ゴブリンと忌み事
大きな手をした男だ。
黙々と山道を先導するデンゼンの後ろ姿を見ながら、バザウはそんなことを思った。
デンゼンの背丈は、人間としてはそれほど高い方ではない。
しかし全身を覆った強靭な筋肉の張りや、彼が発する強者ならでは重圧が、その体躯を実際より一回りも二回りも巨大に感じさせていた。
「……」
風が生活の臭いを運んできた。バザウは村が近いことをしる。
その時ピンと立った尖り耳は、興奮した獣の吠え声をとらえた。
「村、守る犬。野生の獣や家畜泥棒。近づかないよう、見張っている」
(犬……? 犬ってこれが!?)
山岳地帯の犬は、バザウがしっている犬とは違っていた。
森狼に匹敵するほどの頑強な体。いやエサを与えられている分、野生の狼よりも大柄かもしれない。
どっしりとした体を支えるのは、太い四肢。生半可な牙も刃物もとおさない、分厚い毛皮。
気性はいかにも荒そうで、唸り声を上げながら嗅ぎなれぬ臭いの元へと集合する。
そんな猛獣の一団が、ヒモや鎖につながれることなく全速力でバザウの方へとむかってくる。
獰猛な犬の群れは、デンゼンに対して警戒と戸惑いを見せながらも、怪しい来訪者バザウを取り巻いた。
デンゼンといっしょにいなかったら、バザウは体を喰いちぎられていたかもしれない。
「邪魔だな」
無表情をたもっていたデンゼンに、ほんの少しの変化が起きる。
チリリと空気を焦がす緊張感がただよう。
「気持ちが悪い。イライラする」
デンゼンは不機嫌そうに息を吐き出した。
それだけの挙動で犬たちが明らかに怯えおののく。
デンゼンのすぐ間近にいたバザウは、犬たちよりももっと深い恐怖にさらされていたのだが。
犬の群れは、軽い混乱状態に陥っていたのだろう。
村を守るという役目に従うなら、得体のしれない臭いの主バザウにむかって吠えたてなければならない。
だがそのそばにはデンゼンがいる。冷たい目をしたデンゼンが。
何匹かの犬は尻尾を股の間に挟み、慎重にデンゼンから距離をとり始める。それが賢明な判断だった。
だが一匹の若いオス犬は、恐怖と混乱とその未熟さのあまり、とても軽率で愚かな行為に出た。
牙を剥き出し、バザウへと飛びかかったのだ。
デンゼンの腕が一なぎした。
トマトが潰れるような音がした。
犬が一匹、地面に転がった。
それが、バザウに知覚できた出来事のすべてだった。
「お……、おい」
無表情で右手の爪をいじってたデンゼンが、視線をバザウにむける。
デンゼンの指先には、茶色い犬の毛と皮と脂肪と肉が付着していた。
(武器は使わず、素手で……肉をえぐり取った……だと……)
どう考えても人間の範囲を超えた膂力だ。
「……そんなことをして、良かったのか? 村の番犬なんだろう?」
デンゼンはこともなげにただ一言。
「弱いヤツが悪い」
バザウが犬の残骸に目をやると、すでに何匹かの犬たちに囲まれていた。
フンフンと強く鼻面を押しつけている。
死に瀕した仲間を思いやっているのか、あるいはその肉を引き裂き食べているところなのか。
この角度では判別がつかないし、今のバザウは事実をしろうという気にはなれなかった。
「バザウ」
名を呼ばれて、思わずビクリと体がこわばる。
そんなバザウの様子に気づいているのか、いないのか。
あるいは相手の心情にまったく興味がないのか。
「バザウ。ケガ、しなかったか? 犬の体から出た汚いものが、そっちに飛び散ったりはしなかったか?」
気遣うような言葉だが、その声からは優しさやぬくもりといったものは一切感じられなかった。
(デンゼン……。コイツは少し……、いや、かなり危険かもしれない)
サローダーが、ふざけた調子で投げかける言葉。
プロンが、小さな体に似合わぬ堂々たる威厳で放つ言葉。
コンスタントが、ちょっと偉そうにしながら話す言葉。
学者先生が、旺盛な知的好奇心と静かな情熱をこめて語る言葉。
ジョンブリアンが、キラキラと目を輝かせながら、時折高笑いなどを挟みつつ、楽しそうに長々と続ける言葉。
彼らの言葉にはあったものが、デンゼンには欠けていた。
「ああ。優秀で熱烈で、その上ケンカ早い信奉者さまのおかげさまでな」
「そう。ケガはないか。良かった」
たいして感情のこもっていない声でこの返事。
デンゼンには皮肉もつうじないらしい。
さらに村へと近づいたところでデンゼンがピタリと足をとめる。
(おいおい。今度はなんだ……)
ふいにバザウはその場を跳ねのきたい衝動にかられた。理性でその場に踏みとどまる。
