ゴブリンと獣の遭遇
岩だらけの斜面にわずかばかりの草木がまばらに生える。
酸素は薄く生きものにとっては過酷な地。
天空の山岳はそんな場所だった。
(とりわけ、単独行動のゴブリンにとっては……、な)
バザウは窮地に立たされていた。
黄色い毛並みに黒いブチを散らした捕食者が、ジッとバザウを見据えている。
森狼よりは大きくて、灰色グマよりはいくらか小さい。いずれにせよゴブリンよりはずっと大きい。
ギリギリの間合いだった。
獣とバザウの間に遮蔽物はない。
(……森林地帯で見かけたものと同種のようだが……。こっちは獲物への執着がかなり強い)
密林の獣の場合、忍び寄っての不意打ちができないと悟れば、すぐに狩りを中断した。
しかし山岳地帯の獣は獲物に感づかれても一切引く気はない。
(喰い意地がはっていることだ)
ジリジリと距離をつめようとする獣にむけてバザウは石を投げつけた。
投げる石には不足しないが、いつまでそんな抵抗を続けられるだろうか。
この程度の威嚇で追い払える相手ではないことは、明らかだった。
獣はジリジリと距離を詰めてくる。そうやって少しずつ接近しておいて、一息で殺せる間合いになれば獣はバザウのノド笛めがけて飛びかかってくるつもりだ。
(フン。みすみす喰われてやるほど、俺は大人しくはないぞ)
バザウは短刀を抜いた。
勝算が限りなく低いことは理解していた。
獣が鼻をひくつかせる。
獲物を追い詰めていた金色の眼に、とたんに焦燥の色が浮かぶ。
ノドから漏れ出す低い唸りは、ほんのかすかに恐れをふくんでいた。
(獣が、恐怖している……?)
バザウに、ではない。
何かもっと強い者に。
野獣のごとき身のこなしで小石を蹴散らし、それは岩肌を駆け下りる。
高所から、不安定な足場へと見事な着地。
バザウは一瞬、新たな獣がやってきたのかと思った。
だがそれはまぎれもなく人間の姿をしていた。空から急に降ってくるのは、美少女だけではないらしい。
「……」
人間の視線と関心が、バザウへとむけられる。
なんの感情も読み取れない目をしていた。
その隙を好機とばかりに、先にいた捕食者はすごすごと退散する。
残されたのはバザウとこの奇妙な人間だけだった。
バザウが人間と遭遇したのはこれが初めてではない。
村の少年コンスタントや、貴族の娘ジョンブリアン。それから他にも色々な人間を見てきた。
(……なんだ、コイツは)
今、目の前にいる人間はこれまで出会ってきた人間とはどこかが決定的に違っている。
バザウは本能でそう感じ取った。しかし、その違和感の正体までは判別できずにいた。
(野生の獣が引き下がるほどの男……、か)
あからさまに敵意や殺気を表すことは抑えつつ、バザウは警戒の姿勢だけは崩さない。
どの方向へも俊敏に逃げられるよう体の重心はあえて遊ばせている。
先に動いたのは、青年の方だった。
バザウに考える猶予すら与えない、迅速かつ迷いのない……。
平伏!
「……」
油断させておいて奇襲をしかけるつもり、というわけでもなさそうだ。
それは完全完璧、まごうことなき……。
土下座!!
(な……、何を考えているのかさっぱりわからない!)
しばらく迷ったすえにバザウは青年に声をかけた。
「……顔を上げろ。いったいこれはなんのマネだ?」
青年は耳だけをピクッと動かした。その様子が、まるで獣のようだとバザウは思った。
そして青年はゆっくりとした動きで顔を上げる。ひざまずいた姿勢でいても、堂々とした雰囲気を放っている。
彼が口を開くまで、少しの間があった。
「畏れ、敬うべき者。俺はそれを見た。俺は平伏す。これが質問の答えだ、大いなる者」
「ハッ? ……大いなる者だと?」
バザウは懐疑的な眼差しをむけた。人間は真っ直ぐな目でバザウを見ている。
純粋な意志のこもった視線に耐えられず、バザウの方から目をそらした。
「くだらん。世迷言だ。教えてもらいたいものだな。お前の目には、俺がどんな風に映っているのだか」
バザウはゴブリン族だ。人間たちから、緑肌の害獣と呼ばれているゴブリンなのだ。
「俺の目に映るのは、気高き者」
一切の疑いもなく青年は断言する。
「ヒスイの色をおびた神だ」
(ヒスイの色……? この緑肌のことか?)
