ゴブリンと一度目の笑顔
隠れ家の洞窟からルネが去っても、もはやバザウは退屈ではなくなった。
(デンゼンに何から教えるべきだろう? 立派な戦士として、誇り高き英雄として、ヤツに必要なことは……)
ああでもない、こうでもないと考える。
それは楽しく満ち足りた悩みだった。
(色々計画するのは楽しいな。つい顔がにやけてしまう)
誰も見ていないとわかっていたが、バザウは照れ隠しで口元を覆った。
それでも尖り耳は、ウキウキとしたリズムを刻んで揺れている。
(ああ、俺は本当に嬉しいんだ……。俺が、こんな風に他者を導けるってことが。俺の存在が、誰かにとって良い影響を与えているってことが)
かつてコボルトの少女から孤絶した漂泊者と称されたゴブリンが、今は他の誰かの手をとって明るい場所に導いていこうとしている。
バザウは自分がそんな風に変化するまでに、会ってきた者たちの顔を思い返す。
敵対した者がいて、協力した者もいた。バザウが影響を与えた者がいて、バザウが影響を受けた者もいた。
デンゼン。バザウは彼から何を学び、彼はバザウから何を教わるのだろうか。
過去の回想と、未来への展望。
洞窟の中の時間は静かにグルグルと流れていった。
夜の気配が近づいてきた。
洞窟の中でバザウはなるべく居心地の良い場所を探す。
といっても、どこも岩だらけだったが。
一番快適そうな岩を見つけると、毛皮のマントにしっかり身を包み、横になった。
あまり湿っていなくて、床から高すぎず低すぎず、安定感のある形。
やがて訪れた眠気のままにバザウは目を閉じる。
村では神としてもてはやされる贅沢な暮らしが続いたが、バザウの体は野外での生活を忘れていない。
ぐっすり眠っていても、耳や鼻は無意識に周囲の様子を探っている。
ドワーフの足音や肉食の獣の気配がすれば、たちどころに意識は覚醒し、すぐに体を動かせる。
かといって必要以上にビクビクしているわけではない。
平常心を保ちつつ、危険に注意を払う。
それこそが自然界の一部として生きていくために、身につけておくべき技能だった。
「……?」
眠りの途中、不可解な物音でバザウは目覚めた。
周囲は闇に包まれていた。まだ夜は開けていない。
(なんだ……?)
なるべく音を立てずに、起き上がる。
何かの異変を感じたのだが、その正体は不明瞭だ。
バザウは空気の臭いを慎重に嗅いだ。
(獣ではない。ドワーフや人間でもない……。とすると?)
何かが発する臭いは、ほとんどこの空間に溶けこんでいた。
湿った岩土と硬質な水の臭い。
バザウは聴覚に意識を集中させた。
「……」
ずるずると。
それはほんのかすかな。
粘液質な肉の塊が這いずる音。
「チッ!」
バザウは石の寝床から跳びずさった。
巨大で不気味で静かな脅威が、ゆっくりとにじり寄っていた。
(……たしかにこの洞窟には、危険な生きものは存在していなかった。だが俺とデンゼンは、泉までくまなく点検したわけじゃない)
敵の体は、まだ湿り気をおびていた。
夜の泉から現れて、この洞窟へと這い上がってきたのだろう。
この奇怪な侵入者は。
いうなればそれは巻貝の化物。
(……この泉は清浄すぎた。餌となる水中の生きものが、ほとんど生息していないようだ。だからコイツはわざわざ陸上に進出して食料を求めているというわけか……)
巨大な生きものと対峙するプレッシャーで、嫌な汗がにじんでくる。
捕食、という言葉がバザウの脳裏にちらつく。
ゴブリンはあまり美味なものではないが、味に無頓着な者にとってはそれは些細な問題だ。ゴブリン肉とて貴重な栄養分になる。
巨大な巻貝は、唸りも吠えもしない。
ただ音もなく、じわじわと、逃げ場の限られた洞窟で、小さなゴブリンに近づいていく。
「俺を喰らうつもりか? フン……。この山のヤツらは、そうとう切羽詰った食生活をしているらしい」
軽口を叩き、デンゼンからもらった黒曜石のナイフを抜き放つ。
(動き自体は遅い……。それが逆に……、恐ろしいな)
この生きものは鈍足でありながら、獲物を捕らえるための手段を備えている、ということを示す。
その手段がなんなのか、バザウには予測できない。
考えこんでいる間にも、巨大貝はゆっくりと近づいてきている。
バザウは安全と思えるまで間合いをとってから、牽制と観察を兼ねて小石を投げつけた。
「っ?」
突然の蛍光に目がくらんだ。
貝の軟体部分が激しく明滅。
闇に慣れたゴブリンの知覚を一瞬欺くには、充分だった。
チクリ、とした痛みがふくらはぎに走る。
そう感じた時には、体のバランスを大きく失っていた。
「……っ、な……」
突然の体の異常に頭が混乱する。
片足がしびれ、立つこともままならない。
(神経をマヒさせる毒……。これがコイツの捕食手段というわけか!!)
