ゴブリンとペン
コンスタントの秘密基地で文字を習うことになった。
第一の難関は正しくペンを持つことだ。
苦労してペンの持ち方を覚える。
どうにかこうにか……、持てるようになった。
一つ一つの文字の書き方は修得した。
次は文字をつなげて単語にする段階だ。
「最初に書く言葉は、自分の名前が相応しいな」
「バザウ?」
「いや。偉大なるコンスタントの名に決まっている」
(自分の名前って、そっちの方か……)
「私の名はいずれ世界へとどろくこととなろう」
どこまでも目立ちたがりで押しの強い少年だ。
「……わかったよ。ペンスタンド」
「コンスタントだ!」
紙は貴重品だ。コンスタントが以前使った練習帳の文字を上からなぞる。
バザウは面白いことに気がついた。
最初は丁寧に書かれていた文字が、くり返すたびに崩れて乱れていくことに。
「面白い。文字が進化している」
「人の些末な揚げ足を取って、楽しいか?」
コンスタントが不機嫌そうに片眉を吊り上げた。
「そうじゃない。文字がより書きやすい形に……、情報が最適化されていく過程が興味深かったんだ」
「ふん。お前は変わったところに目をつけるな」
インクがかすれて妙なところで曲がったクセ字は、目の前の少年と雰囲気が似ていた。
文字の勉強が順調に進むと、バザウにも他のことを考える余裕が出てきた。
たとえば、フズの境界線。
コンスタントに尋ねてみる。
「村に古くから伝わっている話なんだ」
自分とバザウの姿を交互に見てから、コンスタントは話し始めた。
まだ林の中に境界石が並べられる前のこと。一人の子供が森の奥深くへと入り込んでしまった。
その子供を見つけたのは、腹をすかせた森狼でも、獰猛な灰色グマでもなく、一匹のゴブリンだ。
「そのゴブリンの名は、フズ。幼い子供だったという」
人間の子とフズは子供同士仲良くなった。
フズの案内のおかげで、子供は無事に森を抜けて村へとたどり着いた。
「迷子の子供は、今度はフズに人間の村を見せようと思ったらしい」
コンスタントの声が暗くなる。
バザウはだいたい話の顛末の察しがついた。
「行方不明の子供を探して気が立っていた村人たちは、話を聞くこともせずフズに襲いかかったんだ」
バザウの表情をうかがうように、コンスタントが視線をむける。
「俺は気にしていない。……続けてくれ」
「子供が泣きわめき必死にうったえかける。ようやく村の大人たちがあやまちに気づいた時には、フズはすでに息絶えていた」
人間がゴブリンに対して、不当な暴力と死を与えた。
「このことは村人を動揺させた。ゴブリンではなく自分たちが間違いをおかしてしまった。不正をおかし悪事を働くのは、ゴブリンの側だと決まっているのに」
バザウは一度だけ鼻を鳴らす。
侮蔑するかのように。
(それまでは一度たりとも人間はゴブリンに不正に暴力を振るったことはない……と。この物語は、そういう前提のもとで成り立っているわけだ)
「あの、バザウ」
気まずそうに名を呼ばれる。
「……続きをどうぞ」
目の前の少年に怒りをぶつける気はない。
バザウは見しらぬゴブリンのために義憤を燃やすほど、熱い正義感など持ちあわせていない。
それに一般的なゴブリンの素行を考えてみれば、たいていの人間の方がお行儀が良いことについては認めても良いだろう。
「当時の村長はこの事件を重く見て、森のゴブリンに謝罪の品を送った。そして今後は互いの行動範囲をおかさぬようにと、境界線を村と森の中間地点に作ったんだ」
「それがフズの境界線か」
林の中にズラリと並んでいた素朴な石垣。
あれこそが、人間の村とゴブリンの森をへだてるフズの境界線。
「バザウの境界線……。なんてものが、新たにできないことを願っておくか」
「そんなことはっ、私がさせるものかっ!!」
冗談混じりにはいた皮肉。
間髪入れずコンスタントはそう叫んだ。
「バザウよ。安心するが良い。私の邸宅にいる限り、お前の身は私が守ろう。何もおびえることはないのだ!」
「……え、あ、はぁ? ……それは、どうも」
貧弱な腕をした少年に、そんなことをいわれても少しも頼りにできないのだが。
コンスタントは棒きれを持ち出した。
格好ばかりは優雅にかまえてみせる。
群青色のマントをバサァっとひるがえす。
「我流の王室剣術を身につけている。ゴブリンの集団だろうと、下賤な村の者だろうと、私の敵ではない」
コンスタントは自信満々の笑みだ。
(……どこからツッコめば良いのだろう……)
棒きれのレイピアを収めてコンスタントが意外なことをいった。
「私はフズが羨ましい」
「死んだ子ゴブリンが?」
「ああ。死後もその名が残っているではないか」
コンスタントは文字の練習帳に手を伸ばした。
散々練習させられた彼の名前が数ページにかけて連なっている。
「私は自分の存在を世界にとどろかせたいのだ」
「ふむ……。虚栄心もそこまでいくと壮大だな」
「おい、バザウ!」
「はいはい。失礼いたしました、……と」
いつものように軽くあしらいかけ、途中でそれに気づいてしまう。
コンスタントの目尻に小さな水滴がたまっていくのを。
「お、お前には、私の苦悩がわからんのだ! その緑の頭には、ソーセージの味しかつまっていない! それに比べ私の心は、悲しみの色をおびた数多の絵の具で悲壮な風景画が描かれているっ!」
子供をなだめるのは苦労する。
やたらプライドの高い者の相手をするのも大変だ。
プライドの高い思春期まっさかりの子供をなぐさめるのは、相当の気力を必要とする。
「……ええと……。すまなかったな」
泣きながら怒鳴り散らすコンスタントに、何が非かもわからず、とりあえず謝る。
「口ばかりではどうとでもいえよう! なぜこのように叱責されているのかも、理解しておらぬくせに!」
「……なら、ちゃんと理由をいえ」
「このうつけ者めっ! 人の心の機微を察するということをしらんのか!」
心の機微を察せといわれても、コンスタントの反応は唐突で極端だ。
「推察するに足りる情報すら、こっちは与えられていない」
コンスタントはそれきり黙り込んでしまった。
気分を害してすねたのか、彼なりに反省しているのか。体育座りをした背中からは判断しづらい。
「……邪魔したな」
バザウは立ち上がる。
外で時間をつぶしても良いし、気がむけばそのままどこかへいくつもりだった。
が、前につんのめる。
バザウの毛皮のマントに子供一人分の重さが急に加わったため。
「外に出ては危険だろう! それにお前、どこにもいく場所もないではないか。ここにいろっ」
バザウがその気になれば、世界中がいく場所になるのだが。
(……いく場所がないのは……)
おんぶをせがむ赤ん坊のように背中にひしっと貼りついた人影を見る。
バザウは軽くため息をついて腰をおろした。
バザウがとどまったことで、ひとまずコンスタントの癇癪は治まったようだ。
それでも狭い邸宅の中ではまだ陰鬱な空気が晴れない。
「……私は、存在を認められなかった子供なのだ」
長い沈黙の後でコンスタントがようやく口を開いた。
バザウは黙って耳を傾ける。
座った膝の上に無造作に置いてあるのは、コンスタントの名をたくさん書かされた練習帳だ。
意味もなくその表紙を指でなぞった。




