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バザウ、君は賢すぎる  作者: 下山 辰季
第四部

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52/115

ゴブリンと人々の恐慌

 よく晴れた午後。バザウはデンゼンの家に重く降り積もったホコリを落としていた。

 ハタキを軽快に動かしながら、バザウは窓辺へと近寄った。

 窓といっても透きとおったガラスなどははまっていない。構造としては小さな木製の戸に近いだろうか。木の板はピタリと閉まっている。


「よい……、しょっ! と」


 がたつく窓を開けて風とおしを良くする。長いこと閉ざされたままだったのだろう。ホコリがぶわっと舞い上がる。


「うわっ」


 射しこんだ太陽の光が、浮かぶホコリの一つ一つに反射する。

 バザウはしばし掃除の手を休め、光を浴びてゆっくりと空気の中を流れていくホコリを眺めた。


(ククッ……、おかしいな。とても汚れているはずなのに、なかなかキレイな光景じゃないか)


「バザウ。そんなことをする必要、ないのに」


 掃除の邪魔になる、と庭先に追い出されていたデンゼンが窓越しに口を挟む。


「家なんて、屋根と壁さえあれば良い。それ以外は、外と同じ」


「……デンゼン。泊まる場所を提供してもらっておきながら、こんなことをいうのは気が引けるのだが……、いわせてもらおう。一晩この家で寝ただけで、俺は七箇所もダニに血を吸われたのだぞ」


 二つ連続して並んだ小さな赤い腫れ。ダニの被害の特徴だ。

 バザウの腕や脚にはそんな噛み跡がいくつも残されていた。


「ふう……。どうにかこれで少しはマシになったな」


 バザウの労働によって、デンゼンの家はそこそこ人間の住む場所らしくなった。


「……」


 立ち入ることを禁じられた、あの地下以外は。


「もうすぐ。そろそろ。儀式の、季節」


 いつの間にかデンゼンが屋内へと入っていた。彼は音もなく移動する。


「そうして、俺は、人になる」


「ああ……」


 彼のつぶやきで、バザウはこの青年と共にいる理由を思い出した。


「部族の成人の儀だな」


「ん」


 村はゴタゴタしていて、いくらそれが伝統的な行事とはいえ、通常どおりに進むとは断言できない状態だ。

 デンゼンと対立関係にあるシャーマンのテオシントがどう動くのかも気になった。


「……そうだな。俺もお前の晴れ舞台を心待ちにしている」


 それでもバザウは、いまだ英雄にならざる未熟で野蛮な魂に微笑みかけた。




 そう。村はまったく様変わりしてしまった。

 武装したドワーフの一団が我が物顔で闊歩している。

 むろん彼らが村人を傷つけるはずはないのだが、常に武器を持ち歩くその姿はそれだけでものものしい威圧感を放つ。

 怒れるドワーフたちが村にいるためか、このところ人喰いの獣が村の付近には現れていない。

 接近が減っただけで、依然として獣はこの山にうろついている。腹をすかせて。


(食事を邪魔されるなんて、獣にとっては災難でしかないだろうな)


 もっともドワーフたちの意気ごみの高さに反して、獣討伐の成果は一向に上がらない。そんな状況が続いた。

 村人にとっては不安の日々。

 ドワーフにとってはイラ立ちの日々。

 バザウにとっては……。


「何も……、夜に出歩くことはなかろう」


 昼夜を問わずに野山へ繰り出そうとするデンゼンをバザウは引きとめようとする。


「俺の狩り、夜にはかどる」


 デンゼンの住まいは村の城壁と一体化していた。村側と山側にそれぞれドアがついている。デンゼンはいつでも好きな時に村に出入りができる。


(……村人やドワーフにしられることもなく……)


 デンゼンの行動をしっているのはバザウだけだ。

 手際良く狩りの支度を整えるデンゼン。

 その背中をバザウは見ていた。

 腕を動かすたびに複雑に隆起する、たくましい肩。

 肘から手にかけて、汚れたボロ布が巻きつけてある。

 デンゼンの手は大きくて分厚い。骨も皮膚もたいそう頑丈にできている。

 この手は、これまで数え切れぬほどの獲物の命を絶ってきたのだろう。


「バザウ」


 デンゼンに声をかけられ、バザウは視線を彼の手から顔へと移動させた。


「……やはり今夜も出かけるのか……」


 バザウはため息をつく。

 そうしてみたところで、デンゼンの行動を変えられるわけではないのだが。


「バザウ。何も、心配ない。俺は、平気!」


(ほらな)