貝からは二本の管が伸びていた。
一見しただけではわからないが、その先端には毒針が隠されている。
獲物をマヒさせ、動けなくするための毒が。
鈍重な本体の移動速度を補うかのように、触覚や毒管は俊敏に動く。
「……おめでとう、クソ化物。なかなか有意義な能力を進化の過程で獲得したようだな」
つうじるはずもない皮肉を吐くのは、バザウ自身が精神を安定させるためだった。
(恐怖心にかられて、無意味にもがくのは……悪手だ。血の巡りが激しくなれば、それだけ早く毒が全身に回る)
バザウはゆっくり確実に地面を這って、捕食者からの距離を稼いだ。
苦しげな荒い息をついてから、毒針で刺された場所を確認し、脚をヒモできつく縛った。
(そう簡単にくたばってたまるか。ゴブリンのしぶとさをなめてもらっては困る……)
状況を一つずつ判断していけば助かる要素は乏しい。
だがそうした現状とは別に、不思議な確信がバザウにはあった。
予測でも考察でもない、根拠のない確信が。
(……あらゆる理屈を吹っ飛ばして、デンゼン、ヤツは必ずここにくる。だから俺はそれまで持ちこたえる……。フン、笑えるぐらいに簡単なことだ)
己を鼓舞するように黒曜石の刃を握りしめた。
自分の唇を牙で噛むのは、これが何度目だろうか。
鉄の味がバザウの口中に広がった。
まだ意識があることと肉体を動かせることを確認する、単調な作業だ。
(味覚と痛覚が残っていたところで、どうしようもないがな……)
体を自由に動かすことがじょじょに困難になってきた。
なめらかさや精密さ、力の加減といった細やかな動作ができなくなる。
バザウの口元には血がにじんだままだ。
それを舌で舐めとることさえも、もはやおぼつかないのだから。
(……まあ、やっておくだけのことはやった)
あの後バザウは黒曜石のナイフを武器に、どうにか二本の毒管を無効化することに成功した。
代償はさらに数箇所の毒針の注入と、活発に動いたことによるマヒの進行。
ただ生存時間を伸ばすためだけなら、まったくムダで意味のない逆効果の抵抗だ。
しかしバザウはある前提のもとで行動していた。
(デンゼンは、ここにくる。そしてあの化物と戦う)
ただその時のために。
卑劣な貝の毒が、あの若い狩人の命までもからめとってしまわぬように。
(だが、デンゼン。あんまりのんびりしていると、そろそろ運命のボーダーラインに突入しそうだぞ)
力なく横たわるバザウの足先は、すでに軟体質の肉に飲みこまれてかけていた。
(……ふうん。そんなところに口があるのか……)
ぼんやりとした頭で漠然とそんなことを思う。
(多分このままいけば、俺の体は消化液か何かでドロドロに溶かされる……。あるいは硬質な歯でゴリゴリとそぎとられるとか……。いずれにせよ、楽な死に方とは思えないな。食べ尽くされた後の残骸も、キレイなものじゃないだろう)
もしもこの奇怪な軟体動物に食べられてしまったら。
そんな未来予想図がやけに鮮明に思考をよぎる。
これまでバザウという存在を構築していた全ての細胞はバラバラに砕かれる。
化物の消化器官で栄養分として取りこまれ、その血肉の一部となる。
不要な分は排泄される。
かつては、バザウという一人のゴブリンだった命が。
「……ッ、うぅ……っ!」
突然上半身をよじり、バザウはもがいた。
「ぐっ……ぁ」
捕食者との体格差は圧倒的で、バザウが残された体力を振り絞って暴れても、相手はびくともしない。
柔らかくぬめぬめとした重たい肉に、少しずつ少しずつ飲みこまれていく。
「い……ぁ、……だ……っ……」
嫌だ。
命が巡っていくのは自然の摂理で、自分もその環を構成する欠片にすぎないとは頭で理解している。
でも、嫌なのだ。
バザウは自分が生きるために、毎日の何気ない生活の中で、平気で他の生きものの命を簒奪する。
食事に罪悪感は伴わない。むしろそれは日々の楽しみで、味覚は幸福感をもたらす。
だが、食べられるのは嫌だ。
(こんな……)
意識は薄れかけていたが、この思いだけはハッキリしていた。
(こんな生きものの一部になるのは嫌だ! 俺はまだこの世界に、バザウとして存在していたい……!)
