ゴブリンと一粒の宝物
村を守る壁の内側。
家畜の番をする子供のそばに座りながら、バザウは午後の一時をすごしていた。
のどかで穏やかでうららかな時間。
(人喰いの獣がうろついているとは思えない光景だ)
油断すると、そのままうっかり眠りこみそうになる。
首だけが妙に長い羊に似た家畜が、どこか気の抜けた鳴き声をあげる。それも余計に睡魔を誘った。
(ふあ……)
こみ上げてくるアクビは飾り袖でお上品に隠す。
(デンゼンはまだかな……)
あの若い狩人となら、村の外にも出ていける。
人喰いの獣が隠れ潜んでいる危険な場所へ。
バザウには、どうしても一時的に村を出る理由ができてしまった。
近々、村にドワーフの一団がやってくる。その報せをリコから聞かされた時、バザウは面喰らった。
彼らは定期的に訪れる商人の集団で、隔絶された山頂では手に入りにくい品々を運んでくる。
支払いはほぼ物々交換。ドワーフたちは品物の代価として、家畜の毛や高山に育つ独自の薬草や作物を手に入れる。
(村人から神と思われている俺がウソやまやかしをでっち上げれば、ヤツらとの交流を絶つことも可能だろうが……)
ドワーフの行商人は村人たちの生活に欠かせないものも持ってくる。
自分のために村人に余計な不便を強いるのは気が引けた。
行商人の一団が村に滞在する間、バザウは村から姿を消すことにした。
バザウの正体を暴かれ、ドワーフたちと戦いになるのは避けたい事態だ。
(もっとも……、村を出れば今度は獣の脅威にさらされることになる。ドワーフどもがやってくる前に問題の獣を殺せたら、それが一番良いのだが……)
バザウは前に一度、かの獣に獲物として狙われたことがある。
そしてその獣を追っていたデンゼンと出会った。
彼がこなければバザウは今頃、母なる大地に還っていたことだろう。
(俺一人で山地を動き回るのは危険極まりない。村の外では、デンゼンの力を頼るしかなさそうだ)
バザウが協力を頼んだ時にデンゼンは何も質問してこなかった。
こちらが不安になるほどの素直さで彼は申し出を承諾した。
バザウの頼みを断るという選択肢は、最初から存在しないかのように。
「……」
「バザウさま。バザウさまってば!」
思考を打ち破ったのは子供の声だ。
「うん……? どうした?」
バザウは即座に慈愛に満ちた柔和な表情を作り上げ、話に耳を傾け、微笑みかけた。
神々しさを演出する演技とはいえ、旅に出る前のバザウなら絶対にありえない光景だったはずだ。
バザウをイラつかせる一番確実で手っ取り早い方法は、考えごとの邪魔をすることだったのだから。
「バザウさま。これ、どーぞ」
人間の子供は、花でできた飾りを手渡してきた。
少しだけ得意げな顔をしている。
「ククッ。ありがたく頂戴しよう」
花弁の雰囲気からして、キク科の野草であろうか。
茎の部分が編まれており、ゴブリンの手首にとおせるほどの花輪になっている。
「よくできている。器用なものだ」
はにかみながら子供は笑った。
バザウは腕を差し出す。
「つけてくれ」
「はいっ!」
緑の肌に野の花が彩りを添える。
家畜番の子供は、花に負けないぐらい屈託のない笑顔をパッと咲かせた。
「バザウ」
その一声で、それまでの和やかな空気が一変する。
声のした方へバザウは振り返る。
デンゼンが立っていた。
家畜は草を食べるのを中止して、警戒するように寄り集まっている。
