野を持たないゴブリンが知性によって割り出せる推論と予測は、しょせんそこまでだ。
どこにいけば良いのか、どのタイミングで訪れるのがベストなのか、ピンポイントで割り出せたりはしない。
バザウは旅を続けた。自分がしていることに、かすかな疑念とチクリとした罪悪感を抱いたけれど。
深い森を抜け。人の街を盗み見て。
旅路の果てに得られたものは、数えきれぬ無駄足だけ。
バザウは人里近くの草むらで足を休めていた。
(困ったな……)
旅を続けるうちに、歪んだ思い込みがはびこるのはなにも創世樹のせいだけではない、ということがよくわかってきた。
チリル=チル=テッチェが陰謀を企てずとも、人は極端な信念にしがみついて自縄自縛に陥ることもあるようだ。そういうものをバザウはたくさん目にすることになった。
ゴブリンもかなり頻繁に考え違いをするくせに、人間ほど自分自身の考えで苦しまない。たいていのゴブリンは、自分の考えが自分を苦しめているとわかった瞬間に、その信念をポイと簡単に捨てられる。ほじったハナクソを飛ばすように。
この広大な世界から創世樹の宿主を割り出すのは、途方に暮れるような話だった。
それでもルネに泣きつく気もなければ、チリルの計画を忘れるつもりもなかった。自分の考えが自分自身を苦しめているとわかった瞬間に、その信念をポイと捨てられるほど、バザウはゴブリンとして成熟していなかった。
(……この広大な世界から?)
ふとバザウは疑問にかられた。
自分はどれだけ、この世界を精確に認識しているのかと。
草かげから見える道では牛飼いの人間が歩いていた。はぐれた牛を探している者、力づくで牛にしがみつく者、上手く牛を手懐けている者、悠々と牛の背に乗っている者もいる。
おかしいのは、牛の頭にこの土地のゴブリンがくったりと身を預けていることだ。無害なゴブリンとして人間たちに認知されているのか放っておかれている。牛の上のゴブリンは呆けた顔をしながら鼻をほじっていた。ハナクソの欠片が地面にポトリと落ちた。
その落下が、バザウの目にはやけに鮮明に映った。
バザウが牛飼いの一団を見たのはほんの十秒ほどの間だったが、その束の間の遭遇はバザウの精神に深い足跡を残していったように思えた。
バザウは改めて自分を取り巻く世界を見た。
すぐそばの朽木からは見たこともないキノコがポコポコ生えている。
プィンと羽音を立てて、虫がバザウの耳のすぐそばを横切る。
空を見上げれば、暗号めいた形象の雲が流れていく。
足元には黒いアリの行列が途切れなく続いていた。
「……」
バザウは感覚の一つ一つに集中してみた。できるだけ自由に意識を遊ばせてみた。何も考えず放心して過ごしてみた。
幼い頃、一人きりで没頭する時にしていたように。あの時の自分は、先入観のない白紙の心で世界に対して向き合っていたではないか。
自分にはどれだけ世界がちゃんと見えているのか再確認したくなって、バザウは地面に目をやった。
転がる小石に茶色い地面。
集中力の賜物なのだろうか。あるいはオーバーヒートした頭が見せた幻覚なのか。
その症状は突然起きた。
身の回りの世界が一変した。いや、世界は何も変わっていない。同じ場所でありながらバザウが見ている光景が急変したのだ。
ちっぽけな石に小指の爪の先より小さな土塊。粉っぽいきめ細かな土。草の実や虫の卵。木の葉の葉脈。雑草の繊毛。それら微細なものが、まるで自分と同じ大きさに感じられる。
「!」
自分が非常に小さくなった感覚に恐怖して、バザウは目を閉じた。軽い頭痛がした。動いたわけではないのに、心臓の鼓動が早くなっている。指先が震えていることに気づく。
(手が……)
