ゴブリンと火炎魔法使い
林の中を流れる小さな川でバザウはノドをうるおしていた。
旅暮らしでは水は貴重だ。コクコクと清水を飲む。
森を出たバザウは、仲間ゴブリンたちのバカっぷりから解放された。
が、これからは多くの困難を一人きりで解決しなければならなくなった。
自由の代償は試練。
水と食料の調達。寝場所の確保。さまざまな情報収集。これから進む旅路の選択。頭を使うべきことは多岐にわたる。
そして中でも一番重要なのは。
(……身の安全っ!)
空気中に、自然のものではない魔法の臭いを感じとった。
それと同時にバザウは跳びはねる。
後に残るは水しぶき。
燃え盛る火球が湿った地面に衝突して砕け散る。
コケやシダが焦げて、辺りに不快な臭気が漂った。
「えーっ、ウソー! はずしちゃったよー」
「やれやれ。ゴブリン相手に何してんだか」
人間だ。二人いる。
細い杖を軽やかに携えている人間。
その華奢な体には、濃密な魔法の臭いがしみ込んでいた。
甘ったるい声音と胸部のふくらみは人間の女の特徴に合致する。
人間としては平均的な身長だが、バザウよりも背が高い。
その隣にいるのは、腰に剣をさげて簡素な金属鎧を身につけた人間。
骨格と体臭から判断してこっちは男だろう。
人間としては平均的な身長だが、バザウよりもはるかに背が高く体格も良い。
(……火。火だ。ほとんどの者が恐れる、あの、火!)
焚火や松明を正しく扱うだけでも熟練のコツがいるというのに、あの女は魔法で炎をいともたやすく操った。
(落ち着け! 火の情報を思い出せ! あるゴブリンの鍛冶屋が、火について語った有名な言葉がある。木の方が、岩よりずっとよく燃える……、らしい)
バザウの心臓が早鐘のように脈打つ。
それは戦いに高ぶる闘士の鼓動だ。
同時に命の危険に直面した者の鼓動でもある。
ゴブリンは野蛮と臆病は両立できるということを示す生き証人だ。
当然この二つの性質はバザウの中にも宿っている。普段は彼の理性によって厳しく自制されてはいるが。
(状況を整理する……。俺が助かりそうな道は……、あるのか?)
辺りを見回す。
すぐそばを流れるのは、せせらぎ。水中に逃げることは物理的に不可能。
ここは林。細くヒョロヒョロした木がまばらに生えている。身を隠せる巨木やウロはない。
足場は悪い。ひどくぬかるんでいる。近くには枯れかけた病気の木がある。
少し離れた場所に鬱蒼とした茂みがある。隠れるにはなかなか良さそうだ。でも人間の注意をそらさなければ、どこに逃げこんだかすぐバレてしまう。
人間たちとバザウの間は、かろうじて顔の表情がわかる距離。愛用の短剣の間合いからは大きく離れている。
バザウは興奮気味の頭を静めて、少しでも自分が生存できる可能性を一つずつ探っていく。
そんなバザウの警戒態勢とは、まったく対照的に。
「えー、くやしー! せっかく新しい術を覚えたのにぃ」
「はは。残念だったな」
日常の延長のような感覚で。
「私の狙いは正確だったもん! ミスったのは事故みたいなものだよ!」
「あー。はいはい」
目の前にバザウなど存在していないかのように。
二人で気楽に会話をしている。
(なんだ……。陽動……、か?)
二人は注意を引く役で別の人間が潜伏しているのかもしれない。
「ねえ! もう一回! もう一回、やってみても良いでしょ? ね? お願い」
「えー? 一回で命中させられなかったら、ケーキはおごらない、って約束だったよな?」
「いじわる!」
バザウは用心深く周囲の気配を探ったが、それらしい人間の臭いはなかった。
(なんだ……? 何を考えている? どうしてそんなマネができる?)
バザウが人間と敵対的な遭遇したのはこれが初めてではない。街道をとおる罪なき旅人を襲撃したり、森に踏み込んだ猟師にさんざんしつこく絡んで追い払ったり。
争いの狂乱の中、ゴブリンも人間も互いに緊張し、必死になり、無我夢中で戦ったものだ。
佳境に入ると群れのゴブリンたちは敵も味方も区別しない公平さをもって乱闘に精を出した。
(い、いや……。故郷の森のことを思い出すのは、今はやめておこう)
胃と頭がキリキリと痛み出すから。
軽く頭をプルッと振り、改めて対峙している二人の人間に注意をむける。
二人は相変わらずとりとめのない話で盛り上がっていた。
(この余裕はなんだ? いくら俺が単独だからといっても……、敵を前にして無警戒すぎる)
その緊迫感の欠如がバザウには異様に思えた。
「次は当てるから! 私の格好良いトコ、ちゃんと見ててよね!」
「はいはい。相手はたかがゴブリンだけどな」
「うっ、うるさーいっ! もうあんな失敗はしないもん! 次は絶対はずさないって!」
ミス。事故。命中させられなかった。失敗。はずした。
人間がそんな言葉を発するたびに、バザウの耳がピクッと動いた。
(魔道を歩む人間よ……。それは、断じて、お前の失敗ではないぞ)
無意識に噛みしめた牙がギリリと鳴る。
(俺が、この耳で、危険を察し……。俺が、この頭で、回避行動を選択し……。俺がっ、この脚でっ、大地を蹴りあの火球を避けたのだっ!)
