ゴブリンと一すくいの拭えぬ恐怖
村を一望する高みにて。
「デンゼン。大事な話がある。そこに座れ」
「ん」
ぶっきらぼうな返事に反して青年は粛々とかがみこむ。
彼の視線は伏せられバザウの足元へと注がれていた。忠実な神の下僕。
「……顔を上げろ」
山岳の民の中で一番バザウを熱心に信奉しているのは誰かと問われれば、それは間違いなくデンゼンだ。
「お前は猛々しい強者で、優秀な狩人だ。いずれお前に名誉ある戦士の傷を授け……、英雄の座へと導こうと思っている。そしてお前もそれを望んでいる……。そうだな?」
「バザウ。キレイで小さな俺の神。俺、デンゼンはその問いに、そうだ、と答える」
「……だが、その目的を達成するには問題がある」
デンゼンが半ば立ち上がり真顔で吠える。
「テオシントだな!!」
バザウは片手を動かしデンゼンを制した。
「……奴の妨害も、お前が乗り越えるべき課題ではあるが……。しかしデンゼン。なんでもかんでもテオシントのせいにするのは、短絡的すぎるぞ」
デンゼンはたびたび理由をつけてはテオシントに報復しようとした。
砂埃が目に入った時も。
日干しにしていたフンドシが強風で飛んでいった時も……。
「お前があのシャーマンを嫌っていることは、俺も重々承知だ。まあひとまず落ち着いて座れ」
「ん」
ストン、と屈強な体が低くなる。
バザウが命じればデンゼンは素直に従う。
「お前がこの村の英雄になるために欠けているもの……。それは……」
「それは?」
「好感度だ!!」
「……」
清潔感に爽やかさ。
柔和な物腰、凛々しい眼差し。
フレンドリーな爽快スマイル。
その他諸々の美徳と魅力!
そういったものが、デンゼンには圧倒的に欠けていた。
「お前の振る舞いは粗暴すぎる。村の者たちはお前の強さを認めているが、恐れてもいる。いきなり性格を変えるのは無理だとしても……、これからは自身の行動を律するよう努めることだ……。デンゼン。怒りにまかせてその拳を振るってはならない。相手を殺し傷つける以外に問題を解決する手段があるなら、そちらを選べ」
「バザウ。俺はその考えに、納得できない。それは戦士の資質とは、思えない」
子供でさえ自然にしているようなごく基本的な処世術さえ、デンゼンには理解が及ばないらしい。
「……敵は少ない方が良い。人の世の中で生きようとするのならな」
「そうなのか? 俺は、別に困らない。世界の全てが、敵だとしても」
子供よりも単純な思考回路で、デンゼンはそういってのけた。
虚勢や強がりではなく彼の本心なのだろう。浅はかで無思慮な考えの上に基づいた。
苦笑を浮かべながらバザウはこの未熟な英雄候補をさとす。
「暴れ者と勇者の違いは、力の差ではない。どれだけ多くの者たちから、その存在を肯定されているかで……英雄としての真価が……」
「……? ??」
デンゼンは真剣にバザウの話に耳を傾けてはいたが、その頭の上にはいくつもの疑問符が飛びかっている。
「そうだな……。仮に、同じぐらい強い二人の戦士がいたとする」
「ふむ」
「一人は孤絶しており、もう一人は人徳がある」
「……」
「……いい直す。一人はぼっちの嫌われ者で、もう一人は皆の人気者だ」
「ん」
「周りの者が彼を疎んじていれば、ソイツはただの暴漢だ。周りの者たちから称えられて、初めて強者は英雄たる。……勇者や英雄を作り出すのは本人ではなく、その偉業を称える無数の他者の認識にすぎない」
デンゼンはしばらく沈黙する。
時々目を瞬かせたり、口を少し歪めたりしていた。
「バザウの、話は、難しい……。とても。俺には、わからない。どういうことだ? ……俺の強さ、は、意味をなさない、のか? それなら、俺は……」
その目はあまりにも暗く絶望に沈んでいた。
「俺は、ゴミクズ……。俺は、ムシケラ……。俺は……」
「あー、もう! 違う、違う!!」
バザウはデンゼンの頬をガシィッとつかみ、無理やりムギュッと笑わせた。
「んぐ」
「ええい、もうややこしいことはいわん! 要はテオシントよりお前の方が、立派で頼もしく尊敬に値する人物だと……。うー、つまり……だな。強さだけでなく優しさや礼儀をわきまえた戦士だと! とにかくそういった良いイメージを村の者たちに与えるんだ。わかったか?」
「ん」
ようやくデンゼンにも理解が追いついたようで、コクリとうなずいた。
「一朝一夕でこれまで身についていた振る舞いを変えるのは難しいが……、少しずつ変えていこう。俺も手を貸すから」
「ん」
「もっとも、すぐにでも変えられることもあるがな」
「ん?」
デンゼンは不思議そうな顔でバザウを見ている。
「身だしなみだ」
「!」
バザウが村人から聞いたところ、デンゼンへの心象は以下のようなものだった。
証言者A、年老いた農夫。すぐに暴力を振るう。あまり関わりたくない。時々泥や返り血がついているのも不気味である。
証言者B、子沢山の主婦。表情が変わらず言葉数も少なく、何を考えているのかわからなくて怖い。遠出で狩りをするせいか、異様な獣臭さが染みついている。
証言者C、年頃の若い娘。脳筋。バカ。汗臭い。
「デンゼン。正直に答えろ」
「……」
両雄の間に走る緊張感。
「……最後に風呂に入ったのは、いつだ?」
「その問いに、俺は正直に答えよう。産まれる前だ」
(コイツ、なんて堂々と……!)
