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バザウ、君は賢すぎる  作者: 下山 辰季
第四部

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45/115

ゴブリンと一抹の不安

「……今朝も食卓にはイモしかなかった。昨日も、一昨日も、その前の日も……」


 そうぼやくバザウの眼下に広がる段々畑にも、各種様々のイモが植えられているのだった。

 リコ・ピンの石造りの屋敷を抜け出してバザウは村で一番高い場所にいる。


挿絵(By みてみん)


「無償で提供されている食べ物にケチをつけるのは気が咎めるが、こうも同じメニューが続くとなるとな……。毎日、毎日、毎日同じ食事ばかり。お前は飽きないのか? デンゼン」


 バザウは傍らの青年に声をかける。

 彼は近くの潅木からその葉をむしり、口の中に放りこんでは噛んでいた。

 それは食べ物というよりは噛むことで楽しむ嗜好品で、山岳の民たちには馴染み深いものだ。

 若者に活力を与え、老人の疲労を癒す。眠気や飢えを感じなくなる作用もあった。


「俺は、食事に飽きるということは、ない」


 散々噛み締めた葉をプッと吐き出してから、デンゼンが答えた。

 デンゼンがこの特殊な葉を常用していることをバザウはしっていた。


「食事というのは、生きて体を動かすために、仕方がなく食べるもの。ただ、それだけの行為」


「ほう。それは意外な返事だな」


 バザウはデンゼンの横顔を眺める。

 真一文字に結ばれたデンゼンの口は大きく、今は見えないが白い頑健な歯列が整然と並んでいるはずだ。


「お前はよく食べる方だと思っていた」


 何気なく口にした言葉だったが、デンゼンの表情がほんのかすかに変化した。


「……何も食べずに生きられるなら、それにこしたことはない。俺は、そう思う。心から」


 そういってその大きな口に、空腹を忘れさせる葉を詰めこんだ。




 リコ・ピンの家に戻れば小さな村長がこう話しかけてきた。


「バザウさま。そろそろ収穫祭の時期になりますね」


「ああ」


 バザウは泰然として優雅な仕草でうなずいた。

 神の務めの一環として村の様々な儀式を執りおこなうことが求められた。

 完璧に身分を偽るため、バザウは事前にデンゼンから村の宗教的伝統を徹底的に聞き出しておいた。

 この地の神であるならば当然しっているはずの知識だ。


(つまらないことでボロを出して、袋叩きにされるのは嫌だからな)


 祭礼の執行。これは本来はテオシントの役目なのであろうが、デンゼンとの激しい諍いのせいで村で唯一のシャーマンは表舞台から追いやられていた。

 その上、ヒスイの肌を持つバザウの登場だ。テオシントの村での立場はいっそう弱まった。


(……除け者にされたシャーマンは俺をどう思っているのやら)


 あれこれ悩むバザウとはうって変わってリコ・ピンはうきうきした様子ではしゃいでいる。


「僕、このお祭りが一年中で一番好きです! 収穫を祝い、健康を祈って、屋台には普段は食べられないような美味しいものがいっぱい並んで、それからイモで作った特別な団子を皆で食べる楽しいお祭りなんですよー! ……ところでバザウさま」


 リコ・ピンがくりくりとした瞳をバザウにむけた。彼の目は、透きとおった鮮やかな緑色をしている。


「作物から作られた団子という代用品が用いられる以前は、大型の家畜の肉……。もっともっと時代を下った大昔には、特別に選ばれた人間の心臓が祭りの際に村人たちの口に入ったわけですが……」


