ゴブリンと満ち足りた悪魔
「……」
バザウは布切れに地下泉の水をたっぷりと染みこませた。
ポタポタと雫を落としながら、デンゼンの居場所へ戻る。
「デンゼン」
その名を口にするたびにバザウは恐怖する。
もう、二度と、答えが返ってこないのではないかと。
「……ん」
横たわる人影はわずかに身動ぎした。
バザウはホッとして、そのそばに静かにしゃがみこんだ。
「水だ。飲め」
水を含んだ布を口元にあてがってやる。
この方法なら、体を起こさなくとも水が飲める。
このところデンゼンは座る姿勢を維持することさえ困難になっていた。
「痛みは治まったのか」
デンゼンの衰弱の兆候は全身の筋肉の鈍痛からだった。
おそらく飢えに直面した体が、緊急措置として自身の肉を分解していったのだろう。
「ん。最近は、あまり。感じない、な。特に、何も」
痛みが消えたのは良い傾向なのか、あるいは飢餓が進行した症状なのか。
どちらにしろ、バザウにできることは限られている。
バザウはデンゼンの頬に手を当てる。
若者らしいハリのある輝きは失われ、すっかり乾いて皮膚が荒れていた。
触ると皮脂と汚れでザラザラする。けれど汚いだとか嫌だとかという気持ちは、バザウには微塵もなかった。
「ん。そうやって、なでてもらうと、気持ち良い」
デンゼンの頭がコテッと傾いて、その重みがバザウの手にかかる。
「……そうか」
そうすることで苦痛を少しでも減らせるのなら、腕がしびれようとも、ずっと彼の体をなでてやりたい。
バザウはそう思った。
もはや正常な睡眠というより、疲労の末の気絶といった方が適切だろう。
バザウは泥のような眠りからポッと意識の芽を出した。
目が覚めて最初にすることは、デンゼンがちゃんと息をしているかの確認だ。
洞窟に閉じこめられ携帯食が尽きてから、彼の衰弱は著しかった。
ある特定の肉しか糧にできないデンゼンと違い、ゴブリンは毒キノコはおろか、その気になれば有機質豊富な土を食べてでも生きられる。
「……なあ、デンゼン」
右手に黒曜石のナイフを握りしめ、バザウは自分の指先に目を落としていた。
ほんの少し、ちょっとだけ、削ぎ取るぐらいなら。
「お前……、ゴブリンの肉は食べられるのか」
普段とは違う重い空気を感じとったのか、デンゼンは寝返りを打った後、苦労しながら体を起こす。
「んん……」
暗く思いつめたバザウの表情を目にし、デンゼンは困ったような顔をする。
彼が築いてきた人間関係はひどく単純なものばかりで、くり返してきた人生経験はとても浅い。
嫌なもの、邪魔なもの、不愉快なものは拳を振りかざして追い払ってきた。
慣れ親しんだ暴力という解決方法が使えないと、デンゼンはかなりの時間、ただ硬直する。
「えっと」
長い逡巡の後で、デンゼンはバザウの片手をとった。
デンゼンの手の甲には骨がくっきりと浮き出ていたが、そうなってもなおバザウの手より大きい。
「がぶ」
わかりやすい声マネをして、デンゼンはバザウの小さな手をかじるフリをしてみせた。
しばしの沈黙の後、彼は少し気まずそうに説明した。
「ん。これは……冗談……。っていうのに、俺も挑戦してみた。ちゃんと、上手に、できてた?」
痩せこけた頬をなでてやると、デンゼンは気持ち良さそうに目を閉じる。
心から人を信頼した獣の素振りに似ていた。
人と獣ではなく、ゴブリンと人間なのだが。
「……ちっぽけな俺の肉片じゃあ、お前の小腹を満たしてやることもできないんだな」
自分たちはなんと非力で卑小なことか。バザウは無力感に打ちのめされそうになる。
デンゼンが強さや暴力の通じない状況に置かれているのと同様に、バザウもまた知恵や工夫ではどうしようもできない局面に直面していた。
閉じこめられてから、どれだけの時間が経過したのか。
重い足取りでバザウは地下泉の水を持ってくる。
「……」
バザウはデンゼンのそばにしゃがみこむ。
いつものように水を含んだ布をデンゼンに吸わせようとして、異変に気づく。
黒く小さな虫の列が、デンゼンの体に続いている。
アリに喰われているのだ。
その瞬間、バザウは理性を放棄した。
「っ!」
横たわるデンゼンの体を力尽くで引き起こし、アリのたかる場所を無我夢中で手で払い落とした。
「……バザウ、それ、ちょっと痛い」
正気を取り戻すことができたのは、デンゼンの声がしたからだ。
もう自力で寝返りをうつことさえ困難なのだろう。
重度の床ずれを起こし痛々しく皮膚がめくれていた。褥瘡だ。
「……気がつかなくて、すまない。今、傷を診る」
バザウにできることなど、たかがしれている。
せいぜい膿や泥を落として、傷口を清潔にしてやるぐらいだ。
魔法のように完治させることも、元のような壮健な体に変えてやることもできない。
それでも、デンゼンのために何かせずにはいられなかった。
「不思議だ」
なすがままに傷の手当を受けながら、かすれた声でデンゼンがつぶやく。
「俺は、もう、強くない。弱くなった。とても。だから不思議。バザウが、どうして、まだ、俺に親切にしてくれるのか……」
デンゼンの心臓がドクッと脈打ち、そこから四方八方へ木の根が伸びていく幻影が見えた。
(汚泥の底か)
バザウは濁った水の中にいた。
正確には、濁った水というイメージの世界にいた。
呼吸に困ることはないし、汚い水の中だというのに周囲の様子は手に取るようにわかる。
(価値観の基板あるいは記憶の幻燈……。誰かの夢に迷いこんだようなものだ)
創世樹の根源世界。
誰の心に入りこんでしまったのかは、わかりきったことだ。
(さて……。当のデンゼンはどこにいるんだ?)