子供は居心地悪そうにデンゼンから視線をそらす。だが伏し目がちな横目でしっかりと、デンゼンの動向をうかがっていた。
「ああ、デンゼン。呼びつけてすまなかったな。支度はできたのか?」
バザウだけが、デンゼンに対して友のように接した。
「ん」
「よし。ではいくとするか」
バザウは腰を上げた。下に敷いていた織り布を丁寧に畳んで子供に返す。
村の守り神であらせられるバザウさまが地べたに直接座らないで済むようにと、子供が敷いてくれたものだった。
「ありがとう。お前は気のきく利発な子だな」
「バザウさま?」
花輪をはめた方の手でバザウは子供の肩を軽く叩く。
デンゼンが近くにいるせいか、その肩はすっかりこわばっていた。
(……まるで狼を前にしたウサギじゃないか)
バザウは苦笑を浮かべる。戯れにそのこわばった頬をフニッとつまみ、からかってみた。
「はぅ」
「それじゃあな」
ゆっくりとした足取りでバザウはデンゼンの方へとむかう。
その間デンゼンは微動だにせず待っていた。
「えっと……。お、お気をつけて!!」
懸命に張り上げた子供の声は、何に対して気をつけろと警告していたのだろうか。
バザウとデンゼンは連れ立って歩く。
村は日干しレンガの壁で囲まれている。
本来は家畜を野生動物や泥棒から守るために作られたものだが、今は人喰いの魔物への防壁として期待されていた。
バザウは、人喰いの獣と間近で遭遇した時の記憶を振り返った。
狼ともクマとも違う、見慣れない動物だ。巨大で身軽な肉食獣。ネコを大きくして凶暴化させたら、あんな怪物になるだろうか。
ふいに、視線を感じてバザウは足をとめる。
「……」
デンゼンは黙ったまま、バザウの腕につけられた花輪を凝視していた。
「それ、もらったのか」
「ああ」
「そうか」
相変わらずの無表情。表情や声からデンゼンの内面を推し量ることは難しい。
筋骨隆々の体でも、表情筋だけは活気に欠けている。
「それは、捧げ物か?」
「は……? まあ、子供が俺にくれたものだ」
「なるほど。理解した」
デンゼンはコクコクとうなずいた。
(おい。お前は何を理解したというんだ……)
バザウの方は、少しもデンゼンの考えがわからないというのに。
「さて、おさらいだ、デンゼン。今日の目的は二つ。獣退治の手がかりを得ること、俺の隠宅になりそうな場所を見つけること」
「ん。了解」
有能な狩人と優秀な賢者が手を組んで山地を探索した。
だが人喰いの獣の痕跡は見つからない。ゴブリンの隠れ家に適した場所も。
「……獣は用心深い。やはりそう簡単には寝ぐらは突き止められないか……」
獣の居場所が突き止められれば、罠や奇襲といった戦法を仕掛けることができるのだが。
落胆のため息をつくバザウに、デンゼンがこわばった指である方向を示す。
真一文字に結ばれた大きな口を動かして一言。
「水場」
バザウは風の匂いを嗅いだ。
清浄すぎるあまりキンと突き刺すような硬質な香り。
たしかにデンゼンの指差す方角から水の匂いが感じられた。
(なるほど。この土地は乾いている……。水のある場所には、ノドの乾きを癒すために獣が集うはず)
広大かつ勾配のある山地をあてもなく歩くよりは良さそうだ。
「案内する。沢への道、足場が悪い。気をつけて、俺の後ろ、歩いてくれ」
デンゼンの声は、どことなく緊張しているようだった。
彼は険しい山道などものともしない。人を喰らう獣と鉢合わせても慄かない。
ただ、豊富な水が怖いのだ。
そこは岩がちな窪地になっていて、滝が飛沫を上げていた。