 バザウはプイとそっぽをむいた。

 見当違いの励ましが返ってくるだけだ。


「ん、と。バザウ、それじゃ、いってくる」


 結局デンゼンは夜の山へと消えていってしまうのだ。




 デンゼンの遠出は何晩にもわたるものだった。

 音沙汰一つよこさない。


「……チッ」


 窓辺に椅子を持ってきて、ずっと夜闇を見つめ続けていたバザウが急に席を立つ。

 深い闇の中にチラチラとゆれる赤い炎の列を見たからだ。

 ドワーフたちは暗い場所でも問題なくものが見えるが、夜間の探索の際にはああして松明を携えていく。

 獣は火を恐れるという発想のもとでの行動らしい。村で待機している者への合図も兼ねている。


(デンゼンのヤツは何をしているんだ)


 バザウはほとんどふて寝のような眠りについた。




 気だるい夕暮れ。

 ボロボロだったデンゼンの家は、もはや掃除すべきところがない。

 そしてこの家の主の姿もない。


「……」


 すっかりホコリが落とされた部屋の中、バザウは椅子に座っている。

 開けてある木の窓からは西からの赤い光が射しこんでいた。


 ゾッとするような冷気が、バザウの足にまとわりつく。バザウは反射的に足首を振った。

 地下室から漏れ出た冷たい空気が、床を低く這っているのだろう。

 バザウは椅子から立ち上がり静かに床に足をおろした。床は異様に冷たくて、家畜の柔皮で作った白い薄靴をとおして寒さが伝わってくる。


「……」


 引き寄せられるように。

 バザウは禁じられた場所の前にきていた。


 地下室の入り口は閉ざされている。


 だが、カギなどはかけられていない。

 扉が特別重いということもない。


 バザウさえその気になれば、簡単に開けられる。

 すぐにでも。


 バザウの指が扉の取っ手に触れるか触れないか。

 それと同時に村中にガロガロと響く音。警告の鐘が打ち鳴らされる。


(……厄介なことが起きたようだな)


 切迫した怒号と悲鳴が飛びかう。


(楽しい楽しい地下室の掃除と点検は、後回しだ)


 黒曜石の短剣があることだけを確かめて、バザウは村の中心部へと急いだ。




「人喰いの獣! 人喰いの獣が出た!!」


 そう叫びながら中年の女がかけていく。

 腕には泣きじゃくる子供を抱いて。


「……防護壁が突破されたのか……」


 バザウの姿を見て、ドワーフの一人が敵意をあらわにする。


「頂の民を惑わした卑しいゴブリン。よくも抜け抜けと我らの前に姿を見せられたものだ!」


 バザウは軽くあしらった。


「俺に睨みをきかせるのは勝手だが……。あの血に飢えた猛獣からよそ見をしている間に、その短い首が胴体から離れてもしらんぞ」


「チッ。口ばかり達者な奴じゃ」


 ドワーフは不服そうだったが、それ以上バザウに構うことはなかった。

 彼らは頑固で強情だが愚か者ではない。今何をするべきかはわかっている。


(厳重な警戒体制が裏目に出たか。空腹のあまり強引な手段に出たようだな……)