林で休んでいた鳥達があわただしく飛び去った。
バサバサと激しい羽音がしばしその場をおおう。
「ま。せいぜいがんばってくれ」
「むー! その言い方、なーんかムカツクなー」
周囲に魔法の臭いが立ち込める。
女の目線はハッキリとバザウに定められている。
杖の先端にぽうっと炎が出現した。マッチも火打石も使わずに。
(……俺を狙っているのは、間違いない……。ないが……)
あまりにも徹底された、あまりにも軽薄な態度。
男の方は木に寄りかかり、腕組みして魔法使いの女を見守っている。剣は鞘に収めたままだ。
張り切る女の姿を見つめて、のん気な笑顔など浮かべている。
バザウの脳にふと昔の記憶が浮かんだ。
幼い自分とサローダーが小川でザリガニをつかまえて遊んでいる光景だ。
その時の自分たちと、目の前の二人の姿が重なって見えた。
(……そうか。お前たちは、俺と戦う気は少しもなくて、俺で遊びたいのだな。だが……)
「おーい。あんまり遅いと、ケーキ屋が閉まるぞ。ちゃっちゃと撃て。ちゃっちゃと」
(他の生き物に……)
目の前の二人はザリガニ遊びをするような無邪気さで、バザウのことを侮っている。
「だーかーらー! 失敗しないように、狙いを定めてるんだってば!」
(ちょっかいを出す時は、常に……)
ザリガニで遊ぶ時は気をつけなくてはいけない。
不注意なサローダーは、ギザギザのハサミで鼻をはさまれて泣きわめくハメになった。
「さあっ、いっくよー!」
(やり返される危険性を意識するべきだろう!!)
バザウは枯れかけた木の枝をつかんだ。
中身はすっかりスカスカで、いともたやすくへし折れる。
まだ多くの枯葉が落ちずに残っていて、岩よりよく燃えるのは確実だ。
可愛らしい仕草で女が杖を掲げる。
火球が飛んだ。
自分めがけて業火が向かってくる。
あらゆる生き物を恐怖させる炎が!
バザウは、跳びずさりも、しゃがみ込みもしなかった。
そむけようとする目で、火球を見据え。
引っ込めたい腕を伸ばして、枯れ枝の束を突き出し。
嫌だと叫ぶ本能を叱りつけて、手にした枝で恐ろしい炎を上手いこと絡め取った。
「えっ……!?」
あっけにとられた人間に考える隙など与えない。
バザウは火球と化した枯れ枝を思いっ切り投げる。
「きゃあっ!」
魔術師の悲鳴が上がった時には、バザウはすでに茂みへ逃げ込んでいた。
炎はすぐに消えてしまい、相手のローブに少しばかりの焼け跡をつけただけだった。
(人間も反射的に火を怖がるらしい)
たとえそれが、魔法で炎を出せる魔術師だとしても。
炎の効果は絶大だ。
バザウはヒリリとする痛みを束の間忘れてニタリと笑った。指を火傷しても試してみた価値はある。
すでに深い草地に身を隠している安堵と、自分がとった行為への満足からくる笑みだった。
バザウがとった行動は人間二人組にとってかなりの予想外のものだったようだ。どちらもひどく動揺している。
「ううー、ビックリしたー……。あれっ? ウソッ!? いやーっ!! わ、私の髪がコゲてるーっ!?」
「クソッ! ザコのくせに反撃してくるなんて……っ!」
「あっ! ねえ、ゴブリンがいないよ!」
バザウがいる草地は林床に広がっているので、ここでじっとしていればまず居場所を特定されることはない。
広範囲の草地をやみくもに剣で刈り取るのは効率が悪く、焼き払うのはあまりにも無謀というものだ。
人間なら割に合わない労働はしないはず。もっとも……、ゴブリン族ならやりかねないが。
二人の会話の内容からして、適当に見つけたゴブリンを使って軽く腕試しがしたかっただけのようだ。
このままバザウが大人しく隠れていれば、いずれあきらめて立ち去るだろう。
……そう期待していたのだが……。
「せっかくのキレイな髪をコガしただなんて……。これは許すわけにはいかないよなぁ」
先ほどバザウが投げた枝は地面に落ちて、今やほとんど灰と炭になっていた。
武骨なブーツを履いた男の足が、まだくすぶっていた燃えがらを忌々しそうに踏みにじる。
「どこに逃げたんだ? 出てこい臆病者!」
「絶対つかまえてよね! この私がみっちりと身の程ってものを教えてあげるんだから!!」
「わかってるって。調子に乗ってるザコには、教育をしてやらなきゃな」
どうやら穏便に立ち去ってくれる気は少しもないらしい。
(あ。ザリガニの思い出の続きを思い出した……)
幼少のサローダーの鼻をはさんだ、あのザリガニの末路を。
騒ぎを聞きつけ、サローダーの母親がドスドスとやってきた。
そして、ぴーぴー泣きわめく息子の鼻を放さないザリガニを片手でフンガッと握り殺して、小さな反逆者はご臨終となったのだ。
それが強者に果敢に抵抗した弱者の末路。