そしてバザウは見逃さなかった。
それまで大人しく座っていたデンゼンが、姿勢をたもちつつも慎重に体の重心だけを移動させている。
いつでも逃げ出せるように。
「ヒスイの神! 俺、デンゼンは誓う。もう二度と、風呂には入らない。そう決めた! 俺の魂が決めた!」
「バカ! くだらない誓いを立てるな!」
デンゼンの腕をつかもうとしたがムダだった。少しも油断のない身のこなし。
「チッ!」
ゴブリン族の瞬発力とバザウの洞察力をもってしても、デンゼンの捕縛は困難だ。
仮に体をつかめたとしても、その屈強な体を持ち上げてホカホカの風呂桶に叩きこむだけの怪力はバザウにはない。
「よく聞け! バザウによるアンケート、村の女性五十人に聞きました。デンゼンはいい加減に風呂に入るべきだと思う人は、五十人中五十人だったぞ!」
「俺、清潔。狩りの後は、ちゃんと砂浴びと日光浴してる! だから風呂、必要ない!」
「そんな理屈がとおるか!」
バザウの方もみすみすデンゼンを逃がす気はなかった。
脚の筋肉による俊敏なフットワーク。心理戦に長けた巧みなフェイント。トリッキーな動きでデンゼンの逃亡を阻止する。
それは非常に高度な攻防であった。
野性的な本能のままに暴れるデンゼン。
深い観察力と瞬時の判断力で、隙のない立ち回りを見せるバザウ。
「……クソッ!」
先に音を上げたのはバザウの方だった。
敗因は二つ。まずは動きづらく作られた豪華な神の衣装。
そしてここは天空の山岳。普通に地上で暮らしている人間なら、ここにいるだけで高山病で苦しむほどの高所だ。酸素の薄い場所で激しい活動を続けるのは、いかにゴブリンの適応能力といえども限度があった。
「ハア、ハア……。強情なヤツだ。あくまでも抗うというつもりか……」
バザウは肩で息をする。
少し離れた場所でデンゼンは立っていた。息切れ一つしていない。
「どうしてそこまで風呂を嫌がるんだ!?」
勝者は答える。
「風呂は、罰だからだ」
「はあ……。あきれたものだ。いくら不精者でも、そこまで嫌がるとは……」
「……」
ふとバザウはデンゼンの様子が妙なことに気づいた。
「デンゼン?」
「それは、不浄な俺に、与えられる懲罰だった」
いつもどおりの無表情に訥々とした口調。
「俺は、汚いガキだから、冷たい水をかけられて、洗われる。俺は、汚いから」
何かに追い詰められていくような雰囲気をにじませて。
「俺が見つけた、キレイで小さなヒスイの神。その神が、この俺を、不浄、だと、いうのなら」
苦痛をしぼり出すような声で。
「お、俺は、その罰を……」
あれだけ動き回っても少しも乱れなかったデンゼンの呼吸が、病的に浅く速くなっていた。
「……デンゼン、お前……? なんだ? ……冗談ではなく、本気で沐浴がダメなのか?」
「……」
デンゼンは会話の途中で黙りこむことが多い。
だが今回の沈黙は、バザウの問いかけに対する肯定だった。
(日常生活に支障をきたすほど……となると、かなり深刻だな……)
ただのワガママではなく、深いトラウマがあるようだ。
「すまなかったな。お前の事情をしらずに無理強いして」
謝罪と親交の意味をこめ軽い気持ちで、デンゼンの腕をポンと叩いて、バザウは驚いた。
肌に触れたことで彼の身に起きた異変がわかる。筋肉の異様な緊張と硬直。体温は急激に低くなり、脂汗でじっとりと肌が湿っている。
「……穢れ、不浄な……。汚い……、嫌だ」
うわごとのようにつぶやく。
デンゼンの姿があまりにも脆く見えた。
(心というものは……、たやすく理解できないな)
心を司る神が起こした気まぐれで偶然この世に誕生したゴブリンはそう思った。
ゴブリンは涼やかな赤眼を動かし、自らを神と崇める青年を見る。
恐怖心のせいか、苦しげに目を閉じ、顔色は蒼白で、額に脂汗をにじませている。
(とても無双を誇る戦士とは思えない……)