水は不思議な緑色をおびている。よくある溜池のような濁った緑ではない。鉱物を思わせる透明感のある色だ。
バザウは緑の渓谷を前に立ち尽くした。
(美しい……)
どこまでもすんだ水。岩肌を伝う白い滝。
(だが、それ以上に……恐ろしい)
体の奥底からいいしれぬざわめきが沸き起こる。
これまで経験したことのない未知の感覚が、ヒスイに例えられたバザウの皮膚へと伝わり、ぞわりと鳥肌を立てた。
「……っ」
引きこまれるように水面に釘付けになっていた視線。それを無理やりそらす。
不思議な寒気から身を守ろうとして、バザウは両腕で自らを抱いた。
(妙な気分だ……。ゾクゾクする。これで……水が怖いというヤツの気持ちが、少しわかったような……)
バザウは同伴者のことを思い出した。
「ッ! デンゼン」
彼は地面に這いつくばっていた。
「おい!」
駆け寄って声をかけると返事があった。
「平気。心配は、いらない」
「なんだ……。気絶したのかと思ったぞ」
「そう思われるのは、心外だ。俺は、そこまで、臆病ではない。ただ、脚が震えて、立てなくなっただけ」
「……はあ。お前はここで休んでいろ。俺は獣の痕跡がないか調べてくる」
「バザウ。待ってほしい」
引き止めるデンゼンの声。
「ん。これ、持っていけ」
寝そべっていたデンゼンが半身だけ起こす。
彼の手には、黒い刃をつけた短剣が握られていた。
「貸してくれるのか? ありがたい……」
「違う。貸すわけじゃない。それ、バザウに、やる」
「……良いのか?」
「良い。バザウ、武器になるもの、何も、持ってないだろう」
リコ・ピンはバザウに豪華な神の衣装を与えたが、その際に短刀を取り上げていた。
そのような物騒なものはここでは必要ありません、などといいふくめて。
バザウはデンゼンからの贈りものを眺めた。
刃を収めている鞘は皮でできている。バザウは鞘から短剣を抜く。
鋭く尖らせた黒曜石の刃に、獣の角か骨で作られた柄がつけられている。
小振りで適度に軽く、ゴブリンが扱うにはちょうど良い大きさといえるだろう。
「見事だな」
「それ、使ってくれ。俺の武器の中で、それが、二番目に良いやつ」
「一番は?」
これまで行動を共にした限りでは、デンゼンが武器を使っている姿は目にしていない。
彼の答えはいたってシンプルだった。
「一番の、武器は、俺自身」
笑ってしまうような回答だが、たしかに彼の体は凶器といってもさしつかえなかった。
バザウは渓谷を調査した。
いくどか生きものの気配を感じたが、幸か不幸か人喰いの獣とは出くわさなかった。
「……」
成果の上がらない探索。
次第にバザウの興味は獣の痕跡探しよりも、奇妙な泉そのものへと移り変わっていく。
(異様なまでに水が透明だ……)
見える限りの範囲では魚影も水草もない。
一見美しく見えても、あまりに清浄な水はどこかがおかしい。自然界において異様なのだ。警戒するべきだとゴブリンの本能が告げていた。
(生きものが生息できない有害な毒水……なのか?)
という考えに一瞬いたったが、デンゼンの話ではここに水を飲みにくる動物は多いらしい。
鼻に意識を集中させて臭いを嗅げばわかる。様々な獣がこの水場を利用していることは確実だ。
毒水説は却下である。
さらにバザウが泉の周辺を調べていた時だった。
流れ落ちる滝の奥に、洞窟状の空間があることを発見した。
(ほう、これは……。隠れ場所に良いんじゃないか?)