バザウが意識を集中すると、水面へ浮上していく感覚に変わる。
つぱ、と汚水を雫の玉に変え、巨大な植物の葉が開いた。
「……」
バザウはしばらく自分の格好を観察した。
「これは……、どんな宗教だ」
ここはデンゼンの精神世界。
デンゼンの目にはバザウがこう映っている、ということだろう。
「バザウ。キレイで小さな俺の神」
ゴミだらけのスラムの川辺に元気だった頃の姿のデンゼンが佇んでいる。
排気ガスの臭いのする街には、バザウとデンゼン以外の人影はない。
虚構の都市には悪夢めいた不自然さで樹木が乱立していた。
荒れ果てたスラムの廃墟も、川の向こう側で輝く近代的な建造物も、建物は樹木の根で貫かれている。
雲の代わりに、枝葉がこんもりと浮かんでいるありさまだ。
巨大でとても力強いコカの森。
「あれが……、お前の創世樹だったのか」
「ん。でも、どうせもう枯れかけ」
雲が雨を降らすように、枯れ葉が一枚空から落ちてきた。バザウはそれを掌で受け止める。
「おい、デンゼン。こっちにこい」
デンゼンはたじろいだ。彼は水が苦手だ。
「恐れるな。ここは心の世界なのだから、溺れる心配はないぞ」
バザウはデンゼンにむかって手を伸ばす。
水にビクビクしながらもデンゼンは葉の上に乗る。
汚濁の上に浮く大きな葉は、二人分の重みにやすやすと耐えた。
「バザウ。俺、一番強い男になりたくて、何度も何度も死ぬと生きるの、繰り返した。けど、それ全部ムダ、だった……?」
「経験の内で……、何が有意義で何か無意味かを判別するのは非常に難しい。もし得意気に断言できるヤツがいたら……、ソイツはたいしてものを考えていないか、単に自分のモノサシを使ってみたくてウズウズしていただけなんだろうよ」
コツ、とバザウの頭がデンゼンの体にあたる。
「ただ……、あくまでも俺個人の主観でいわせてもらえば……、俺にとってはお前の転生はムダではない。膨大な犠牲の上に成り立っていたとしても、俺の中にある単純で素直なゴブリンの心はお前と会えたことを喜んでいる。俺とお前が歩んできた道が交差した。キレイなことばかりでもなかったが……、お前と会って絆を持ったことを後悔する気はない」
たとえその先に血反吐にまみれた末路が待ち受けていたとしても。
この時バザウは心からそういったのだが、この直後のデンゼンのセリフで一瞬だけ後悔しそうになる。
「そうか! 許されるなら、俺、バザウに、キスしたい!」
「な、なな、なっ……んっ!? だとぉ!?」
バザウ、予期せぬ発言にコミカルなリアクションでのけぞる。
種族を超えた友情は歓迎だが、同性とディープな愛情を育む気は頭の毛ほどもないのである。
思わず、ここにはいないプロンやジョンブリアンやピーチ・メルバたちに助けを求めたくなった。
「う……? うーん……?? え、ええぇ……??? ……だって、お前……。ええ? ……ちょ、ちょっと考えさせてくれ……」
「ん!」
頭を抱えてバザウは返事を考える。
第一に、恋愛感情とは絶対に違うものの、こちらもデンゼンに深い親愛の情を感じてはいる。
第二に、これまでデンゼンはバザウの頼み事には文句もいわず、忠実に引き受けてくれた。
そして何より。
「……」
彼は死にかけの身だ。
「わかっ……た。……口以外の場所になら、許可してやらないこともない……」
それが最大限の譲歩である。
「ん。ありがとう、バザウ」
デンゼンが背を曲げた。
もう少しでバザウの目蓋に触れそうになる。
「っ……!」
だが彼はそこにキスするのはやめたらしい。デンゼンはさらに膝を屈する。
バザウの手の甲に唇が近づく。
「……?」
それも途中で考え直したようだ。
デンゼンは体を低くして、うやうやしくバザウの足先に手で触れる。
