ゴブリンと一条の希望
神としての豪華な衣装からいつもの旅装束へと着替えたバザウに、若い村長は食べものの入った袋を渡した。
砂糖を振りかけた干し果物や丁寧に燻製した肉など、携行食としては上質なものばかりがそろえられている。
「バザウさまはしばらく村を不在になさるんですね。いやはや、いかなるご理由あってのことでしょう? 危険極まりない人喰いの魔物がうろついているというのに」
「……」
リコがしつこくからんでくる時は、こちらから何か情報を引き出そうとしているのだ。
村人のほとんどが神としてのバザウの存在に慣れていく中、若き村長だけは疑念を完全には捨てていなかった。
「まあ、神ともあろうバザウさまの心配など、一介の人間風情にすぎない僕ごときがすることないですよね。いやー、出過ぎたマネをご容赦ください」
言葉そのものの内容とは裏腹に曲者オーラはたっぷりだ。
「どこかの誰かさんと違って、どうも僕は一切の疑いも持たず純粋に何かを信じるって芸当が、簡単にはできない性分みたいでして。そんな僕にも、神に祈ることが許されるなら……。願わくば、我が村に平穏を。かの悪魔に正しき裁きをお与えください」
その一瞬だけバザウを見据えるリコの目には、今までのふざけた素振りも露骨な猜疑心も消えていた。
「リコ……?」
「なーんて、困った時の神頼みってやつですか? 僕らしくもないことをいっちゃいましたね」
すぐにリコ・ピンは喰えない態度に戻り、わざとらしく頭などかいてみせる。
「バザウさまのお力が我らの側に得られればもう文句なしなのですが、やっぱり自分たちの方でもちゃんと準備しておきますね。悪魔退治の。では、いってらっしゃいませ。バザウさま」
「……ああ」
リコ・ピンの館を後にするバザウ。
その背中に投げかけられたのは、頼りにされているのか当てにされていないのか、まったくわからない言葉。
陽も昇らぬ早朝。吐息は白く、空気は刃のように冷え切っていた。
村はまだ寝静まっており、藍色の淡い光の中で動いている者はバザウだけだ。
(……いや)
バザウは先ほどの認識を訂正する。
自分の他にも動いている者がいた。
(呪術師テオシント……)
朝靄の薄明の中そのシルエットが浮かび上がる。
それは亡霊のようでもあり、幽鬼のようでもあった。
(クソッ! そういえば……ヤツはしっているんだった……)
バザウがゴブリンと呼ばれる存在であることを。
デンゼンとの対立によって、テオシントは村人への影響力を失いかけている。
だが村に訪れるドワーフたちは、おそらくこの対立とは無関係で、中立の立場にいるはずだ。
ドワーフたちは、この力強い呪術師の言葉を聞き入れるかもしれない。
「ヒスイの肌を持つ者。哀れなことだ。今やお前はすっかり黒い流れに絡め取られてしまった」
「ああ、そうだろうよ、呪術師。朝っぱらから嫌なヤツと鉢合わせるってのは、充分悪い流れだな」
この程度の皮肉の応酬はほんの小手調べにすぎない。バザウの舌は次の攻撃を用意している。
「そういうお前こそ、狂った虹色の流れにまんまと乗せられているのではないか?」
「ッ!」
呪術師はあきらかに動揺した。
(……やはりそうか。俺がゴブリンだという情報は、ルネがコイツに吹きこんだと見て間違いないだろう。ルネが何を考えているのかは検討がつかないが……)
そういえば、このところルネと遭遇することが減った。
真実の愛の箱庭にいた時などは、もう二度と視界に入らないでくれと思うほど、あれこれちょっかいを出してきたというのに。
(喜ばしいことだ! ……ともいってられないか)
ルネはバザウの前にはあまり姿を現さず、村の呪術師に接触している。
また目的はわからないがデンゼンを惑わし撹乱した。
ルネは天空の山岳で暗躍している。
そしてルネが握る情報はバザウには示されていない。
(あの禍鳥! 今度はどんな三文芝居の筋書きを演出する気だ?)
