ゴブリンとお芝居の終幕
「出立の日はいつだい?」
箱庭の管理人は落ち着いた声で尋ねた。
彼女の部屋にはずらりと人形が並んでいる。
だが、もう人形たちは所有者に四六時中持ち歩かれることはないようだ。大切に扱われてはいるがあくまでもモノとして。無数のヒトガタは身代わり人形としての役目を終えた。
「準備が済み次第だ」
バザウはもうすでに旅装束に戻っていた。準備に手間取るほどの大荷物も持っていない。
「ふふっ。すっかり身支度が整っているくせに。旅立ちを遅らせているのは、あの子のためなんだろう?」
「……」
バザウはそしらぬ顔をしてテーブルの上のお茶を口にした。
高価なギヤマンガラスにそそがれているのは、麦を煮出したお茶だ。ほどよく冷えている。
お茶菓子はゴマのせんべいだ。どちらもネグリタ=アモルの生前の好物らしい。
「……ああ。そのとおりだ」
孤絶した漂泊者は予定を先延ばしにしていた。ジョンブリアンが箱庭に来訪できる日まで。
「別れの挨拶をしなくてはならないからな」
共にいられる時間は過ぎ去った。
「愛する人のそばにいられないのは、つらいよね」
ビアンキの隣のイスに、童女の姿をしたネグリタ=アモルがちょこんと腰かけている。
「聞いても良いか? なぜそこまで強く……。ええと、だな……。ネグリタ=アモルを愛せるんだ?」
根源世界でのビアンキの思いは、ルネの力を凌駕していた。
ビアンキの純粋にして一途な心には、混沌の忍びこむ余地がなかった。
だが、一介の人間がそうそう神に匹敵する心の力を持ち得るものなのだろうか。
「彼女との出会いが私の魂を震わせた。それだけさ。ふふっ、彼女と会う前から私はね……こういう感じだった」
ビアンキはスッと立ち上がり、王子めいた所作でうやうやしくバザウの手をとりひざまずいてみせた。
ふざけたような笑みを見せてからビアンキは元の席に戻る。
ビアンキがひざまずいてみせたのは明らかに演技。遊び心だ。
「理想の王子を演じている私に、年下の女の子たちが無邪気に夢中になって、はにかみ笑いを浮かべるのを見るのが楽しかったんだ。お芝居のようなものだったけれど、それでも私を見て喜んでくれる彼女たちを眺めるのが純粋に楽しかったよ」
恋に恋する思春期の少女にとって男装の麗人のビアンキは憧れの対象だった。
「いきなり私の目の前に現れたこの人は私よりも年上で、私よりも人生の苦悩をよくしっていて……。私の演技にも喜ぶことなく、ただひかえめな冷笑があるだけだったね。あなたの悲しそうな黒い瞳がすごく……印象に残って、気になった」
ビアンキは途中からバザウではなくネグリタを見ながら話していた。
貴族の少女から人気を博した銀髪の王子も、ネグリタの前ではただの変わった小娘にすぎない。
「私はずっと、憂いをたたえた目をしたあなたに心から笑ってほしかったんだよ」
「私が彼女を代行者として選んだのには……、ハッキリとした理由があります」
ネグリタ=アモルは少々戸惑ってから口を開いた。
「とても利己的で……、打算的な理由からです。創世樹計画を成功させるために、私は彼女に接触しました。チリルさまから、そうご指示がありましたから」
チリル=チル=テッチェの創世樹計画は、高位の神々から危険視された。これまでの世界を一変させるものだと。
創世樹を育てるには強い心の力の持ち主が欠かせない。その情報が判明すると同時に高位の神々は手を打った。強い意志の力を持つ魂にチリル=チル=テッチェが近づけないよう障壁をほどこす。
だが、その措置がとられたのはこの世界だけにとどまった。世界は無数に存在する。異世界の魂の情報まで完全に掌握することは上位の神々にとっても困難な作業だ。
「ビアンキは、チリルさまの初期の計画段階では創世樹の宿主候補だったんです」
妨害によって、チリル=チル=テッチェはビアンキを創世樹の主にすることはできなくなった。
その代わりに異世界におもむき、ネグリタ=アモルの魂をこの世界へと呼びこんだ。
チリル本人はビアンキに直接干渉することは不可能だが、ネグリタ=アモルなら上位神の障壁に感知されることなくビアンキと会える。
当初狙いをつけていた強い魂を持つ者をネグリタの補佐役として、味方に引き入れようとした。
こうして地上での代行者としてビアンキは活動することとなる。
がチリル=チル=テッチェの思惑に反して、ビアンキはネグリタ=アモルの創世樹を破壊する要因の一つとなった。
(秩序の神でも、その計算が狂うこともあるのか)
ふと今後のネグリタがどうなるのかが気になった。
(計画に失敗した者に対して、チリル=チル=テッチェはどういった行動に出るのだろう……)
優しく慰めの言葉をかけてくれる?