 空腹を満たせない焦燥が獣をさらなる凶行へと走らせた。

 防護壁を飛び越え、獣は村の中へと侵入した。


 畑仕事や家畜の世話をしていた村人たちが、安全な場所を探して逃げ惑う。

 夕暮れの太陽は、無慈悲に赤々と照っている。


「ええいっ、逃すでないぞ! 被害が出る前に憎き獣の息の根を止めるのだ!」


 村の警備にあたっていたドワーフたちが果敢に応戦する。

 が、とうてい獣の俊敏さには追いつけない。

 素早い動きに翻弄され、やみくもに体力を減らすだけだった。



「ッ! 屋根の上に登りおった!」


 黒い斑点を背負った巨体が跳躍し民家の屋根へと着地する。

 小さな日干しレンガの家は、恐怖に震えるかのようにパラパラと土塊を落とす。


 獣が背をしならせて爪を振るう。

 木の板を重ねただけの簡素な屋根だ。たやすく砕け散る。


 太い前足が、屋根に開けた穴に入りこんだ。

 家の中から老人や子供の悲鳴が上がる。


「何をしておるーっ! じきに屋根が壊される。早く逃げんかー!」


 ドアはガタガタ揺れるだけで、開く気配はない。


「……ドアの前にバリケードを置きすぎたんだ」


 老人や子供が、獣から身を守ろうとして。

 だがその防衛行為が仇となった。


「ワシの斧でドアをぶち破る!!」


 ドスドスとかけ出したドワーフの後をバザウも追う。


「なんじゃ、ゴブリン! ついてくるな!」


「それは失礼。ドアを壊す時、アンタが無防備になるんじゃないかと思ってな」


 疾走しながら、バザウは黒曜石のナイフを握り直す。


「俺としては、この世からドワーフが何人いなくなろうと関係ない……。あの家に住んでる心臓の弱いばあさんといたいけなチビどもに、むごたらしい光景を見せたくはないのでな」


「……口の減らぬゴブリンめ。好きにするが良い。途中で怖気づいて、尻尾を巻いて逃げるでないぞ」


「フン……。ドワーフを裏切ることはあっても、救いを求める村人を裏切りはしない。これでも俺は……、この村の守り神なんでな!」


 着飾ったゴブリンと武装したドワーフが並走する。

 またと見られない奇妙な絵面だ。

 ドワーフは全力でドアへとむかっていく。

 バザウは屋根の上の獣から、決して視線を外さない。


「離れろーっ!! このドアを壊ああぁす!!」


 ドワーウが大声を張り上げ、斧を振りかぶる。

 その膂力は凄まじく、ゴブリンや人間の力とは比べ物にならないものだった。

 ドアの前に積まれていた椅子やら棚が、ドアもろとも吹き飛んだ。

 衝撃に、人喰いの獣は姿勢を低くして屋根の上にしがみつく。


(この獣、巨体でいながら、かなり身軽で素早い……)


 もしもここでうかつに家から飛び出せば、獣はすぐさま屋根から降りて獲物を狩ることだろう。

 家の中には、すっかり怯えた様子の痩せた老婆と彼女の孫がいた。赤い帽子の少女とまだ幼い弟。


「……」


 バザウはすぐには声をかけなかった。待て、という風に手で制する。

 屋根の上にいる獣の動きに注意を払いながら、合図をするタイミングを慎重にうかがう。

 屋根板の裂け目に、獣が無理やり体をこじ入れる。

 壊れかけの木材がかえしのように絡みつき、しばし獣の動きを封じる。

 この好機をバザウは見逃しはしなかった。


「今だ! 外へ出ろ」


「何をもたもたしとるか! 腰が抜けたぁ? ばあさん、しゃんとせえ!」


 ドワーフが発破をかけているところで、獣が屋根を突き破って落ちてきた。

 木屑やレンガの欠片が巻き上がる。散乱した家具に獣が足をとられる。


「そぅれ、逃げろぉおいっ!」


 ドワーフが老人に活を入れ、バザウは恐怖で足のすくんだ子供たちの手をとって、獣の脅威から離れる。


(開けた見とおしの良い場所では、獣に狩ってくれといっているようなものだ……)


 バザウの先導で、一行は日干しレンガの小さな家々が複雑に入り組んだ路地へと逃げこんだ。


(しかし、どこへいけば……)


 単純な移動速度なら獣の方が格段に速いのだ。

 このままあてもなく逃げていれば、いずれは追いつかれて食べられる。


「……ッ」


 首の後ろ側がビリビリする。

 飢えた獣の気配をそう遠くない場所に感じる。

 この距離が縮んでゼロとなるのは、時間の問題だ。


「村人を連れて先にいけ。緑ぃの」


 ドワーフが路地の途中で急に足を止めた。


「ワシが獣の注意を引く。ドワーフの誇りにかけて!」


 これでもかというほどわかりやすい決死の決意と自己犠牲の精神だ。

 村人たちを先に進ませ、バザウはドワーフへと振り返る。 


「わからないな。誇りのためにむざむざ命を投げ出すのが、お前たちのやり方なのか?」


 戦斧を構えたドワーフは振り返ることはない。


「わかるまいて。我らにとって誇りがいかに重く尊いものか」


 二人が言葉をかわす間にも、腹をすかせた獣は刻一刻と近づいてくる。

 村人たちの生活の場を蹂躙しながら。


挿絵(By みてみん)