真実の愛の箱庭でルネに散々振り回された苦い記憶がよみがえる。
「小さなヒスイ。お前は狂った虹のことをしっているのか?」
現状を理解するための情報がほしいのはバザウだけではなさそうだ。
ルネと接触したと思われるテオシントもまた、より多くの事実を得ようとしている。
(テオシント。コイツもルネがあやつる駒の一つということか……。ご愁傷さま)
両者の役目や目的は伏せられているが、ルネの手の平の上で踊る駒という点では立場は同じである。
(……無理に敵対する必要もないのか? むしろここは協調して、情報交換ができれば……)
バザウの頭はどう転んだ方が自分にとって有利かと損得を算段する。
おそらくテオシントの方でも似たようなことを考えているのだろう。
「おはよう、おはよう、ご機嫌よう。まったく気持ちの良い朝だこと」
両者の熟考を破ったのは気怠げなハスキーボイス。
奇抜で過剰な化粧を顔に分厚く塗りこんだ、トラブルメーカーのトリックスター。
「はあーい。美声の持ち主ルネちゃんでーす」
厄災の運び手は、軽やかな旋風に乗って羽毛を巻き散らしながらやってきた。
「あっはぁ! バザウ、久しぶり。会いたかったよぉう」
「ルネ……」
「おっと! 今はバザウさまってお呼びした方が良いのかな?」
「……」
「んふっ。そぉんな怖ぁい顔するんじゃないよ。余計に怒らせてみたくなるじゃないか」
そう、どんなにバザウが怒ったり悲しんでも、ルネにはなんの影響も与えない。
せいぜいヤツの悪趣味なからかいグセを満足させるだけだ。
「やだーん、バザウ。アタシに会えなくて不安だったのーん?」
「ああ。いったいどこでどんな謀略を隠れて練っているのか……、わかったものではないからな」
ルネは大げさに傷ついたリアクションをとってみせた。
そういう行動がいちいちカンに障る。
「ひっどーい! なんて言い草だろうね。アタシは打倒チリルという目的のために、日夜頑張ってるっていうのにさ」
チリル=チル=テッチェの創世樹計画の妨害。
それがルネ=シュシュ=シャンテとバザウの共通目的、ということになっている。一応。
(……いまいち俺の実感が伴わないのは、チリルってヤツにまだ会ったことがないからだろうな……。敵対しているのがどんな相手かさえもわからなければ、士気も意欲も上がるわけがない)
内心ぼやくバザウだったが、ルネとテオシントの様子に異変を感じてそちらに思考を切り替えた。
何やらもめているようだ。
「おやおや。お前がここにいるってのは、いったいどういうことだろうね? 前にも一度忠告したはずだよ? お前はアタシの指示を実行するだけで良い、余計なことはするんじゃないよ、って。ねえ、テオシント」
毒々しい色が光るルネの爪。
一見その手はテオシントの顔をなでるように動いているが、時々目玉スレスレの場所を爪で引っかいている。
「お前はバザウを村から追い出したいと思っているようだけど。それじゃあアタシの思惑どおりにことが進まないのさ。おわかりだろ?」
「狂った虹よ。私はお前の策には賛同しかねる。間違っているおこないだ」
テオシントはバザウを一瞥した。
「このゴブリンは我々の計画に引き入れるべきではない。今からでも遅くはないはずだ! 即刻この地を立ち去っ……」
「ハッ! 文句だけは一流だねぇ、この役立たずのクソシャーマン! ククッ、ねえ、無駄なことはおよしよ。お前の話に耳を傾ける奴なんざ、もうとっくにいないのさ」
熱意をおびかけたテオシントの言葉は、ルネによってさえぎられた。
「安心すると良い、バザウ。コイツがドワーフにお前の秘密をバラさないよう、アタシがちゃんと見張っといてやるよ」
「そりゃどうも……」
ありがたい状況だが、それがルネの手によってなされるとなると、素直に喜ぶことはできない。
テオシントはあきらかに不服そうだったが、彼にはルネの決定を覆すことはできないようだった。
「ああ、もしかしたら。うふふっ! アタシの目論見どおりにいけば、ドワーフを気にする必要さえないのかも」
ルネは一人満足気な顔でニヤニヤ笑いを浮かべている。
バザウとテオシントはそろって渋面で、混沌の神の独り言を聞き流していた。
「ま、一応バザウは村を離れといた方が良いだろうね。ドワーフの目につかないようにするのは、自力でどうにかしなよ。お前もアタシに何から何まで面倒見てもらいたくはないだろう?」
「そうだな。不必要な借りは作りたくはない。で……。混沌のルネ=シュシュ=シャンテ。今回は何を企んでいるんだ?」
ルネは両目をわざとらしく動かし、テカテカと光る色つき唇を突き出して三日月の笑み。不快で滑稽な表情だ。