くじけちゃダメだと励ましてくれる?
(あるいは……)
バザウの考えごとの内容を見透かしたのかネグリタは幼い表情を曇らせた。
「何も問題はないよ」
箱庭の主は臆することなく、こともなげにいってのける。
「くわしいことはわからないけれど、神々同士の対立のせいでチル神は私には近づけないらしいね。だったら、ずっと私のそばにいれば良い。あなたがそう望むなら」
「私は……」
ネグリタは深いため息をついた。
「私は……、我が身の可愛さしか考えられない、さもしい女ですから……」
そう陰気にささやきながら、ぴと、と霊体をビアンキに寄りそわせる。
幽霊にくっつかれてもビアンキは鳥肌を立てることもなく、平然としていた。
「これまであなたを利用してきたように、またあなたの力にすがってしまうのですね。私はそういう弱い女なのです」
童女の姿には似つかわしくない哀愁をもうもうと漂わせている。
(うぅむ……。話すことにいちいち自己卑下が入り混じっていて、なんというか……。面倒くさいヤツだな)
その上、辛気臭いときている。
コミュニケーションするだけで気力を奪われそうな相手だ。
だがビアンキにはそれも彼女の魅力の一つとして映るらしい。
「ふふっ。あなたがどんな理由を持っていても、一切問わないよ。今、私の隣で、微笑んでくれるのなら」
神々の意図すらくつがえした女は、満ち足りた顔をして麦茶を飲むとお茶受けのせんべいを手に取った。
麦茶とせんべいがメインのお茶会が終わると、ビアンキはネグリタのために白檀の香を焚きこめ、キクの花束を進呈した。
「それは死者への手向けの儀式らしいな……」
「ああ。そうだよ」
「……」
バザウはしばらく考えてから、キクの花を少しばかりわけてもらった。
ビアンキの部屋を後にして、バザウがむかったのは箱庭の片隅。
薄暗くて静かな場所だ。ここには箱庭の中で生を終えた人外たちが眠っている。
「……俺は、お前が命をかけて貫きとおしたかったことを足蹴にしてしまっただろうか……」
スモークの魂が今どこをさ迷っているかは定かではない。
だが少なくとも彼の肉体はこの地に埋葬されているのはたしかだ。
「お前は俺が大嫌いかもしれないが……。俺自身の気持ちの整理をつけるためだ。受け取れ」
白い菊花をそっと死者へと捧げる。
「……」
祈りを終えてバザウは目を開けた。
ジョンブリアンは大荷物を携えて箱庭へとやってきた。
「おい、なんだその荷物は」
バザウが一尋ねると十倍ぐらいの回答がわーっと返ってきた。
「あら? 冒険にはしっかりとした準備が必要でしょう? ワタクシ、何を持っていくべきなのか、真剣に真剣に考えたのよ。まずは着替えの服を一とおりそろえておかなくちゃ。動きやすい野外着に、寝る時にリラックスできる寝巻でしょ。正式な場所に訪問する時の礼服もないと困るし。服の次に大事なのは薬よね。旅先での体調不良ほど気が滅入るものはないわ。ガタガタの悪路を馬車でとおると、具合が悪くなるもの。あれは最悪よ。第一、美しくないわ。そうでしょ? あとはオヤツをめいっぱい詰めておいたわ。お父さまが交易品で取り扱っている干し果物は、甘くて日持ちもするから冒険には最適だと思うの!」
一瞬、バザウの旅に同行するといい出すのではないかと案じたが、それは杞憂だった。
「ワタクシからあなたへの餞別よ」
「……ありがたい。が、いくらなんでも量が多すぎるな」
バザウの旅は、専属の荷物持ちを雇えるような優雅なものではないのである。
高貴な場所に立ち入ることも、馬車に乗せてもらうこともない。少なくとも、正式には。
「せっかくの好意なのに、全部持ちきれなくてすまないな。ちっぽけなゴブリンが背負うには、重すぎる」
餞別の荷物は選別していかなければならなかった。
バザウが選んだのは、旅糧の食べものを出来るだけ。
それからゴブリンにも効き目がありそうで、使い勝手の良さそうな薬を少し。
ジョンブリアンから没収した銀製の果物ナイフも忘れずに持っている。
「服は……、こんなにいらないな」
予備の下着が少しあればバザウは充分やっていける。
「そう? オシャレしてみれば良いのに。貴族の服を着たバザウは、とても格好良かったわよ」
「そんな姿で野山を歩けば、一日で台なしになるだけだ。仕立て屋が泣くぞ」
「うふふっ。それもそうね」
テキパキと荷造りをし直すバザウの姿をジョンブリアンは大人しく見守っている。
その表情はどこか満足そうだ。
(……すねたり、ワガママをいったり、嘆いたりはしないのか……。少し、残念だな……って、俺は何を期待しているんだ!)