洞窟の中に、ざわりと、別の気配が増えた。
怒りに満ちた一匹の獣。黒い宿命を背負って産まれた戦士。
デンゼンは、無意味な動揺やつまらない質問で時間をムダにはしなかった。
彼は普段から言葉を弄するより先に拳を使うことを好んだ。
間髪入れずに猛攻をしかける。
(……これでもう、大丈夫……だ)
朦朧とした意識の中で、拳で奏でる凄惨な独奏会にバザウは耳を傾けた。
青年は必ずや怪物を打ち破ることだろう。
デンゼンはベチャベチャになった白い肉を投げ捨てる。心底忌々しげに。
彼の体は、粘液やら発光液やら得体のしれない細胞組織の残骸で汚れきっていた。
「バザウ」
巨大な怪物を屠ったばかりの勇猛な青年。
今は途方に暮れた頼りない少年の目でバザウを凝視している。
(そんな悲愴な顔をすることもないだろう……)
バザウは多くの言葉をデンゼンにいっぺんに伝えたかった。
命を救ってくれたことの感謝。
一時的に体の自由がきかなくなっているが、その他は特に異常はないという報告。
今でこそ情けなく倒れているが、デンゼンが駆けつける前にはバザウもそれなりに健闘したのだと自慢もしたかった。
けれどそれらを語って聞かせることはできない。
(ダメだ……。舌が上手く動かせない)
マヒ毒の影響で、しばらくはまともに発声するのは無理そうだ。
そんなバザウの様子をデンゼンは心配そうに見ている。
ボロボロの体を休めるためにバザウが眠りに落ちようとするたび、デンゼンは顔色を変えた。
おそらく彼の目には、バザウがそのまま息絶えてしまうかのように見えるのだろう。
(デンゼン。俺は平気だぞ)
バザウは少しだけ顔を動かして、デンゼンと視線を合わせた。
ジッと目を合わせたままで意図的に数度まばたきをしてみせる。
それからしゃべれない代わりにノドと鼻を使って音を出してみた。
バザウの鼻からキツネか何かの鳴き声に似た音がか細く響いた。
(……これで俺に意識があるってことが伝わったかな)
ゴブリンという生きものは大変頑丈でしぶとい。
安心できる場所でゆっくり休養さえできれば、たいていの病気もケガもすぐ治せるものだ。
(見張りを頼む……。しばらく、休みたい)
デンゼンがすぐそこにいるのを再確認すると、バザウは安心して目を閉じた。
この番人がそばにいてくれるのなら、地上のどんな危険地帯でだってバザウは心おきなく熟睡できる。
「……う……ん」
目が覚めた時には、だいぶ気分が良くなっていた。
バザウは猫のように大きなアクビをした。
しばらくボーッとしたまま、快眠の余韻を味わった後、ゆっくりと起き上がる。
「ふぁーあ……。よく寝てしまった」
体に別段おかしな点はない。毒の後遺症も皆無だ。
(むしろ重症なのは……)
デンゼンの方だった。
洞窟のすみで小さくうずくまっているその体。
表情を凍らせて。罰を待つ子供のように。
バザウは一瞬だけ、皮肉やジョークで場の雰囲気を変えようと思ったが、やめておいた。
この猛々しい戦士は元気で単純な明るい好青年ではないのだ。心に暗いものを抱えこんで生きている。
「デンゼン……。どうかしたのか?」
バザウは気遣うように問いかけた。
「……」
返事はない。
バザウは特に答えをせかしはしなかった。
彼が会話の中で押し黙るのは、よくあることだ。
(……歩けるかな?)