 バザウは別に驚かない。

 収穫の祭りは、かつては血生臭い儀式であった。バザウはそういった背景もちゃんと把握している。


「ああ。さらに時を遡ると……、この祭りは本来、神の心臓を食す儀式であった。生贄の人間はいわば神の代役といったところか。まったく。大任、ご苦労だな」


「同感ですねー」


 デンゼンからもたらされた情報では、収穫祭はただ単にイモの団子を村人全員で食べる祭り、ということだった。

 その説明だけではバザウは釈然としない。

 村人と接する際にバザウはそれとなく話を振り、デンゼンの説明では腑に落ちなかった点を解き明かしてある。


「僕は本当に良い時代に産まれたなあ。神話の時代に姿を消したはずの神が、間近にいるんだから。脈打つ神の心臓には、どれだけのご利益があるのでしょうね」


 不敬な冗談。リコは時々こうして、バザウの反応を試すかのような発言をする。


「俺の心臓がほしいのか? 若き長」


 バザウはククッとノドを鳴らす。


「くれてやっても良いが、高くつくぞ。そうだな……。村人全員の命となら、交換してやらぬこともない」


 この若い村長はそんな愚かなマネはしない。と、バザウはわかっている。

 またリコの方でも、バザウが本気ではないと了解している。

 全てお互いに本気ではないとわかった上での戯言だ。

 ひとしきり笑った後で、リコは真面目な顔でつけたした。


「……バザウさま。今みたいな冗談は、間違ってもデンゼン相手にいっちゃいけませんよ」


「……わかっている。間違ってもデンゼンにはいわん」




 祭りの準備に忙しいのは村人ばかりで、バザウは当日まではヒマを持て余していた。


(何もすることがないというのも、退屈だな……)


 日干しレンガのアバラ屋を訪ね、老いた男のしなびて痛む膝を両の手で温めてやった。

 多忙な母から乳飲み子を預かり、まだ地面を踏みしめたことのない足の裏をくすぐりあやす。

 バザウは老人や子供の相手をしながら村での生活を送った。


 今日のバザウも、若い母から託された幼児を抱きながら午後の一時をすごしている。

 子供がぐっすり眠れるようにと人が少なくて静かなところを探して、バザウは腰を落ち着けた。

 もちろん安全にも注意を払っている。人気のない場所といっても、村を取り巻く石壁の外には出ない。


 ぽかぽかとした太陽の日差し。山合いに反響して聞こえてくる様々な音。

 腕には心地好い重み。乳飲み子特有の甘い香り。

 つい穏やかな幸福感に包まれそうになるが、バザウはこの村に対してある違和感を抱いていた。

 このことについて思考を巡らせる。静かな場所は考え事にもうってつけだ。


(……壮健な男が異様に少ない)


 村の人口は不自然に偏っていた。

 年寄りやリコ・ピンのような子供、それに女たちの姿は普通に見られる。

 だが、男の数が少ない。特に勇敢で雄々しい戦士が。


(人喰いの魔物との戦いで、村の戦士のほとんどが命を落としたというのか……?)


 一瞬はその考えに納得しかけたが、ある疑問が頭をよぎる。


(それにしては……、子供や女の被害者がほとんどないのは妙だな。いや、人間たちの社会的な行動パターンでは、弱者は優先的に保護の対象となることが多い。戦士の犠牲によって守られた結果、女子供が多く生き残っている……のか?)


 バザウは腕に抱えている赤子を見つめた。

 この子の父親も、例の人喰いの魔物の襲撃によって命を落としている。

 

(村の戦力はかなり減少している。厳しいな……。残っている男たちの中で、魔物に対抗し得る力を持つのは、デンゼンとテオシントだけ。だが、両者の協力はとうてい望めそうもない……。そんな状況で魔物が襲ってくれば……、この村はおそらく……)


 バザウは軽くため息をつく。

 それから、わざと乱雑に頭を掻いた。豪華な布を重ねた頭飾りが少し傾ぐ。

 自分の考え方がいつの間にか、だいぶ村寄りになっているのが気に入らなかった。


(チッ!)