ハスの露で濡れたヒスイ色の素足。
神聖なものに触れるように、デンゼンはひれ伏しながら静かな崇拝のキスを落とした。
「……」
「バザウ。俺の神。俺を照らしてくれた者」
デンゼンがバザウに対して抱いていたのは恋愛感情でもなければ、ましてや肉欲でもない。信仰心だ。
この男はただひたすらにバザウを神と崇めた。
その根底にあるのは、どれだけ歪んで歪んで歪みきっても、消し去ることはできなかった幼子の思慕。
「俺が本当に。本当に魂からほしかったものは……。男たちが競い合う、強さの果てに、あるわけじゃなくて……」
デンゼンは、柔らかで温かく良い匂いのする何かに触れてみたかった。
母が息子にそそぐような、そんな愛情に触れてみたかった。
デンゼン=ヤグァラ。彼が本当に求め必要としていたのは、家族の愛情であって、人外の域に達した強さではなかった。
ぽつり、とデンゼンが苦い記憶を語ってくれた。
「俺の、一番はじめの人生のこと。まだ、ほんのチビだった。ある夜、死について考えて出して、俺は、無性に、怖くなった」
そんな晩は、バザウにも子供の頃にあった。
バザウの母は逝去していた。一人で死を考える夜。
孤高を気取っていたが、幼いバザウはサローダー親子に助けられていたのだ。ただその時は未熟すぎて、彼らの優しさに気づかなかっただけで。
「俺は、眠れなくて、母親の寝てる、ベッドに近づいた」
デンゼンは働き疲れている母に多くは望まない。
ほんの数分、いや数秒で良い。頭や手に柔らかく触れてもらい、温かい言葉をかけてもらえれば良かったのだ。
「母親が、俺に、気づく……。ニヤッと笑って、あの女、こういった。抱いてほしければ、金を持ってこい、と……。まだ、ガキだった俺に」
その言葉がどういう意味合いだったのか、バザウは察した。
「あの女は、そして、一人で寝てしまった。結局あの晩、俺は眠れなかった」
デンゼンがバザウにもたれかかる。
「こんな風に、死んでくのは、変な感じがする」
うわ言のようにぼんやりとデンゼンがつぶやく。
心の世界ではデンゼンは健康そうな姿をしているが、現実世界の彼は死に瀕しているのだ。
「……苦しいのか」
「ん、違う。俺、いつもは、戦いで……、負けて、ケガで、死ぬから。……こんな風に、ゆっくりした死は……変な感じ。でも、嫌じゃない」
弱った動物が本当に信頼している者に身を預けるように、デンゼンはバザウの小さな体に寄りかかった。
「心残りは、俺がいなくなって、バザウが暗い洞窟、取り残されること」
「……お前は充分俺によくしてくれた。何も思い悩むことはない。ゆっくりと休め」
「……ん。あの晩……、結局、俺は、眠れなかった。でも……これで、ようやく……俺、眠れる」
巨大に育った枯れかけの創世樹も、スラムの町並みも、不浄の川も、ハスの葉も。
デンゼン=ヤグァラ。彼の心の中にあった何もかもが、さぁっと霧散していく。
一人の男の心の風景は消え去り、現実の世界が戻ってきた。
陰気な洞窟。
かつて悪魔と呼ばれた者の抜け殻。
そして一人ぼっちになったゴブリン。
バザウはデンゼンの目蓋をそっと閉じてやった。
まだほのかに体温が残る体も、いずれは冷えて硬くなる。
その前に、バザウはデンゼンの亡骸をできるだけ安らかそうな姿勢に整えてやった。
「お休み、デンゼン」
これでもうデンゼンが強さを求めて異常な転生をくり返すことはないだろう。バザウはそう感じた。
ただ母親に愛されたくて強くなりたいと願った少年に、意志の神はあまりにも重い枷を与えた。
「……チリル=チル=テッチェ」
漠然としたイメージしかなかったその名前。
バザウは今はじめて強い感情を伴わせ、その神の名を口にした。