デンゼンは粗暴で思いやりがなく好戦的で。
それゆえ村にとっては異物であり。
その上、幼稚で惨めで哀れなヤツだった。
「デンゼン。お前の心は歪だな」
デンゼンは一見何も目立った反応を示さなかった。
だが彼の呼吸がヒュッと鳴って停止したことを、鋭敏なゴブリンの耳はとらえている。
「俺の心もそれはひどい有様だぞ。あちこち擦り切れ、無様で醜怪。……まったく見られたものじゃない」
あの日のことを思い出しながら、バザウはデンゼンに語りかける。
ゴブリンの街を襲った惨劇。
満面の笑みを浮かべて戦死をとげた赤帽子隊長。
バザウが手にかけていった冒険者ギルドの人間たち。
そっと触れてみたプロンの遺体に残った、消えかけていく温度だとか。
その記憶を掘り起こしながらも、バザウの声は落ち着いていた。
「最初心は……、まっさらな状態なのだと思う。だが一度この世に産まれ落ちたら、魂はいつまでも新品のままではいられない。この世界は予想以上に複雑で……、色々なヤツが暮らしていて……、たくさんの出来事が起きる場所だから」
存分に生命を謳歌したいところだがこの世界は容赦ない。
時には産まれたことを後悔するぐらい嫌なことにも直面する。
多分デンゼンの身にも、そういうことがあったのだろう。
彼が負った不快な記憶は、水への恐怖心や清浄不浄への固執という形で魂に残っている。
「お前の神は無力でちっぽけだ。たった一言ありがたい呪文を唱えるだけで、お前が抱えた苦しみを一瞬にして消し去るような奇跡は……、俺には起こせない」
バザウは神のマネをしているだけのゴブリンにすぎない。
それでも、そんなただのゴブリンがそばで静かに話しかけているだけで、デンゼンは少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「バザウの、心にも、傷があるのか?」
たどたどしくもデンゼンが意味のとおった言葉を発したので、バザウはホッとした。
会話が成立するということに、こんなにも安堵と喜びを感じるとは。
「俺の心についている傷は……、自業自得だがな。自分のバカさ加減が招いた結果だ」
デンゼンに話しかけることで、バザウの方も不思議と精神の安寧を感じていた。
「頬に、ついている、古傷は?」
「ああ……、これか」
バザウはそっと傷に触れてみる。
痕こそ残っているものの今は少しも痛みを感じない。
「この傷は、不注意な友を死の淵から救った時についたものだ。この傷が示しているのは俺の愚かさではなく……、友情や名誉といっても差し支えないだろう。あの時は必死だったが……、今ではもう懐かしい思い出と化した。二人ともそろって無事に生還できたからな」
バザウは旧友の顔を思い浮かべる。
「俺の傷は、俺が弱いせいで、ついたもの。だから俺は、もっと強くなる。もう二度と、何者にも、絶対に、俺を傷つけさせない」
ぶつ切りにされた拙い言葉でデンゼンはそう宣言する。
硬質な印象を与える乏しい表情。傍若無人にさえ映るふてぶてしい態度。
そこにはもはや先ほど見せた惨めで弱々しい様子はない。
根本的な問題は解決していないものの、デンゼンは普段の状態に戻ったようだ。
「俺は……、賢くありたい。冷静沈着で計算高く、頭も舌もよく回る。相手のウソは見事に看破して、こちらの思惑は滞りなくことが進む……。けして運命の選択を間違うことはなく、常に自分の進むべき道を見とおしている。冷徹な策士で、明晰な賢者……」
バザウは軽くため息をついた。
「それが俺の理想なのだが、現実は厳しいな……。なかなか思いどおりにはいかないものだ」
賢いゴブリンは、デンゼンの傍らで困ったように微笑んだ。
リコ・ピンの屋敷。
神さまのために、とあてがわれた快適な一室でバザウはもの思いにふけっていた。
(デンゼンの過去に何があったのだろう……?)