しかし弱者としてのゴブリンの本能は未だに危険を告げていた。
「……」
バザウは傍らの青年を一瞥した。
デンゼンの黒い髪がざわりと逆立つ。顔面の筋肉が痙攣し、若々しい肌に怒りのシワを刻みこんでいた。
「テオシント!」
凶暴な視線を一身に受けているのは、やや離れた場所に佇んでいる人影だ。もつれたような白い長髪の中に、痩せて骨ばった顔が浮かんでいる。
その顔面にはいくつもの金属片が穿たれていた。腕にはトゲだらけのイバラを巻きつけている。痛みを伴うだろうその奇怪な装飾が、不気味な凄みをこの男に与えていた。
杖を携えているが、それは歩行を助けるためのものではなく、なんらかの力の象徴のようだった。
テオシントと呼ばれた男はその瞳をバザウへとむけた。
「……ヒスイの肌をした者」
その視線に割って入るようにデンゼンが躍り出る。
「俺の神だッ!!」
敵意を隠すことなく叫ぶ。
「気味の悪い目玉で見るな! シワがれた声で語りかけるな! 俺の神だ!」
(俺の神……、ね)
なんとなくバザウの目には、仕留めた獲物を横取りされそうになった獣が怒り狂っているように見えた。
そんな獣に臆することなく男は対峙する。
「呪われた子。何を企んでいる」
デンゼンはその質問に答えなかった。
「偉そうな口をきいていられるのも、今のうちだ。テオシント。その地位も、力も、俺が奪ってやる」
そうしてこうつけ加える。
「命もな」
単なる若者の軽口ではない。
デンゼンはそれを実行しうるだけの力も意志も持っている。
(険悪どころの騒ぎではないな)
二人の因縁はかなり根深いものらしい。
テオシントの方も、ただ黙って罵られているばかりではなかった。
「笑わせる。半人前のお前がか?」
愚弄と侮蔑をこめた挑発。
もはや言葉のやり取りでは収まらないのは明白であった。
デンゼンは疾走する。なんのためらいもなく、同時になんの考えもない。無謀な突撃。
テオシントが杖を掲げる。その動作に呼応して、突風が吹き荒れた。
巻き起こった風は熾烈で無慈悲。デンゼンの猛攻を押しとどめるほどだ。
単純な腕力ならともかく、戦いの駆け引きにかけては相手の方が上手らしい。
(あの男、風をあやつるのか……)
バザウは以前、似たような力を見たことがあった。
あの豊かなゴブリンの町に、破滅を連れてやってきた冒険者ギルドの人間たち。
その中の一人が空気の流れを操作して、今と同じような芸当をした記憶がある。
あのような不思議な杖にもどことなく見覚えがある。
沼土のシャーマン、ウィロー・モス。彼女が素朴な杖を振るうだけで沼の精霊は望みに応えた。
それから忘れられないのは、炎を使う魔法使いの女。あの女が使っていた優美な細い杖には宝石の飾りがついていた。
ただ洞窟内の酸素を奪った風使いは杖を持ってはいなかった。その代わり、不思議な力を使う時、何か宝石つきの装身具に触れていた気もするが。
魔導の力を操る者たちが使う道具はバザウにとってナゾが多い。
ハッキリしているのは、目の前の男は杖を掲げて突風を起こしたということ。
(風のシャーマンだと思って、間違いなさそうだな)
その風がやんだ時にはシャーマンは忽然と姿を消していた。
「いつもだ。ああやって俺から逃げる。俺が怖いのだ。臆病者め」
デンゼンが頭を掻き上げると、髪の間から小石や小さな木片がパラパラと落ちる。
砂利混じりの突風は、デンゼンの肌を土埃で汚し、いくつかの切り傷をつけていた。
「……」
結局テオシントというシャーマンが、バザウのことをどう思っているのかはわからなかった。
(俺の正体がバレているのか? それとも……。まあ、いずれにせよ……)
バザウはチラリとデンゼンを見る。
そして先ほどのシャーマンの姿を思い返す。
(まったく。ゴブリン族の俺があきれるほどに、粗暴で殺伐とした奴らだ……。部族全員がこんな荒々しい気質なら、村での居心地も期待できそうにない。長居は無用だな)
村の食料を腹に詰めこんだら早いところトンズラしよう、とバザウは方針を変えた。
ふと、濃い鉄の臭いがバザウの鼻に届く。
先ほどは気づかなかったが、デンゼンの頬が深く切れて、そこから赤々とした血が滴っている。
(なんだ。けっこうザックリやられたんだな)
デンゼン本人はさして気にもしていなかったが。
「お前。ここ、切れて血が出ているぞ」
バザウはなんの気なしに手を伸ばす。
少し傷の様子を確認した後で、できるようなら簡単な手当ぐらいは施してやっても良いと思っていた。
