ゴブリンと勇敢な戦士
バザウは潜伏場所から身動きがとれずにいた。
「どうするの? ゴブリンの姿を見失っちゃったよ?」
「お前、ものの場所をつきとめる術とか覚えてなかったか?」
「ああ、あれねー。ちょっと条件があるの」
女は肩をすくめた。
「あらかじめ魔法で印をつけなきゃダメなんだよねー。その分、遠く離れてもバッチリ位置がわかるのがメリットなんだけど」
「うーん。仕方がない。この手でいくか」
男は荷物袋から何かを取り出した。
こうばしい香りがバザウの嗅覚を刺激した。胃袋も。
「それって携帯食料? エサでおびき出そうっていうの?」
「ま。そーゆーことだ」
男が手にしているのは! まごうことなく! ソーセージだッ!! しかも、とても美味しそう!!!
「いくらなんでもそんなのに引っかかる?」
「低能ゴブリンを釣るならこれで充分だろ」
(くっ! 侮るなよ……、人間!)
バザウは拳を握りしめた。
(目先の欲につられて、命を危険にさらす愚行など、俺は絶対に犯さない!)
そんな固い自制心や決意とは別に、肉体のごく当然な生理機能としてバザウの腹がぐーっと鳴った。
「……」「……」「……」
人間の視線から察するに、腹の音で大まかな位置はバレたものの、まだピンポイントでバザウの居場所を特定したわけではなさそうだ。
ただ、このまま何もしないでやり過ごせる状況ではない。
完全に潜伏場所を特定される前に自ら行動を起こさなくては。
バザウは意を決して茂みから飛び出した。
先手を打てる機会。無駄にはできない。
女魔法使いの手から杖をかっさらう。
破れかぶれの奇襲は成功した。
「大丈夫か!?」
すかさず戦士が女をかばう。
腰にさげた剣はもう鞘から抜かれていた。質素で実用的な剣だ。鈍い光をおびた分厚い刃。ゴブリンの腕や首くらい跳ね飛ばせる。
視線は油断なく人間たちに向けたままで、バザウは手指で奪った杖をなぞる。
魔法の使い方はわからないが、これなら長柄の武器として使えそうだ。
(あの剣を受け止めるだけの強度は、この杖にはない。正面から剣の斬撃を防ぐのは……まず無理だ)
細身の杖は優美に飾られている。バザウの短剣よりはリーチが長いものの、強度の面では心許なく少々頼りない武器だ。
(有効的な攻撃手段は刺突に限られる。そうだな。長さを活かして不意をつき、顔など痛みに敏感な箇所を狙えば……)
槍や棒を扱う要領でバザウは杖を構える。
「あはっ! ゴブリンちゃんたらやる気じゃない! きゃー! 格好良いー」
女がパチパチと拍手した。男の背後に隠れて安全圏から。
「うーん。感心しちゃう! 魔法使いの杖を真っ先に奪うなんて、意外とお利口さんなんだねー。でもやっぱりゴブリンはおバカさんだー♪」
わざとらしいスマイルを女は急に引っこめ、未知の言語で何かを唱えた。
(ッ!?)