 

 人間の村がどうなろうと流れ者のゴブリンには無関係なのだ。

 だがこの村が安泰ならバザウは食事と寝床の心配をしなくて済む。


(……それに……)


 ゴブリンである自分を尊び、慕う村人たち。

 彼らに親密さや愛着のようなものをまったく感じていない、といえばウソになる。


(この村で、俺にできることをするしかないか……)


 これまでの旅の中、いつでもバザウがそうしてきたように。




 すぐ近くに立たれるまで、バザウはその気配に気づけなかった。

 彼は音もなく忍び寄る。

 この村の若き戦士。

 神としてのバザウを見出した者。


「デンゼンか」


 気安さと親しみの柔らかさを響かせて、バザウはその名を呼ぶ。

 ほとんどの者が憎悪や恐怖の感情と共に口にする名を。


「お前も仕事がなくてヒマなようだな」


「村にいる時、俺はヒマ。俺の仕事は、山にある」


 彼は耕すべき畑も持たなければ、育む家畜も所有していない。

 父が亡くなった際に、わずかばかりの財産のほとんどを手放してしまったという。

 幼いうちは他家の雑用を引き受け糧を得て、成長した今では村の外へ出て単独で狩りをしている。 

 デンゼンはみすぼらしい小屋で一人きりで暮らしていた。


「……」


 早くに母と死別しているという経験が共通しているのも、バザウがデンゼンに奇妙な親しみを感じる要因だろうか。


「バザウ、また子守りを頼まれたのか」


 デンゼンは、バザウの腕の中ですやすやと眠っている幼児に冷たい一瞥をくれた。


「俺は、つくづくあきれる。図々しい女もいたものだ。こんなに弱くてちっぽけな者に、神の手を煩わせるほどの価値が、あるとはとても思えない」


「そうトゲトゲしいものいいをするな。皆、祭りの支度で忙しいのだ」


「収穫祭。それが終われば、成人の儀式」


「そうだな。お前の晴れ舞台だ」


 戦士の印は、鼻を横切る一筋の黒い傷だ。

 聖なる火で清められたナイフで傷をつけ、色が残るようにと香木から作った炭粉をすりこむ。

 それこそが天空の山岳の民が誇る戦士の傷だ。


(その勇ましい傷がついている者はというと……、もうすっかりくたびれた爺さんになっているか、空へと帰ってしまったかのどちらかだけどな)


 皮肉というべきかなんというか、今この村で戦士の名にふさわしい二人の男の顔には、どちらともこの黒い傷はついていない。

 デンゼンの方は、テオシントが傷を授ける儀式を拒否したために。

 テオシントは、シャーマンという特殊な役目に就いているために。


 バザウは儀式のやり方も学んだ。

 次の成人儀礼がくれば、デンゼンに名誉ある傷を授ける準備はできている。


「俺はお前を立派な戦士として認めよう。そのための支度もちゃんとしてある。ただ……」


 バザウには少し気がかりなことがあった。


「収穫祭の方が……、どうも……な」


「バザウ、何を悩む? 団子を上手く、こねられないのか?」


 即物的かつ短絡的なデンゼンの思考回路が実によくわかる返答だ。


「祭りにはちゃんとした意味がある。時の流れで形は変われど……、その本質は失われてはいない。村人たちの魂を神聖な力で満たす、命の祭りだ」


 一年の収穫を大地に感謝すると同時に、健康長寿を祈願する場でもあるのだ。

 バザウは少し気が重い。


「……俺が神として未熟なせいで……、その、なんというか……。加護が及ばず、子供や老人、病人などが死んでしまったら……。そう思うと、どうしても気が晴れない」


 神を騙るゴブリンは自分が作り上げたウソに苦しめられる。


「別に。バザウ。気にすることは、何もない」


 特別な感情のない声でデンゼンはいう。


「バザウの助けがあっても、なくても、変わらないことが、一つある。人間はいつか、死ぬ。絶対に。特に、弱い者は、簡単に命を落とす」


挿絵(By みてみん)