その発言を手がかりにバザウは推論を組み立てた。
(ふむ……。この土地の人間にとって、ヒスイは神聖なものとして考えられているのだろう)
真実の愛の箱庭にいた時に、バザウはヒスイというものを見たことがある。
貴族たちが身につける宝石の中では、それほど価値のあるものではないらしい。それでも、清流を思わせる緑色が爽やかな石だった。
「だが、俺は……。ゴブリンだぞ?」
青年はオウム返しにつぶやいた。
「ゴブリン?」
そこでバザウはある可能性に思い当たる。
(……まさか、ここの人間どもは一度もゴブリンを目にしたことがないのか?)
ありえない話ではなかった。
ゴブリンの仲間は世界中のあちこちに住んでいる。
しかしこの山岳地の麓にはドワーフの大集落がある。ゴブリンとドワーフは非常に仲が悪く、相容れない存在だ。ドワーフはゴブリンを排除するし、ゴブリンはドワーフを忌避する。
山頂付近に住む人間たちが、緑肌のゴブリンと接触したことがないとしても不思議ではない。実際この山の付近でバザウの同族が暮らしている痕跡も見当たらなかった。
「ゴブリン、とはなんだ?」
素朴な問いかけにバザウは失笑まじりの自嘲で答える。
「今、お前の目の前で語っている者のことだ。時に緑肌の害獣といわれ、時に凋落した妖精族の末裔と呼ばれる」
青年はあまり話を理解していない様子だった。
わかったようなわかっていないような顔をして、それでも熱心にバザウの一挙手一投足を見つめている。
「さて、人間。お前は神に何を望むんだ?」
バザウは居丈高に問いかける。
この質問は大事だった。神の名を騙るには。
神といっても千差万別。豊穣をもたらす農耕神もいれば、秩序や規律を定める神があり、かと思えば気ままに歌って踊って人の色恋に茶々を入れてすごす神もいる。
ルネがおこなう行為の中で唯一誰かの役に立っていることといったら、普段神を信じていない者が苦し紛れで助けを求める声に、気まぐれで手を差し伸べることぐらいのものだ。そういうわけで、ルネ=シュシュ=シャンテは博徒や泥棒、流浪の民、それから腹痛を抱えて便所にこもる者たちなどから支持されている。
(……もしもあまりにもロクでもない役目を期待されているのなら、さっさと姿をくらませてしまおう)
「神。俺に戦士の印を授けてくれ。そうすれば、俺は一人前の部族の男になる」
(戦士の印? ふむ、成人儀礼か……?)