 対峙するだけで押し潰されそうなプレッシャー。

 太く頑健な前足が。

 筋肉をまとった骨格が。

 鋭い牙が並んだ大きな口が。

 長い進化の果てに捕食に適応した究極の殺戮肉体器官が、獲物を狩ろうとやってくる。


「戦士として倒れるのなら本望である! ワシに構うことはない! 貴様はさっさと逃げるが良い」


「もちろんそのつもりだ」


 すぐさまバザウは路地を走り、先をいく村人たちの背中を目指す。

 バザウの足ならすぐに追いつくことができた。


「さあ……、もっと遠くへ」


 遅れはじめた子供の手をにぎり、転びそうな老人を支える。

 油断も安心もしてはならない。

 バザウの予測どおり、数秒後にドワーフの大声が響いた。


「ぐああぁあーっ!!」


「見るな」


 ビクッと肩をこわばらせ後ろを見ようとする子供をバザウが制する。


「走れ! ……立ち止まって見物しているようなヒマは、ないのだからな!」


 バザウは走りながら耳だけを後方にむけた。音だけで手に取るように状況がわかる。

 巨体の獣は健在だ。スピードを緩めることなく接近してくる。

 そして……。


「ぬぉおおーっ! なんたることかーっ! このような愚弄と屈辱があって良いものか! 覚悟を決めた戦士の頭をヒョイと飛び越えていくとは! 待てぃ、ケダモノー! 戦えー! 正々堂々とワシと戦わんかー!!」


 憤慨する元気なドワーフの声。


(……うん、そうだろうな。俺が獣の立場ならそうする……。空腹で空腹でどうしようもないって時に、なんでドワーフなんかとやり合わなきゃならないんだ。俺が獣なら……)


 ゴブリンは自然界において捕食者にも被捕食者にもなりうる。

 バザウは腹をすかせた人喰いの獣の気持ちになってみた。


(弱そうなヤツから狙うのがセオリーだろうよ)


 バザウはナイフを持つ手に力をいれた。

 緊張のせいで信じられないほど手が冷たくなっている。それなのに汗ばかりが出て、手が滑りそうになる。

 背後に獣の息遣いが迫る。さっきよりもずっと近くだ。


(村人たちを逃して、牽制と時間稼ぎ……に徹すれば……、どうにか……)


 限りなく少ない勝算を求めて、黒曜石の刃を握る。




 何かが、風を切って飛来する。

 それは見事に獣の鼻面を打ちすえた。

 獣の咆哮が上がる。

 怒りと苦痛に満ちた唸り声。


「いやはや。危ないところでしたね、バザウさま」


 獰猛な村の番犬たちと槍や斧を構えたドワーフ数名の中に、小柄な人影が混ざっていた。

 家畜の皮で作った投石ヒモを手にしたリコだ。


「すまない。お前に助けられた……」


 思わぬ援軍だった。


「今、皆を屋敷に避難させているところです。農民たちの家では、猛り狂った獣を防ぐには脆すぎるようですから」


 リコ・ピンの家は村の中で一番堅牢な建物だった。大きくて壁も屋根も頑丈だ。

 村人やドワーフ全員を収容するとかなり窮屈になるが、一時的な避難場所として全員を中に入れることは不可能ではない。


「さあ、屋敷へ避難してください。どなたでも歓迎いたしますよ。……人喰いの悪魔以外ならね」


 バザウは、リコの様子にほんのかすかな違和感を抱いた。


(父親の仇を前にしている割に、ずいぶんと冷静だな……)


 バザウはリコの横顔をチラリと盗み見た。

 毅然とした表情で獣の動きを警戒している。だが、そこには激情はない。淡々としていた。


(……冷静さをたもっていられるのは、族長としての責任感からか?)