デンゼンはバザウの手とささやかな親切を避けるように、その身をかわす。
「やめろ! 触るな」
バザウは無言で顔をしかめる。
(ああ、そうか。勝手にしろ。もうしらん。そんな傷、膿んでしまえば良い)
デンゼンは珍しくうろたえているようだった。
やがて訥々とした調子で、彼なりの説明をはじめる。
「そんな風に俺に触れてはならない。俺の血が、ヒスイの肌を赤く汚す。それは……。それは、良くないことだ。バザウ。俺の言葉、あまり上手くないが、わかったか? 俺は、わかってほしい」
彼にしてみれば、まったく予期せぬ行為だったのだろう。元からたどたどしい言葉に焦りの色がうかがえる。
あのデンゼンがこうまであたふたしている姿が、バザウの目にはなんだか面白く映る。
「ククッ……! お前も驚いたり慌てたりするのだな。しかしその傷はどうするんだ? このまま放っておくつもりか?」
しばし悩むような間を置いてから、デンゼンは口を開けかけ……、途中でやめた。
「痛むのか……?」
しゃべろうとして口を動かすと頬の傷に障るのかもしれない。
バザウはそう考えたが、デンゼンの思惑は違っていた。
「だめだ。舌が届かない」
バザウはこみ上げてくる笑いを抑えきれなかった。
この青年ときたら。比類なき力を持っていながら、あきれるような愚かさと無知。まるで滑稽。
「まったく。デンゼン、お前はつくづくしょうのないヤツだな。自分で舐めて傷を治すつもりなのか?」
「? ほかにどうやって傷を癒す?」
純粋すぎる疑問にバザウの笑いはスッと引いていった。
デンゼンはこのような手段でしか傷を治す術をしらないのだ。
バザウはこの青年を嘲笑った自分を恥じる。
「……村の人間たちも、そんな有様なのか?」
これからバザウがむかうのは、傷の治療方法もわからぬほど原始的な文化の村なのか。
これでは村人の世話になるより、バザウが世話をするハメになりそうだ。
「……」
「なぜそこで黙る」
うながされて、ようやくデンゼンは語った。
「俺はよくしらない。ケガを負ったり、病気になった者が、何かをされているのは見た。俺はされたことがないので、どんなものかまではわからない」
村人たちは一応は治療の技術を持っているようだ。
だがデンゼンだけは、その恩恵にはあずかっていないらしい。
「一族の者を治療するのは、シャーマンの役割。だがテオシントは、俺を癒そうとしない」
「……先ほどの白い髪をした男か……。お前にその傷を負わせた」
デンゼンはうなずいてから話を続ける。
「テオシント。俺のことを相当嫌っている。呪われた子だと、俺をいう」
呪われた子。
バザウはこの言葉を口の中でつぶやいた。
「俺が本来の時期に成人の儀式を受けられなかったのは、テオシントのせい。大いなる父が、成長した我が子に戦士の傷を与える。とても名誉な儀式。俺の親はいない。両方死んだ。テオシントはシャーマンで、俺の叔父。だから、テオシントが父の代わりを果たし、戦士としての俺を認めるべき」
けれどもデンゼンはその儀式を受けられなかった。
だからこうして神としてのバザウを頼っている。
父親や部族のシャーマンよりも偉大な存在、ヒスイの神からの承認が必要だったというわけだ。
「テオシントは儀式の当日になって、俺の期待を打ち砕く。俺は呪われているから、戦士の傷は与えられないという。憎い男。俺を侮辱した男。許せない。いつか落ちぶれさせてやる。今の地位から引きずり下ろしてやる。その息の根を止めてやる」
感情のない顔と淡々とした声でデンゼンはたっぷりの怨嗟を吐き出す。
「……」
バザウがこの青年と出会って、まだそう時間はたっていない。
その短い時間でもデンゼンという人間について色々とわかったことがある。
彼の凶暴性。危うさ。抱えた怒り。
どれもけっして人間の美徳とはいいがたい。
(いいがたい……のだが……)
バザウはそこで思考を打ち切った。
(コイツの人格や素行が良かろうと悪かろうと、どうでも良い。俺には関係ないことだ……。ただその素朴でお粗末な信仰心に、ちょっとばかり俺がつけこむだけの……。それだけの関係なのだから)
まだ血を滴らせている青年にバザウは声をかける。
「……その傷、俺がふさごうか? 応急処置ならできるぞ」
デンゼンの答えは変わらなかった。
「だめだ。バザウ、いけない」
血で頬を染めた青年は少し先を指差した。
「村は近い。すぐそこだ。前を歩け、バザウ。俺の血が飛び散って、その肌を汚してしまわぬよう」