 デンゼンのいうことは間違っていない。

 シンプルすぎるこの世の摂理。


「だから、バザウ。自分の考えで、苦しむな。弱いヤツは、どうせすぐに死ぬ」


 感情の薄い表情と声では、慰めなのだか諦めなのだかまるでわからない。


「なんだか、嫌だ。とても嫌。バザウは、弱いヤツに構いすぎる。俺は、気に入らない」


「うん……? なんだ、お前も老人や赤ん坊みたいに、手厚く優しく面倒を見てもらいたいのか? ククッ、それは愉快な絵面だな」


「……」


 青年は無言で立ち尽くす。


「はあ……。俺が悪かった、デンゼン。からかってすまなかった」


「神の恵みは、優れた戦士にこそ与えられるべきもの。その尊く得難い祝福を得るために、俺は……ただ、ひたすらに……強さを…………」


 どこか張り詰めた表情をしたまま、デンゼンは黙りこんでしまった。


「デンゼン?」


「……困った。格好良い言葉を使いたかったのに、俺の頭、何も浮かんでこない」




 祭りの日の朝早く。リコ・ピンの家の大釜戸の前に女たちが集結する。

 色形も様々なイモを蒸し粉や塩を加えて練っていく。

 最後の仕上げに、生地をちぎって団子の形に整えるのがバザウの役目だ。


(なんだかこうして和やかな雰囲気の中、大勢で作業をするのも……、悪くない。気分が落ち着く)


 バザウは自分の考えにハッと驚いて手を止めた。


(……俺は、昔の自分と変わったんだな)


 大勢の中で心が安らぐなんて。集団というものは、それまでバザウに孤独を突きつけるものでしかなかった。

 故郷のハドリアルの森でも。

 プロンやザンク、赤帽子隊長のいたゴブリンの洞窟町でも。

 今、バザウは村人たちに囲まれ、穏やかな雰囲気の中心にいた。

 そんな変わった自分を拒絶することなく、バザウは受け入れてさえいた。


(あれから本当に……、色んなことがあった)


 旅の中で起きたことは、必ずしも良いことばかりではなかったけれど。

 水の流れが石を削っていくように、バザウの心も経験の中で変化した。


 サローダーの放埒。

 プロンの統率。

 コンスタントの激情。

 学者先生の思慮。

 ピーチ・メルバの無謀。

 ビアンキの狂気。

 ジョンブリアンの純心。

 ルネ=シュシュ=シャンテの紡いだ、混沌の運命の道筋。


(……これだけの経験を積んで、ようやく俺は他者と関わることを恐れなくなったのか……。我ながら、笑ってしまう。とんだ臆病者のゴブリンだ)


 自分が少し成長したからだろうか。

 それだけに孤立しがちなデンゼンのことが気になってしまう。

 人間でありながら、彼は人間の輪の中には入れない。異分子の異端児。


「……」


 ゴブリンと人間。賢さと凶暴さ。

 違いはあれど、バザウはやはり重ね合わせてしまう。

 デンゼンと過去の自分を。


(俺はアイツに教えてやりたい。多くの者たちが、この俺に教えてくれたように)


 丁寧に動くバザウの手の中で、いくつもキレイなキレイな神の心臓が作り出されていく。

 それは温かくて、柔らかで、新鮮な乳に似た色をしていた。




 収穫祭を迎えた村は朗らかな賑わいに包まれていた。

 バザウは鮮やかな布が重ねられた祭り用の天幕の中に座っている。

 傍らには雑事を手伝ってくれる女たちがひかえている。何もかも心得たという顔で座る彼女たちの存在は頼もしい。

 朝に作ったばかりの団子は大きなカゴの中。村人全員の口に入るだけの量がある。


 天幕の間からふわりと風が祭りの空気を運んできた。


(くっ……! この香ばしい匂いは焼き菓子か。それからこれは……、果物の糖蜜がけだ! この芳醇な香りは上等の酒だな!!)


 収穫祭の宗教的メインディッシュたる神の心臓とは別に、露天では様々な俗の食べ物が売られていた。

 普段は質素な暮らしぶりの村人たちも、この時ばかりはご馳走に舌づつみを打つ。


(ああ……。なんという悲劇だろうか。俺は露天で買い喰いもできない! 神であるがゆえに!)