「バザウさま! 早く逃げよう!」


 赤い帽子の少女に強く手を引かれる。


「我が村の生き神さまに何かあっては一大事です。バザウさまは避難場所の屋敷で、動揺している村人の心の支えとなってくださいますようお願いします」


 ゴブリンの身は非力だ。

 体を鍛え武術を身に着けたところで、巨獣に手傷を負わせることすらままならない。

 バザウはゴブリンの中では腕の立つ方だが、決して一騎当千の伝説の猛者ではない。

 ここは身のほどをわきまえて、大人しく村人たちと避難するべきだろう。


「……ああ。リコはどうするんだ?」


「いえー、僕はまだ仕事が残っているので。ドワーフたちと協力し、獣の注意をそらしつつ、残っている者たちを安全な屋敷まで誘導します」


 獣は痛みでひるんだだけで、まだ生きている。

 生きている限り、獣は肉を喰らう必要がある。


「リコ、気をつけろよ」


「嫌だなあ。まだまだこんなところじゃ、くたばっていられませんよ」




 リコ・ピンの屋敷には村中の人間が集められていた。

 ちらほらと負傷者の姿もある。

 たいていは軽いケガで済んでいたが、不幸な何人か、あるいは特別勇敢すぎた何人かは深手を負っていた。

 女たちが集まってケガ人に応急処置をしている。

 村人はささやき合う。


「家畜は食べられちまっただろうか……」

「さて。かわいそうだけども、家畜の肉で満腹になってくれれば御の字だよ」

「どうだろうね……。前にもあのケダモノはやってきた。だけど明らかに家畜より人間の味を好んでいるようだったじゃないか。そのせいで何人も……」

「その話をするのはやめとくれ! ……まだ息子を亡くした傷が癒えてないのさ。若くて勇敢な戦士だったのに……」


 なぜ自分は本当に神ではないのだろう、とバザウは強く思った。

 なまじ賢く、半端に強いだけに、バザウは自分がいかに無力な存在なのかを痛感させられた。

 普通のゴブリンなら、おだてて調子ののせてやれば、たとえドラゴンを目の前にしても、自分なら勝てると幸せに思いこんでいられることだろう。消し炭にされるその瞬間まで。


(俺では……勝てない……)


 注意深く立ち回れば、威嚇や牽制、囮程度ならできるかもしれない。

 だがあの獣と自分が戦って勝利するイメージが、バザウはどうしても描けなかった。


(俺にはそんな力はない……)


 小さな手がぎゅっとバザウの手をつかんだ。

 少女が一人、バザウのすぐそばにいた。


「バザウさま……、なんだか怖い。……私たち、どうなっちゃうんだろう……」


「……」


 バザウは黙って子供の手を握り返す。

 屋敷は安全な場所だったが、中に集まった人々の心には不安が渦巻いていた。


「大丈夫。ここにいれば安全だ」


「そうよね! バザウさまがいうなら、きっとそうなのよね」


「……ああ」


 神の役を演じるうちに、バザウはずいぶんと作り笑いが上達した。




 太陽が完全に沈む前にリコとドワーフの一団が屋敷へ戻った。

 村人たちは安堵と喜びの声を上げたが、すぐにリコの冷静な報告によって静かになる。


「犬の群れをけしかけましたが、獣の命を奪うには至りませんでした。あの獣は、まだ村の中をうろついています。家畜の避難までは手が回っていません。それと……村人一名の保護が非常に困難な状況であったため、救出を断念しました」


 深く長い沈黙。

 静かだ。

 広い室内にこれだけの人数がひしめいているというのに。


「僕のお爺ちゃんが……」


 子供の涙声が静けさを破る。

 祭りの日に、落ちこむバザウのためにデンゼンを探しに走った少年だった。

 母親は我が子を抱きしめる。

 

 屋敷の外で、獣の気配がした。

 何かを引きずるような音。巨大な体が動き回る音。

 続いて、か細くかすれた人間の声。


 子供がパッと顔を上げた。


「ねえ、聞こえた!? お爺ちゃんの声がした! 生きてるんだ! お爺ちゃんはまだ生きてるんだよ!!」


(……まだ……生かされている……?)


 獣は空腹のはずだ。

 なのになぜ老人を食べずにいるのか。

 取り残された家畜をつかまえることに成功し、獣は飢餓状態からは脱したのかもしれない。

 しかしなぜ生かした状態の人間を他の人間たちが集まっているところにわざわざ連れてきたのか。


「……」


 リコと目が合う。

 彼も同じようなことを考えているようだった。


「今ならまだ間に合うんだ! お願いですっ。お爺ちゃんを助けて!」


 悲痛な懇願が、バザウの耳に突き刺さる。




 バザウの頭に何気ない過去の情景が思い浮かぶ。

 まだ幼いバザウとサローダーが小川で遊んでいる。二人はザリガニ釣りに夢中だった。

 木の枝の竿には、川辺で捕まえた小さな虫がくくりつけられている。


「ヒャッホホーッ!!」


 サローダーはごきげんでザリガニ釣りに興じる。

 本日は鼻を挟まれることもなく好調のようだ。

 バザウはザリガニがかかるのを待ちながら、そんな友の様子を面白く眺めていた。

 がサローダーが急に素っ頓狂な声を上げた。


「れれっ? どこいったった? もうエサ虫が見つかんないないなー」

 