チラリと出かかった本心から気をそらすため、バザウはわざと複雑で難解な結び方に挑戦して食料袋の口を閉じた。
「どこへいくのか、わからない旅なのよね」
「ああ」
バザウが歩く道のりは不穏な混沌が先導する。
自分の足で歩いていても、自分の意志では進んでいない。
ジョンブリアンと出会ったのも、彼女が危険にさらされたのも、すべてはルネ=シュシュ=シャンテの謀。
(だが……)
たとえそれが、仕組まれた出会いだったとしても。
(ジョンブリアンと二人で築いていった関係は、俺自身の意志と行動によるものだ)
二人が
共に過ごした時間はなくならない。
だが二人が共にいられる時間は刻一刻と終わりにむかっている。
「これからは……、別々の道を歩くんだな」
孤絶した漂泊者。
一人で暮らしていくことに慣れていたはずなのに。
ここから立ち去れば、自分の心の大切な一部まで置き去りにしていくような錯覚にとらわれる。
「……」
「バザウ」
バザウの沈黙の中に、いつもと違う感情を感じとったのだろうか。
ジョンブリアンの声は静かで落ち着いていて優しかったが、き然としていた。
「あなたに出会えて、本当に良かった」
それから少しおどけた調子で少女は続けた。
「いつまでもバザウといっしょにいたいけれど、そうもいかないわよね。お荷物で足手まといになるだけの女の子になんてなりたくないもの。ワタクシ、そんなの絶対にごめんだわ。でも、いくらそう強く思ってみたところで、いきなり歴戦の華麗な女戦士に変身できるはずもなし。温室育ちのワタクシでは、とうていバザウの大冒険にはついていけそうもないわ」
ジョンブリアンはユーモアをまじえて明るく不満をこぼしてみせる。
彼女の笑みにつられてバザウの口元も自然にほころぶ。
(……これほど、愛しいのに)
バザウとジョンブリアンは共にいられない。
それが現実。どんなに強い気持ちでも、くつがえすことはできない。
「だけどね。決めたの」
ジョンブリアンはすっと腕を伸ばしてバザウの手をとった。
輝く黒目がちな瞳とバザウの赤眼の視線がまじわる。
「あなたがこの世界をさすらうというのなら、ワタクシは世界中どこにいてもこの名をとどろかせるほどの立派な女性になってみせるから!」
それがジョンブリアンの決意。
「それは……、とてもお前らしい考えだな」
「オーッ、ホッホッホッホッ! そうでしょう! そうでしょう! 本当にナイスアイディアだわーっ!」
彼女の父親が交易にたずさわっている貴族だということを考えれば、あながち子供じみた大言壮語とはいえないだろう。
もっとも、たやすい道ではないことはたしかだが。
「だから……。だからバザウは心おきなく、世界中のどこへでも突き進んでいけば良いわ! あなたの旅の安全を祈っている」
ほんの少し悲しげに。それでもジョンブリアンはにっこりと笑ってバザウの出立を祝福した。
「ありがとう」
バザウの心は置き去りにされるわけではない。
残していった心をしっかりと預かってくれる者がいる限り。
第三部 おしまい