滝裏の洞窟はとても魅力的に思えた。
注意深く探さないと気づかないし、仮に洞窟の存在に気づいたとしても、獣やドワーフが理由もなく滝裏まで入ってくることはないだろう。
後は洞窟の中の居心地を実際に調べるだけである。もっともゴブリンでも耐えられない環境というのは相当劣悪なものだ。
おあつらえむきの潜伏場所を見つけたバザウは、軽やかな足取りで岩道を駆け上り、デンゼンのもとまで戻った。
「おはよう、デンゼン」
まだぐったり気味に体を横たえていた青年に、少しふざけた調子で声をかけた。
「ん。何か、手がかり、あったか?」
「人喰いの獣の関する情報はなかった。だが……、別の良いものを見つけたぞ」
「ん?」
デンゼンは首をかしげてバザウの話の続きを待っている。
「滝の裏に洞窟があった。俺の仮住まいにしようと思っている」
「……ふー……ん」
いつもは真っ直ぐにバザウを見据えている視線が泳ぐ。
「安心しろ。別にお前をそこに引っ張っていこうってわけじゃない。ただ一応……、お前には教えておいただけだ。村を出ている間に、俺が根城にしている場所を」
念のために共謀者には潜伏場所を教えておこうと思った。
それだけの理由の、とりあえずの報告のつもりだった。
「俺、その洞窟を見てみようと、思う……」
そういって、デンゼンは立ち上がろうとする。
普段は人並み以上に壮健な肉体と岩のごとき無情の精神を持つ彼が、水の恐怖に直面するとまるで怯える子供になってしまう。
「……休んでいろ、デンゼン。別に無理をすることはない。俺にはお前がくれた二番目に良い武器もあることだしな」
冗談めかしてデンゼンを制止したが、彼は納得しなかった。
「そこが、安全か、どうか、確認する。それ、俺の大切な役目。俺は、男。俺は、村一番の、戦士。俺は、忠実な、神の下僕」
神の守護者を自負する青年はそう決意したらしい。
ギリッと歯を喰いしばると、デンゼンは両足で地面をしっかりと踏みしめた。
何度か荒い深呼吸をして呼吸を整えている。
「……ん。もう、大丈夫、だ」
まだ少し顔色が悪いが、どうにか強烈な恐怖心を抑えることに成功したらしい。
「まったく……。お前の信仰の深さには、いつも本当に驚かされる。……わかった。お前の好きなようにしろ。勇敢な英雄」
若干のあきれと皮肉をふくんだ口調。
その微妙なニュアンスは、はたしてデンゼンに伝わっただろうか。
デンゼンはただ動物のように真っ直ぐな眼差しでバザウを見るだけだ。
「生きものは、いつか、死ぬ。作ったもの、壊すのは、簡単。それは、ちゃんと、わかっている。だけど、キレイで小さな俺の神。大事なものが、この手を離れていくのは、とても悲しい。奪われたくも、壊されたりも、汚されたりも、嫌われたりも、離れたりも、したくない」
「……」
「だから、神をおびやかすかもしれない、危ないものは、俺がこの手で、徹底的に排除する。それが、俺の、一番怖いもの、だったとしても」
バザウはしばしその場に立ち尽くした。
視線を足元へと落とす。
(……やめてくれ……)
産まれ持った種族の特徴とヒスイの伝承を絡めて、神の名を騙るゴブリン。
純朴な村人の信仰心を利用して、さも聖者面をして振舞った。
(俺はそれほどまでに慕われるような存在じゃないんだ。お前の純粋な尊敬になど、到底……値しないのだから)
腕につけた花飾りが、チクリと肌を刺した気がした。
「洞窟。どこに?」
どうにか水の近くまできたデンゼンが、目だけを動かして周囲を見た。
狩人としてのクセなのか、彼は緊張している時や集中している時、顔や首を動かさずに目玉だけで視線を巡らせる。
「ん。見つけた。なるほど。これはわかりにくい」
滝裏の岩肌に亀裂があるのだ。
そのシルエットは流れ落ちる滝によってほとんど目立たぬように隠されている。
「よし、デンゼン。場所は把握できたな。これで気が済んだだろう」
「ん。でも、まだ、中の様子が、わからない。危ないものが、あるかも」
「……水が怖いくせに、ついてくる気か?」
「いや。ついてかない。俺が、前をいく」