火だ。
杖から突然の発火。
バザウは驚き、反射的に杖を放り投げる。
杖は浅い流れの中に落ちた。ジュッと音がして火が消える。
その隙をついて、剣士が仕掛けた。踏み込みと同時の薙ぎ斬り。
切っ先がバザウの頬をかすめる。
「ちっ! 浅いっ」
小川付近の土はぬかるんでおり、戦士は足を滑らせたようだ。
(今のは……、危なかった。命が助かったのは、偶然……)
あとほんの少し戦士が接近していたら。
確実にバザウの旅は終わっていた。
バザウはよろけた体勢をすぐに立て直し、二本の短剣を構えた。
使い慣れた武器はバザウの手によくなじんだ
しかし、人間の戦士が振るう長剣とのリーチの差はつらい。
「短剣の二刀流か。自分の指を落とさないよう、せいぜい気をつけるんだな、ゴブリン野郎!」
「あーあ。杖が水の中に落ちちゃったよー……。やることない私は応援でもしてよっと。フレー、フレー! 負けないでねー」
戦士の後ろでは魔法使いがふざけている。
杖を拾おうともしていないし、あの調子ならいきなり魔法の火球が飛んでくることはないだろう。
「ったく。お気楽な奴だな」
魔法使いに比べて、戦士はもう少し真剣だった。
彼は地形の問題にも気づいたようだ。バザウに対する牽制を維持しつつ、水辺から離れた位置に移動して陣取った。そこなら足を滑らせる心配はない。
「はっ!」
安定した足場から、くり出される斬撃。
(近づこうにも、その隙はない、か……)
ロコツな事前動作からの単純な軌道。避けやすい攻撃。
(かわすことに専念すれば、簡単だ。が……、性質が悪い)
戦士の真の目的はバザウの位置のコントロール。
攻撃を避けさせることで、水辺のぬかるんだ土地に留まらせるつもりだ。
バザウがぬかるみに足をとられる瞬間を待っているのだろう。
(体力を消耗すればするほど、俺は不利になっていくというわけだ。早めにケリをつけなくては……)
バザウの足場は悪い。一気に距離をとろうとしようにも、失敗して大きな隙をさらすリスクがあった。
親指から小指まで。足の指に力を入れて、バザウはしっかりと湿った大地をつかんだ。
バザウは靴など履いていない。足首や土踏まず部分を保護する黒革のガードがあるだけだ。
足の指は全て露出しており自由に動かせるようになっている。
(間合いの問題は……、飛び道具で解決できるが)
短剣は投げて使うこともできる。
バザウは短剣を二本手にしていた。二本しか持っていなかった。
戦士は金属の鎧で体を守っているし、投げた短剣を長剣ではじかれる可能性もある。
投げても相手に当たらなければ、こちらはむざむざ貴重な武器を手放すことになる。
敵の前で丸腰になるのはあまりにも危険だ。少なくとも、短剣の一本は手元に残しておきたい。
相手は戦いに慣れた人間のようだ。なんの工夫もなく短剣を一本投げただけで、今の戦況を変えられるのかわからない。
慎重に考えれば考えるほど心配な点が出てくる。
もう充分考えた。さっさと動いた方が良さそうだ。バザウの命がまだあるうちに。
(……作戦を決めた。こちらから、全力で仕掛ける!)
左肩を思いっ切り振りかぶって短剣を投げる! ……のはフェイク。
戦士はこのフェイントに引っかかった。
攻撃の手を引き、慌てて防御に転じる。
その間も、バザウは動きをとめない。
体をひねる。
右足を引く。
一連のその動作は、蛮族の踊りのよう。
指の力と足の裏の筋肉を使い、泥土を右足ですくい取る。
回し蹴りを放つ要領で、戦士の顔面に泥をシュート。
同時に短剣の一本を戦士の利き手を狙ってショット。
ゴブリンの舞踏が終わった。
杖を持たない魔法使い。
剣を取り落とした戦士。
舞踏の終わりは、戦いの終わり。
「うっ、ウソだよねっ!? あ、わかったー。油断させるために、負けたフリをしてるんでしょ? ねえっ? そうなんでしょっ?」
魔法使いはケガをした戦士の肩をガクガクゆさぶった。
「つっ! おい、や、やめろよ……」
「だって、だって……。ありえないもん! ただのゴブリン一匹だよ!? なんでそんな相手に負けてるのっ!?」
ヒステリックな叫び。