会話の中でだんだんと事態が飲みこめてきた。
山岳の民はヒスイを神聖視し、ゴブリンのことをよくしらない。
よって緑の肌を持つという特徴からバザウを神と見なした。
目の前の青年は、なんらかの理由で神の助けを欲しているようだ。
(ふうん……。これは、なかなか面白いぞ)
状況が整理できてくるとバザウにも余裕が産まれた。
(労せずに美味い食事と温かな寝床を手に入れる、またとない良い機会だ)
山地の厳しさにバザウは辟易していたところだ。
食料が乏しく、ここ数日は虫とトカゲと苦い草で飢えをしのいでいた。水を探すのでさえ一苦労するありさまだ。
あまり食料探しに夢中になりすぎると、巨大な捕食者に襲撃されて自分の方が喰われるという皮肉なオチが待ち受けている。
安全な寝場所を確保することも困難で、ずっと浅い眠りしかとれずにいた。
バザウが生命力にあふれた若いゴブリンでなければ、とっくに憔悴して死んでいただろう。
それほど生きるということ自体が過酷な土地だった。
(それに……、いつもふんぞり返っている人間をこき使ってやるのも悪くはない)
バザウはこっそりと舌舐めずりをした。
その賢い頭脳は、いかにして人間たちからより多くのソーセージを巻き上げるかを計画している。
(しかし神を騙るのは色々と面倒だ。仮に俺の正体が露見した時、始末に困る……)
バザウは青年に念を押すことにした。
無知な者へとつけこんで、共謀者とするために。
「なあ、人間? 俺は自分がゴブリンであると、お前に明かしたよな?」
「そうだ」
「そして、お前の仲間たちはゴブリンのことをしらない、と……。そうだな?」
「……」
「おい。なぜそこで黙る」
「俺には仲間だと思う者はいない」
青年は表情を変えることもなく、明快に孤立を告げた。
バザウは青年の出で立ちを再確認する。
屈強な体躯に粗末で簡素な衣服。荒々しさを感じさせるザラついた肌。
大自然の中で単独サバイバルしてます! とでも宣言されたら、そうなんだ! と信じてしまいそうな説得力はある。
もしそうならば多くの人間たちから神としてチヤホヤされて、ご馳走と温かな寝床が保証される安穏とした生活はまず望めない。ソーセージにありつくことも、夢のまた夢だろう……。
(いや……。一人きりで生きているのなら、部族の一員となる成人儀礼というものは存在しないはず)
彼のかたくなな顔からは、悲愴さも哀愁もない。
(表情の読めない奴だ。……まあ、何かが原因で、同部族の者たちと打ち解けていないのかもしれない。うーん……。反抗期というやつか?)
バザウの脳裏に、コンスタントの顔がチラッとかすめた。
「……俺の力が欲しければ、勝手に祀るが良い。知恵と知識を与えてやろう。お前が望むなら、戦士の印とやらもくれてやる」
青年は深々と頭を垂れた。
(強い人間が、俺の前で額づいている。うん……。悪い気分ではないな!)
普段はルネとかルネとかルネとかによって、踏みにじられ、ないがしろにされているバザウの自尊心がこうして満たされていく。
「名を聞いておこうか、人間」
「デンゼン」
「デンゼン、顔を上げろ。お前の前に、ヒスイの肌をした者がいる」
偉そうで尊大な態度をとるのに、特に抵抗はなかった。
ロクでもない神々なら、バザウの身近に手本がいくらでもあったから。
「神の名は、ゴブリンか?」
「おっと。その名はウカツに口にすべきではないな」
「?」
バザウは小さな子供にシーッとするように、デンゼンの口元に指を当てた。
それから静かな声でそっとささやく。
「ゴブリンというのは、俺の秘められた尊き名だ。お前はその名をしっているが、他の人間には決して漏らしてはならない。約束できるな?」
デンゼンはコクリとうなづく。
「俺、デンゼンはその誓いを守る」
素直すぎる受け答えに、狡猾なゴブリンは優位と悪意の笑みを隠せない。
従順な信徒にむけて神は有意義な教えを説いた。
「さて、デンゼン。俺からお前へ、最初の知恵を一つ送ろう。……見しらぬ相手に対して、何も考えずに漠然と自分たちの習慣で応じることは、時に悲劇と災いを呼ぶ。たとえそれが、友好的な風習であったとしても……」
デンゼンの無知と純朴さを教えという形で密かに嘲笑う途中で、バザウの顔に苦悩の色が浮かんだ。
過去の出来事を思い出した。どうあがいても償いきれない自分自身の手痛い失敗だ。
「神? どうかしたのか」
「……どうもその呼ばれ方は落ち着かないな。俺のことは……」
ヒスイの肌をした者は、その名を告げる。
「バザウと呼べ」
「バザウ……。俺の神。俺が見つけた。俺と出会った」
青年の声ににじむのは、うわごとのような熱狂。
「新しい神、見つけた……。古い神は、もういらない。あのシャーマンも、用なしだ」