デンゼンはなかなか強情なのだった。
その意志を変えることは、バザウにはできそうもない。
(動きづらいこの衣装は外しておくか。汚してリコにねちねちと叱られるのも嫌だし……。それに万が一水に落ちた時のことを考えると、この格好じゃ溺死は必至だ)
そう判断して、バザウは頭につけていた帽子をカポッとはずしてみた。
「……」
久々に風にさらした頭皮が、やけに寒々しく感じられるのは何故だろう。
長く垂れて首周りを覆っていた布が、なんだかとてもかけがえのないものに思えてきた。
(い、いやっ! 頭髪など不要! ゴ、ゴブリンの男は……、体質的に毛髪の生えないものが多数いる。何も気にすることはない。俺はただその中の一人だというだけのことだ。うん、何も問題はないな)
自分の心にそういい聞かせると、バザウは動きの妨げになるものを次々に体から外していった。
大きく広がった袖。磨き石が光る飾り紐。それから、きゅうきゅうと足を締めつけていた靴も。
「やはり足の指が自由に動くのは快適だな」
裸足になるのは開放的だ。
飾り帽子をとった時のような侘しさはなかった。
「これでだいぶ動きやすくなった。さあ、いくぞ」
「ん。ちょっと、待ってくれ」
デンゼンはバザウの行動をマネて、余計な衣服をはずそうとしているようだが……。
筋肉半裸ボディに最低限身につけているズボンや帯をあちこちいじりながら、助けを求めるようにつぶやいた。
「困った。俺には、脱ぐものがない。これ以上脱ぐと、なんだかとても、大変なことになる、と俺は思う」
「……適切な判断だ、デンゼン。お前はこれ以上身軽になる必要はない。まったくない。断言する」
「ん。わかった」
こうして最悪の大惨事はまぬがれた。
足を滑らせないように注意しながら、二人は慎重に滝裏へと抜けていく。
宣言どおり、先をいくのはデンゼンだ。
時折深呼吸をする音が聞こえてくるが、彼の足取りはちゃんとしていた。
「とまれ。そこだ」
湿った岩肌に、細長い三角の形に裂け目が生じていた。
中は真っ暗だったが、ゴブリン族の視覚は洞窟での暮らしに適合している。暗い場所でも行動に支障はない。
バザウは鼻で風の流れを探った。適度に空気が循環している。有毒なガスの臭いも感じられない。ゴブリンの隠れ家としては申し分ない場所だ。
絶え間なく聞こえる滝の音さえうるさいと思わなければ。
「ん。暗くて、よく見えない。でも、とりあえず、ここに何かが棲んでいる気配は、ない」
バザウとは別に、デンゼンも洞窟の様子を探っていたようだ。
「ククッ。ようやく責任感の強い守護者さまのお墨つきが出たな……」
バザウは満足そうに、洞窟の湿った壁面に触れた。
「いけ好かないドワーフどもが村にいる間は、俺はここでゆっくりとくつろいでいるとしよう」
「ん? ドワーフ、嫌いなのか?」
「ああ、大嫌いだな。ヤツらはゴブ……」
つい本音がこぼれかけた。バザウはあわてて口を閉ざす。
ドワーフを嫌う理由については、あまり多くを語らない方が良いだろう。
それはゴブリンという種族についても語ることになる。
デンゼンはゴブリンという名称だけはしっていて、バザウがゴブリンだということもしっている。
その名を他の村人たちに話してはならない、ともいいつけてある。
だが、ゴブリンがどういう存在なのかまでは、デンゼンには教えていない。
(……俺は本当に卑劣だな)
目先の利益のために、純朴な信仰心を利用して。
今度は、自分は神として慕われる器でないと嘆いてみせて。
それでも結局、真実を明かすことはない。欺き、秘匿し続ける。
(どこまでも浅ましい……)
自嘲の笑みを作ろうとしたのだけれど、顔の表情がこわばって、それすらも上手くいかなかった。
ここが暗闇で本当に良かったと、バザウは思った。
どこまでも醜悪な顔を誰にも見られることはないのだから。
洞窟の確認を済ませると、バザウはすぐに泉から離れようとした。
デンゼンは水がとても苦手なのだから。きっととても無理をしたはずだ。
だが肝心の青年はぼんやりと岸辺に立ち尽くしていた。