 村の神さまは天幕の中で、大事な役目を果たさなければならないのだ。

 村人は行儀良く列をなし、晴れがましい顔で神の手から神聖な食べ物を受け取る。

 子供たちは澄み切った目を輝かせて。老人たちはシワだらけの手を合わせて。


(……ゴブリンの手から差し出される食べ物をこうもありがたがるとは……。他の人間がこの村の連中を見たら、きっと散々バカにするのだろうな)


 若い母親に抱かれた赤ん坊が、バザウの前にやってきた。

 小さな小さな手が無邪気に伸びてきて、バザウの指を子供ならではの無遠慮さで握る。


「おっと」


 赤ん坊がつかんだ指をそのまま口に入れようとするので、バザウは軽く指を曲げて抗った。

 黒く鋭いゴブリンの爪は、オシャブリの代用品としては適しているとはいいがたい。


「うむ、困った……。俺の指は、食べ物でもオモチャでもないんだがな」


「あっ。これはっ、とんでもないことを……!」


 思いもしない我が子の行動に母親は大いに慌てたが、天幕の女たちの間から和やかな笑い声が上がる。

 一人の老婆が実に手馴れた風に赤ん坊の気をそらして、バザウの指は解放された。

 まだ若い母親は軽く頬を紅潮させながら、はにかんだ微笑と会釈をして去っていく。

 天幕の中には優しくほんわかとした空気が満ちていて、バザウはその温かさの中に溶けこんでいた。


(もしもどこかの誰かが、俺の大切な村人たちを侮辱したら……。俺はとびきり辛辣で強烈な皮肉と呪詛をソイツに吐きかけてやるとしよう)


 だがバザウは気づいている。一番彼らの信仰心を侮辱しているのは、他でもない自分なのだと。


「……」


 チクリと刺した痛みに目を背ける。

 どうにか神々しく慈悲深そうで偽善的な顔を取り繕って、バザウは自分に期待されている役割を続行した。




(……ついにテオシントは顔を出さなかったな)


 夕暮れになれば祭りの終わりも近い。


(あの陰険そうなシャーマンがこないのはわかるが……、アイツがまだきていないな……)


 バザウはほとんど空になったカゴをチラリと見た。

 村人のほとんどが訪問した天幕には、まだデンゼンの姿がない。


(どうしたのだろう……)


 デンゼンを心配するなんてバカげていた。

 飢えた野獣を退けるほど強く、不注意な番犬に死の制裁を加えることに微塵も躊躇しないほど非情な青年だ。

 バザウがその身を案じるまでもない。あれは殺しても死にそうにない男だ。まして山地での活動は、彼の方が長けていた。


(だが……。相手の企みを見抜いて、奸智を切り抜けるだけの賢さは?)


 心から産まれた不安な感覚が、バザウの体中に広まっていく。

 

(俺は祭りの間、行動範囲が制限されている。ちょっと頭の回って抜け目のない相手なら、俺の隙をつくこの絶好のチャンスを見逃しはしないだろう……)


 バザウの心臓は早鐘のように脈打つ。

 その不穏な鼓動は、生じたばかりの不安や焦りを血流に乗せてくまなく全身に運んだ。


「さて。そろそろお開きの時間にございますね」


 天幕に射しこむ西日に目を細めながら年長の女がいった。

 うつむきがちに、バザウはつぶやく。


「……まだ祝福を授けてやれていない者がいる」


 女たちはちょっとの間、顔を見合わせた。やがて誰かが口を開く。


「それはとんだ不精者ですこと」

「バザウさま。半日も天幕にずーっと座りどおしで、かえってお疲れになったのではありませんか?」

「日が沈めば、山に吹く風も冷たくなりましょう。長のいる石造りの家は、堅牢で隙間風もなく暖かですよ」


 女たちはヒスイの神を気遣うが、バザウの憂いは晴れない。

 そんなバザウの横顔を見て年嵩の女が少し妥協した。


「大事な祭りの場に遅れたあの若者を待つのは、日没までですよ、バザウさま。よろしゅうございますね?」


 バザウはただコクリとうなずいた。

 彼女は立ち上がり天幕の入口をさっとめくると、しなびた指でオレンジ色の太陽を示す。


「あそこの雲の上に乗っているお天道さまが、山のむこうへ沈んだら。その時はもう、祝祭はおしまいです」


 バザウはデンゼンの強さを信じている。

 それと同時に、勇敢さゆえの無謀を案じてもいた。

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