地面を踏みしめた足は、最初はどこかフワフワとあやふやだったが、すぐに安定を取り戻した。
バザウはそっと近づいてて、デンゼンの隣に腰を下ろす。
青年はかすれた声で言葉をつむいだ。
「神を……危険な、目に、あわせて、しまった。俺の、大切な、神なのに。この場所は、安全だと、俺は、いったけど。俺の考え、間違っていた。ひどい間違え」
デンゼンの声はあいかわらず単調だった。
その途切れがちな言葉の合間合間に、彼の不安な感情が吹き出しているように聞こえた。
「起きてしまった出来事を悔やむのは、ほどほどにしておいた方が良い。特にそれがすでに解決済みなら」
バザウは洞窟内に散乱している、生きものの残骸を眺めた。ほとんど跡形をとどめていない。
デンゼンはすでに問題を解決済みだ。力によって。
「お前が気を落とすことは何もなかろうに……。ここを隠れ家にしようと提案したのは俺だし、あの貝の化物は洞窟内に生息していたわけじゃない。俺もあんな脅威があるとはまったく思わなかったのだから、お前も気にするな。あの生きものはおそらく夜になると泉の底から陸上に出てきて……、食べものを探すのだろう」
水中には不気味なものが潜んでいる。
デンゼンが水を怖がる心理が少しだけわかった気がする。
以前泉に潜った時に襲撃されなかったのは、とても幸運だった。
「危ないところだったが、今はこうしてピンピンしてる。窮地を救ったのはお前の活躍だ。デンゼン、お前のおかげで助かった。何度礼をいっても足りないぐらいだ」
「……」
デンゼンは目を伏せ、それから切り出した。
「ん……。狂った虹の鳥が……、俺の前に、現れた。鳥は、俺の耳に、不吉な世迷言をささやく。小さなヒスイが、俺の手から、こぼれ落ちていく、と。俺は狂った虹を殺そうとしたが、できなかった。……それから、バザウのことが、気になって、洞窟に走っていった」
バザウはふとルネの話を思い出した。
デンゼンが強さの価値観を持つ創世樹の宿主だということを。
自分はデンゼンのその価値観を変化させる役目にあることを。
「デンゼン、一つお前にいっておきたいことがある。命を救ってくれたことにはもちろん感謝しているが……。お前がここにきてくれただけで、俺は充分嬉しいんだ」
「?」
デンゼンは不思議そうな顔でバザウを見た。
「なんというか……。そうだな……。俺はお前の強さや力そのものよりも、お前の存在や行動こそが大切で意味があると……、そう思っている」
「んん。難しい。俺には、よくわからない」
そうやってうなだれるデンゼンの仕草はどこか子供っぽい。
バザウはニッと笑った。
「ククッ……、そうか。ではお前にもわかる時がくるまで、俺は辛抱強く待つとしよう」
デンゼンは首をかしげる。
「そんな時、くるかな」
「必要ならば、何度だって同じことをお前に教えてやるさ」
バザウはくつろいだ気分で洞窟の壁にもたれた。
「そうだ。忘れてた。バザウ、良いしらせが、ある」
少し離れた場所からのデンゼンの声でバザウは目を覚ました。
壁にもたれたまま、また眠ってしまったのだろう。
(よっぽど疲れていて、すっかり気がゆるんでいた証拠だな)
洞窟の入口にはわずかに朝の光がさしこんでいる。
デンゼンは滝のしぶきがかからないギリギリの場所でしゃがみこみ、一心に何かを続けていた。
「良いしらせ……、とはなんだ?」
「もう、こんなところに、隠れていなくても、平気だ。俺が、平気に、したから」
デンゼンは手を動かしたまま答える。
彼の動きに合わせて、何かが壊れるような音がした。
「バザウ。村に帰ろう。もう大丈夫」
「……? どういう意味だ?」
デンゼンの声色は彼にしては珍しく感情が表れていた。少しだけ誇らしげで嬉しそうだ。
「ん。バザウが、こんな場所に、隠れなくても、平気なように、しておいた」
バザウがこの洞窟に身を隠しているのは、そもそも村にドワーフの行商人がやってくるからだった。
「……しておいた……?」
内容が飲みこめない。
「ん」
デンゼンの短い肯定。
彼は少しだけ立ち上がり、位置を変えてまたしゃがみ直した。
彼の足元がよく見えた。
そこにあったのは、くすんだ白い肉。
昨晩殺した化物の死肉だ。
その肉に、まだ服のボタンほどの大きさの稚貝が泉から這い出て群がっている。
わらわらと。たくさん。おびただしい数が。
「……デンゼン……?」
くしゃり、ぷちっ。
と、音がした。
死肉にたかる小さな肉食の貝をデンゼンはひたすら指で潰している。
彼の周りには、壊れた貝殻と体液のシミが大量にできている。
デンゼンが振り返る。
「アイツら、村にはこない。嫌い、なんだろう? ドワーフたち」
それははじめて見る彼の表情。
頑なに結ばれていた口元がほころんで、穏やかで誇らしげな微笑をたたえていた。