「おかしいでしょ? ねえっ! 格下のザコだよ? なんで? おかしいよ! こんな結果、納得できっこない!!」
「うるさいなっ! 頼むから、黙ってくれっ」
怒鳴り声を浴びせられて、魔法使いはようやく大人しくなった。
静かになった二人の視線は、やがてバザウへとそそがれて。
バザウはその視線の中に、たしかに自分に向けられた憎悪を見つけた。
始まったものは、いつかは終わる。
この戦いを終わらせなくてはならない。
終わらせることがバザウにはできる。
「……」
ちゃんと短剣の一本は手元に残してある。
バザウは二人へ近づいた。
一歩距離をつめるたびに、人間たちが緊張するのがわかる。
バザウは黙って、短剣を一振りした。
「え?」
喉笛をかすめるように。
しかし、実際は一筋の傷さえも残さずに。
バザウは命をとるマネだけした。
争いを終結させる儀礼である。
ハドリアルの森のゴブリンの習慣だった。
軽く体を押したり叩いたり、あるいは華麗なハイキックを寸止めでお見舞いしたり。
敵対していた、あるいは敵対しそうな相手に対して、痛みのない攻撃行動をするのだ。
簡単にいうならば「わ、私が本気になればアンタを攻撃できちゃうけど、実際に危害を加えるつもりはないんだからッ! ガチの敵だって勘違いしないでよねッ!!」という意思表示だ。
おそらくゴブリンが集団で暮らす過程で自然に出来上がった、原始的な和睦のルールだろう。
まずは強者から弱者へ。その次に弱者から強者へ。痛みのない攻撃をもってして両者の争いは終わりとなる。
ただし、この儀礼的な小突き合いがすんなりいくことは少なかった。
ゴブリンたちときたら最初にどちらが殴るフリをするかでまず一悶着。
今度は相手が強く叩いたのなんので口論し……。
最終的には、しばしば本格的な殴り合いに発展したものだ。
そんなバカ騒ぎをバザウは回想する。
(人間ども。命まではとらない)
理由は二つ。
ゴブリンと似た体型をしている人間の肉を食べるのには、抵抗があった。
それからバザウにあれだけ憎悪のこもった眼差しを向けたこと。オモチャにしているザリガニをあんな目で見る者はいまい。
人間から強い敵意を浴びせられたことで、逆にバザウは満足した。
自分の存在の影響力を実感できたからだ。
(今、俺は気分が良い。だから、見逃す)
戦う意志がないことを表すため短剣を鞘に収める。
魔法使いの女が、バザウから目をそらすことなく小川まで這っていった。
震える手で、水にひたっていた杖を拾い上げる。
ゴブリン流の和解の作法では、強者の次に弱者から形式上の攻撃をすることになっている。
(……撃て。ただし、痛くないように)
そんなことを身振りで示す。
女は唇を噛みしめながら短い詠唱をした。
大気中の魔力が集まってはいるが、杖から炎が噴き出す気配はない。
ぽすん、と。
杖から放たれた微弱な魔力が、バザウの胸にぶつかって消えた。
まったくなんの痛みもなかった。
(これで、良し。これで、終わった)
プツリと緊張の糸が切れて一気に脱力しそうになる。
それをどうにかこらえてバザウは立っていた。孤独な勝者はまだ崩れ落ちるわけにはいかない。
もうすぐ日が暮れようとしていた。
二人の人間は林から去っていく。安全な街へと帰るのだろう。
「ゴブリンが……。ゴブリンなんかが……」
そんなことをつぶやきながら。
(安全な街、か……)
一人きりのゴブリンには安全な居場所なんてない。
大きなケガこそしていないが、今日の交戦でバザウはだいぶ体力を消耗していた。
(どこか……。体を休められる場所を探さなくては……)
疲れ切った体を気力で動かす。
が、思ったように動かない。
(……予想以上に……、疲労困憊しているな。食事もとっていない。ザリガニとソーセージはどうなった? ああ、まずいな。思考が、ロクに、回らない……)
極度の緊張感から解放された体は眠りを欲して、どろどろと鉛のように重くなる。
(ダメ……だ。いけない……。動か……、なくては……)
林がざわめく。
木々を揺らす風がどこからともなく狼の遠吠えを運んできた。