「うぇええー? べっつぬぃー? アタシはただお前に、旅の中で豊かな出会いと経験を積んでもらおうと願ってるだけさぁ」
(……根性の曲がりきったコイツが、そう簡単に手の内を明かすわけがないか)
ルネ=シュシュ=シャンテはこの村でバザウに神の演技を続けさせたいようだ。
それはどうやら間違いないのだが、その裏にあるルネの意図が読めない。
そんなバザウにヒントを与えるようにルネはわけしり顔でつぶやいた。
「とても簡単なことだよ、バザウ。少女漫画ちゃんの時と基本は同じ。一つ一つの積み重ねが大切なんだ。こなすイベントは多い方が効果的ってことさ」
早起きの村人の一人が起き出して、小鳥がさえずりはじめた。
山のむこうから朝日がさす。
「おっと。夢とまどろみの時間はそろそろおしまいだね。じゃあ、バーイ」
それと同時にルネ=シュシュ=シャンテはふっと姿をかき消した。
「……小さなヒスイ。お前は……」
呪術師は何かいいたそうだったが口をつぐんだ。
バザウの方でも追求する気はない。
「……」
バザウは足早に立ち去ると滝裏の隠れ家を目指した。
ノドに小骨の刺さった時に似た、払拭できない違和感と不審感にさいなまれながら。
たどり着いた洞窟は、以前と変わらず湿っぽくて薄暗かった。
少し肌寒いようにも感じるがゴブリンの氷漬けができるほどではない。
リコ・ピンからもらった食料も充分ある。
ゴブリンがここで短期間すごすのにはなんの支障もない。
(……この耐え難い退屈さえ考慮に入れなければ)
とあるゴブリンは、ジッと静かに隠れ続ける退屈と自分の命の危険を天秤にかけ、いっそ外に飛び出そうかと悩んだという。
(気持ちはよくわかる)
周りで何かが起きているのにただ身を潜めているしかないのは、実に忍耐と精神力を要する。
退屈よりも危険の方がマシではないかと真剣に考えたゴブリンのことをバザウは笑うつもりはない。
「やっほー!」
洞窟の天井から何かが落ちてきた。
しゃべっているので少なくともコウモリのフンではないらしい。
「暇そうだねえ。遊びにきてやったぞー」
ルネは洞窟の中をキョロキョロと見回した。
「ほほーう、良い物件ですなー。ククッ! これはゲストをお迎えするのが楽しみだねえ」
「何がだ。帰れ」
そういい切った後で、バザウは肩をすくめ、ため息をつき、額に手を当て、うなだれた。
「……といいたいところだが、正直今は情報がほしい」
ルネに利用されるのは不愉快だが見えないところで動かれる方が厄介だ。
混沌の神はにんまりと微笑んだ。
「そうだね。アタシもそのつもりでここにきたんだよ。創世樹計画の妨害工作を進めるにあたって、お前にいくつかの補足事項を教えておく必要があると思ってね」
抜け落ちた羽根の一枚をクルクルといじりながら、ルネは話を続ける。
「ここしばらく、お前は特別アレコレ指示しなくても実にアタシの算段どおりに動いてくれた。むしろアタシのサポートが必要だったのは、シャーマンたちの方でね。そういうわけで、お前にはあまり構ってやれなかったというわけさ」
(シャーマン……たち? テオシント一人ではないのか?)
一瞬の疑問はずずいっと接近するルネによってうやむやにされた。
「んふーん。アタシに会えなくて、さびしかったかぁーい?」
「やめろ。気色が悪い」
サッと身をかわす。
「ああーん! おとおかあさん悲すぃ……。バザウってば反抗期真っ盛りなんだから」
およよよ、しくしく、くすんくすん、と鼻につくほど芝居臭い泣きマネをした後で、ルネはようやく話をまともな方向へと進展させた。
「あっはぁ。ふざけるのはこの辺にして、本題に入ろうか」
「いつもそうしてくれると助かるんだがな」
バザウの言葉にルネはウィンクを返した。
もちろんバザウはそれを避ける。
ルネは少しだけ肩をすくめてから話をはじめた。
「さあてさて。覚えておいでだろうか? 創世樹は宿主の心を反映して、実際の世界を捻じ曲げようとするってことを。一つの強い心が現実を支配する。宿主が抱く価値観に、周りの心が染め上げられる。ところでバザウ。この村のシャーマン、テオシントの印象をザッとで良いから挙げてみろ」
いきなり思いもしない方へと話を振られる。
だが質問に窮することはない。バザウの中でその答えはハッキリしていた。
「陰険で横柄……、といったところか。深く関わったわけではないが、あまり良い印象はない」
「だよねえ」
ルネはうんうんとうなずいてみせた。
「だけどヤツだって最初からそうだったわけじゃないのさ」
「……? なんだ? つまり創世樹の影響を受け、テオシントの従来の人格が変貌したと?」
「そゆこと。昔のテオシントは大人しくて温厚なシャイボーイ。言葉数が少なくて不器用なところも含めて、村人たちからもそれなりに慕われていた。陰気で辛気臭い顔つきだけは、前々からああだったけど」