そのうち彼はゆっくりと砂利の上に腰を下ろす。
「……立てないのか?」
デンゼンは黙っている。
沈黙の後に出てきた言葉は。
「ここは、キレイ、だろう」
「何?」
バザウの頭の中が軽く混乱する。
重度の水恐怖症患者とでもいえる彼の口から、まさかそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
バザウの聞き間違えでも、デンゼンのいい間違いでもないようだ。
青い顔をしながらも、デンゼンはしっかりと泉に目をむけている。喰い入るように。魅入られたように。
「恐ろしい思いをすると、わかっているのに。俺は、時々、ここにくる」
デンゼンが這うようにして腰を浮かす。
ゆっくりと水辺へ近づいていった。
心を落ち着かせるためか、デンゼンは深く息をつく。
「見たいものが、あるからだ」
バザウは静かに彼の隣に立つ。
しっておきたかった。こうまでもデンゼンを惹きつけているものがなんなのか。
「これが、俺の宝物」
水は驚くほど透明だった。決して浅くはない水底までハッキリと見渡せる。
緑色をおびているのは水自体ではない。底の方に何か青緑のものが散らばり、屈折した光を受けてキラキラと光っている。
(……この地の民が、ヒスイを崇めるわけだ……)
水底で静かに輝いているものは、全てヒスイの原石であった。
「ヒスイは……。俺の神。俺の宝物。俺が畏れ、敬い、焦がれているもの」
敬虔な戦士は恐る恐るその腕を伸ばし、透きとおった水面に手をかざす。
「だが、俺の手には、ないもの」
デンゼンの無骨な指先が、ほんの少しだけ泉の中へと浸かった。
ちゃぷっ、と小さな音を立ててその指はすぐに水から離れていく。
「デンゼン。水の底にあるものが……、ほしいのか?」
「ほしい。だが、無理な話。俺の手が、届かない場所にある。……バザウ、何してる?」
「フフン。なんだと思う?」
バザウは愉快げに鼻を鳴らして答えた。
デンゼンの服からほつれていた糸を少々拝借し、岸辺から手頃な軽さの石を拾って結びつける。それを静かに泉に投げ入れる。
デンゼンが首をかしげた。
「釣り?」
「まさか」
釣り餌どころか、針さえもついていない。
「泉の深さと急な流れがないか調べている」
糸をつけた石は水流に引っ張られることなく、水の底に到達した。
バザウは石を引き上げた。糸が濡れている箇所から、おおよその深さが推測できる。
「んん? わからない。なんのために?」
バザウは牙を見せて、ニッと笑った。
「お前と違って俺は泳ぐのが得意なんだ」
泉の底から小石を一つばかりつかんでくるのは、いとも簡単なことだった。
「ほら。お前にやろう」
つややかに濡れたヒスイの原石。
バザウの黒い爪の先から、したしたと水滴が垂れる。
呆然としているデンゼンの手に無理やり握らせてやった。
ポカンとしていたデンゼンの口から、やがて言葉がつむがれる。
「信じられない。今まで、届かなかった、宝物。今は、俺の手の中にある。不思議だ。妙な気分」
デンゼンは掌中のヒスイをいつまでも見つめていた。
そしてバザウに答えを求めるように首をかしげる。
「この、感覚は……。ずっと前に、経験したことがある。なんだろう? 思い出? 違う。俺は、全て忘れて、産まれてきた……」
単語の羅列をつぶやいたところで、彼は自分で答えを出した。
「ん。多分、これは、嬉しい、ということなのだと、俺は思う」
生粋の狩人は、こうつけ足した。
「嬉しいは、獲物を上手く仕留めた時の、体の血が沸き立つ感じに、よく似ている」
「……デンゼン。お前の思考回路は単純極まりないな」
「だめか?」
「いや。そんなことはない」
それだけ単純なら悩みがなさそうでうらやましい、といいかけてやめる。
真相は不明だが、デンゼンも何か大きな闇を抱えながら生きているのは確かなのだから。
「デンゼン。帰るぞ」
「ん」
二人は村へと戻っていった。
ゴブリンは黒曜石の刃を手に入れて。
人間の若者はヒスイの丸石を手に入れて。