バザウは固く拳を握ってから、ゆっくりと指を広げていく。その手を完全に開いた時には、奇妙で異常な感覚は朝の目覚めのように消え去った。
バザウは安堵の息をつく。
考え事に没頭した経験は何度もあるが、これはいつもの思索とは明らかに違っていた。
(なんだこれは)
いぶかしんだが、その後もバザウは時々精神を集中させた。そうすると体が極小になったり、自分の居場所を上空から見下ろしている気がしてくるのだ。
それを続ける内にバザウの勘は鋭くなった。
その日、あの男と出会った時も、バザウは樹木の下で意識を周囲と調和させていた。
誰かが近くにいるのがわかる。人間の男だ。バザウはそのことを聴覚でも嗅覚でも視覚でもない感覚で認識した。
この感覚を正確に言語化するのは難しい。それでもあえて表現を試みるならば、体を超えて拡張されたバザウの精神の縄張りに別の強い精神が立ち入ってくる。そんな感覚に近い。
「……」
バザウはこの場から立ち去ろうか息を殺して潜もうか一瞬思案したが、すぐに取りやめた。
(ムダだな。もう気づかれている。それに……)
回避できないトラブルならば備えるしかない。バザウは座ったままで相手を待った。逃げたり姿を隠さなかったのは、バザウが予兆を感じ取っていたからだ。
この遭遇が、一つの大きな流れのはじまりになる。そういう予感がした。
やがて奇妙な足取りで細身の男がやってきた。バザウの姿を見て、男は自分のヒゲを引っ張りながら笑みを浮かべる。その後でモノクルをギラッと光らせてわざとらしく尋ねた。ゴブリンを相手に、人の言葉で。
「それは我流のメディテーションのつもりかね? ふふーん? その実力で手を出すのは早かろう。まだ基本のプラーナ呼吸法さえ、身についておらんというのにィ?」
(……どうしよう。単語が理解できない)
腹を据えていたはずなのに、そんな決意などは軽くぶっ飛ばすほどの不審人物だった。これ以上関わり合いたくないなという思いと、ツッコミを入れたい衝動と、滴り落ちる冷や汗を抑え、バザウは用心深く相手を観察する。
……待ち望んだ遭遇は、危ないオーラをバリバリに放っている変な男だった。
「小生は真理の追求者。ティモテ=アルカンシェルと名乗っておこーゥか。むろん、開示用の名前だがねェ。んふーふ。魔術師たるもの、そう簡単に秘めたる真名を握らせわせんよ」
「……どうやら自己紹介をしたらしいことはわかったが、いっている内容がさっぱりわからないっ……!」
***
研究所の椅子に座って、チリル=チル=テッチェは満足気につぶやいた。
「ルネ=シュシュ=シャンテの導きで、これまでは有利な相手や創世樹を枯らせる見こみのある相手と遭遇してきたのでしょう。チリルは、小さなゴブリンを打ち負かせるほど強力に育った創世樹をぶつけて、不当な妨害に断固として対抗します」
チリル=チル=テッチェはゴブリン相手でも侮らない。確実な勝利が見込めるカードを使う。バザウにはこの創世樹を枯らすことはできない。
作られた甘い世界に溺れて、その心を至福のうちに溶かされていく。バザウの心はティモテ=アルカンシェルの創世樹の養分となるだろう。
「ティモテ=アルカンシェルは、とっても優秀で行動力と実績のある地球産人類です。チリルが呼び寄せるまでもなく、彼は自力で別世界への扉を叩き続けたほど強い心の持ち主ですから。わはっ! 木を枯らした罪を償う方法の一つは、新たな木の養分となることです」
***
ティモテはぐぐっとバザウに顔を近づける。
彼のモノクルのレンズは七色に輝いていた。
それから一気に背を反らして両手を広げる。
月明かりが作り出した彼の影には、虹の色彩が広がっていた。
「んふーふ、問おーゥ。……美少女は好きかね?」