彼の魂にあれほどの恐怖と執着を刻んだ出来事。
村人たちから聞いた限りでは、原因となったエピソードは見受けられなかった。
(明確な理由のない、生まれつきの恐怖症か? いや……、デンゼンはこういっていた。もう二度と誰にも自分を傷つけさせはしない……、と)
あの口ぶりから察するに、彼の魂の傷は自然に生じたものではなく、何者かによってつけられたものだ。
「……」
燭台の上で香りの良い蜜蝋のロウソクの炎が揺らぐ。質の良い蜜蝋は、村においてはそれなりの貴重品だ。
これを普段使いの照明として用いているのは、リコ・ピンとバザウぐらいのものだった。
(おっと……。ずいぶん長い間、考え事をしていたようだ)
火を灯した時に比べてロウソクはだいぶ短くなっていた。
燭台のそばには、見事な細工のロウソク消しが備えつけられている。
それは材質も加工もともにかなりの業物で、ビアンキが取り仕切る真実の愛の箱庭を探しても、これほど美しい品は簡単には見つからないだろう。
(……この山の麓に住むというドワーフの手による作品か。奴らの存在は忌々しいが……。なるほど……、たしかに良いものを作る)
バザウはわざと気取った手つきでロウソクの火を消した。
暗くなった室内でバザウは温かな寝床に入りこむ。
夢を見た。
バザウは裸身で、ぬくやかな水の中に浮かんでいる。
不安と安楽。思考とまどろみ。認識と忘我。
対極にあるはずの状態が、そこでは不思議と両立していた。
こぽこぽ、ざあざあ。
くぐもった不明瞭な音が水をとおして、どこからともなく聞こえてくる。
「みず が こわい なんて、へーん な こ!」
そして、あどけない幼児の声。
卵の黄身に笑顔をはりつけて、ふわふわの白身で体を作ったら、きっとこんな子供ができるのだろう。
スクランブル=エッグ。
死霊術によって、無数のゴブリンの幼児の魂から作り出された異形である。
一度はバザウを死へと追いやるが、後にその血肉の一部となった。
「ここ は とっても いごこち が いい のに ねえ」
温かな水の中で体をクルクル動かしながら、白い子供は無邪気に笑う。
バザウも微笑み返す。
「楽しそうで何よりだ」
スクランブル=エッグと混ざってから、時々バザウはこうした夢を見る。
夢の内容をハッキリ覚えている日もあれば、目覚めと同時に忘れてしまう場合もあった。
穏やかだった水に流れが生じた。
バザウがその流れを感じると同時に、夢の空間は急に切り替わる。
故郷ハドリアルの森。木の葉のざわめきと川のせせらぎを、バザウはよく覚えている。
森にいることを実感すると同時に、バザウはそこで暮らしていた時の衣服をまとっていた。
バザウが見ている前で、川の水は急激に量を増し、茶色くにごり、勢いが激しくなった。
そして。
「おぼぼぼっ、ぼれるよーっ!」
濁流に、浮きつ沈みつ、友の顔。
(いや。一句詠んでいる場合じゃないか)
以前、実際にサローダーは川で溺れたことがある。
大雨が降った時に「オイラ、川の様子を見てくるよん」といって、サローダーは意気揚々と出かけていった。
そして運命のお約束とばかりに増水した川で溺れかけた。
「おごごごごっ! あばばばばっ! おぶっふ! オイラを助けてってってー!!」
過去のバザウは、流されていく友人を助けようと救出にあたった。
状況的に助けにむかったバザウも水にのまれてしまう可能性も充分あったが、運良く二人とも生還することができた。
「……」
夢の中のバザウは自分の頬に触れてみる。別に頬をつねって夢かどうかを確認するためではない。
バザウの頬に残る傷は、溺れかけて錯乱状態になったサローダーが、ばっちい爪で引っ掻いてつけたものだ。
「うふふふ! へん なのー」
スクランブル=エッグは小さな体をくねらせて空中を泳ぐ。
溺れるサローダーを見てクスクスと笑っている。
「こわく ない よ。へいき だよ。みず は こわく ない よ」
「お前にとってはそうなんだろうな」
黄色い頭をなでるように軽く叩く。
「でも……。一度あの温かな水の世界から吐き出された者は、そうじゃない。……息ができずに溺れてしまう」
「そうなの? ふしぎ!」
「ああ、まったく不思議だ。……さて、そろそろ救出しにいくか」
夢の中でも、なんだかんだでバザウはサローダーを救いにいくのだった。
きっと最後は顔を引っ掻かれると漠然と理解していながら。
「アッハァ! バザウ、アタシの息子。お前って奴は、冷徹な策士や明晰な賢者とは本当にほど遠いねえ」
夜の眠り。記憶が絡み合う幻想のさなか。嘲笑うような鳥の声が、聞こえたような気がした。