ルネの口から語られた、かつてのテオシントの姿。
物静かで穏やかな、村のシャーマン。
現在の状況からはまったく想像がつかないものだった。
「創世樹との強い因縁があの男を変えちまったのさ。今みたいにね。優しさは影を潜め、荒々しい激情に心を支配されちまってる」
バザウは過去のテオシントのことをしらない。
だがあのシャーマンを修羅に変えた要因には、充分すぎるほどに心当たりがある。
「……」
その簡単な推論を口に出すためには、かなりの勇気と決意が必要だった。
「デンゼンが……。なんらかの形で、創世樹計画に関係している……?」
体が緊張し、声がかすれた。
心臓が過剰に動いて、不安感を血流に乗せて全身へ送り出す。
「あー。ふふー。デンゼン、デンゼンねえ……。アイツは……うーん」
ルネはそんなバザウの様子を興味深そうに観察している。
反応をいちいち試すかのように、わざと色んな表情を浮かべてみたり、もったいぶって無意味な相槌などをついてみせた。
さんざんじらした後で、ルネはあっけらっかんと残酷な決定打を口にする。
「うん! アタシもちょいと会って確認してみたけどぉ、創世樹の宿主はデンゼンで間違いないね! ビンゴーッ!!」
「ッ!!」
なかば予期していたこととはいえ、思わず拳をきつく握りしめてしまった。
「……デン……、いや、宿主が抱いている価値観は……、強さ、だな?」
デンゼンの価値観は明白だ。
無慈悲で圧倒的な暴力。そしてその力の行使。
強い者だけが頂点に君臨する、そんな世界だ。
「ああ、そうだ。だからバザウ。アイツとはせいぜい仲良くするこった」
バザウはルネをにらみつけた。怒りのままに浮かんだ言葉をルネに叩きつける。
「ハッ! そうしてヤツの信頼を得てから裏切って寝首をかけとでも? ルネ=シュシュ=シャンテ。お前が思い描いている筋書きなど、どうせそんな陳腐なものだろう? いつもどおりのこの展開を……すぐ見抜けなかった俺がバカだった!!」
そうだ。
どうしてこんな簡単なことを忘れていたのだろう。
「俺と関わった者は……、いつだって……」
今までの出会いの中で、命を落としていった者たちの顔が次々とバザウの脳裏に浮かぶ。
「……とびきりの災難に見舞われる……」
極彩色の破滅はゴブリンの絶望を嘲笑う。
「嫌だわ、この子ってば。超マイナス思考でひねくれ者! どうしてこんな風に育っちゃったのかしら? おとおかあさんは悲しいわー」
恩讐のこもった視線をむけるも、ルネはてんで意に介さない。
「おお、哀れなる賢きゴブリン! まあまあ、バザウ。悲劇を気取って自分の運命を嘆く前にさ、もうちょっとアタシの話をお聞きよ。創世樹を枯らすには、単に相手をぶっ殺しても意味がないんだってばー。ねー」
ルネはしゃべりながら指を伸ばして、バザウの頬を無遠慮かつ無作法にツンツン突いた。
「ガァーッ!! 俺に触るな!!」
「ゴブリンの牙、怖っ! うーん、バザウー。アタシへの反感で、せっかくのお利口な頭の回転が鈍くなっちゃってるんじゃなーい? クールダウンしようぜ」
「はあ、はあ……! 現在進行形で俺の怒りを余計に煽りまくっているのは誰だと思ってるんだ……」
ルネと話していると頭の血管がブチッと切れそうになってくる。
健康に非常に悪い。
「ま、冷静になって考えてごらんよ。そもそも戦士の価値観を打ち砕くってのに、争いは逆効果。だろう?」
「……」
バザウの耳がピクッと動いた。注意深く、でもほんの少し興奮して。
地獄いき直行ルートばかりの運命の中で、ほんのわずかな希望への抜け道を発見した時のように。
「バザウ。お前は良い道を歩いてるよ。凶暴で粗雑なアイツに、お手々を取って直々に人の道ってものを教えてやろうとしたんだろう? ゴブリンのお前が。ふっふー! ヒスイの肌を持つバザウさまは本当にご立派でお優しいことで!」
「噛むぞ」
「あーん、もう! 怒らないどくれよぅ。褒めようとしたんだから。そう、お前の選んだ道はとても良い。上出来だ」
ルネ=シュシュ=シャンテは、それまでだらしなく崩していた姿勢をピシッと正した。
そうやって真面目な表情を作っている間は、少なくとも一種の神々しさや威厳といったようなものが備わっているようだ。
ふわりと軽く宙に浮いたまま、ルネは真っ直ぐにバザウを指差し、こう命じた。
「人の情ってものを母親の腹の中に置き忘れてきたあの怪物が、温かな心を思い出すように。黒いケダモノをまともな人間にしてやりなさい。お前が彼を導くのだ。お前がデンゼンを人間に変えるのだ。それが今回のお前の重要任務。期待しているよ、キレイで小さなヒスイの神」