「……エサにするのに手頃な虫は、あらかた採りつくしてしまったんじゃないか?」


「ふーん。そか、そっかー」


 サローダーはすでに捕まえたザリガニの中から、一番小さくて見栄えの悪い一匹をつかみ出した。

 片方のハサミがとれかかってはいるが、まだ生きたザリガニ。

 サローダーはそれを地面に思い切り叩きつけ……。


 こうしてサローダーは、釣りを続けるための新しいエサを確保した。




 バザウは回想から現実へと意識を戻した。


(……人喰いの獣は……、ゴブリンの子供程度には頭が働くのかもしれない……)


 たしかに獣は腹を空かせている。

 だがその空腹は、年寄り一人では到底満たせない。


(より多くの、もっと質の良い食べ物を……獣が求めているのだとしたら……)


 嫌な汗がバザウの額に浮かぶ。

 胸の辺りに何かがつかえる感じがした。


「僕のお爺ちゃんを助けてください!」


 そう。

 こうしている間にも、老人は獣に命を弄ばれている。

 ネコがネズミをわざと殺さずになぶるように。

 そしてその悲鳴を巣穴に逃げこんだネズミたちに聞かせるように。


「お願いだから……」


 怯えさせるためではない。

 人間が抱く家族への感情。その怒りや優しさを利用するつもりなのだろう。


「助けて、あげてよぉ……」


 ついに一人のドワーフが立ち上がった。

 その動きをすぐさまリコが制す。


「何をするつもりですか?」


「決まっておろうが。あの獣の汚らしい牙から、人間を救い出してくる」


 リコは首を横に振る。


「村長として、それは許可できません」


 断固とした口調だった。


「獣は屋敷のすぐ近くにいます。あなたが出入りする際に獣に侵入されたらどうなると思いますか? ここにいるのは、あなたのように勇猛な戦士ばかりではありません。一時の感情で軽はずみな行動を取れば、避難している全員の命が危険にさらされることになります」


 村の誰もが賛同と否定をこめた複雑な顔でリコを見ていた。

 リコの判断は冷徹で、それは村の一人を犠牲にするという非情な宣言だった。だがその冷徹さのおかげで村人の多くは救われる。


「異論がある」


 リコの判断に、別のドワーフが疑問を唱えた。


「無力な者を獣の脅威にさらすわけにはいかん。たしかにその考えには同意できる。しかしだな。獣が立ち去るまでずっとここにこもるというのにも難があるぞ」


 早々に獣が立ち去れば、犠牲は老人一人で済む。

 しかし、もし獣が村から立ち去らなかったら?

 リコ・ピンの屋敷は一時的な避難所にはなるが、さすがに数日間もこの人数を収容することはできない。

 村の中には飲み水や逃げ遅れた家畜が残されているので、獣が長く居つく可能性もある。

 こちらが疲労で憔悴する前に獣を倒すべきだという主張にも一理ある。 


「ワシらは同胞の復讐を果たすためにやってきたのだ。そのことをお忘れか」


 ドワーフとリコが睨み合う。

 村人たちがざわめく。

 赤ん坊がぐずりはじめた。

 少年はとうとうしゃくり上げて涙をこぼす。


「……」


 バザウはこの状況をどうにかしたいと、心から願っていた。

 けれどもバザウは問題の解決の糸口さえも見つけられないでいた。




「っ! おい! 誰か、誰かが獣に近づいとるぞ!」


 窓の隙間から外の惨状をうかがっていた一人のドワーフが大声を出した。

 ドロリと停滞していた屋敷内の空気がガラリと変わる。


「青年……。頂の民の男だ。武器らしいものは何一つ持っとらん。だというのに……、なんだアイツは……ちいとも獣を恐れる素振りはない」


 行き止まりの道に、無理やり突破口をこじ開けるように。

 絡み合った結び目に、鋭く剣を突き立てるかのように。


 あらゆる暴力の権化。

 この世の破壊の象徴。

 デンゼンが現れた。


挿絵(By みてみん)


「バカな……。あの若造はどうかしとる! たった一人で獣とやり合うつもりでおるぞ! 武器も持たずに、味方もなしで!」


(……デンゼン!)


 バザウの心臓が、ドクリと脈打つ。

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