ゴブリンと少年
バザウは古びた石垣の上にまたがっていた。
(さて……、どちらにしたものか)
一方は人里。もう一方には深い森。
バザウがいるのは、その中間に位置する林だった。
(村から食料でも盗むか、それとも森で獣を狩るか……)
すでに手持ちの保存食は尽きている。
火の山をこえる険しい道のりで、ほとんど消費してしまった。
その時だ。
バザウの尖り耳に、あえかなる音色がそっと接吻した。
いかに優れた楽師とて奏でられはしない甘美な旋律。
「ッ!」
ソーセージの皮がパリッと裂ける音である。
林の中。
少年がパンの包みを膝の上で広げていた。
ソーセージをはさんだパンは一口だけかじられてはいるが、まだほとんど少年の手の中にある。
(……襲撃して、ソーセージパンを奪う……。ダメだ。村が近い。いくらソーセージのためとはいえ、リスクが高すぎる……)
美味しいソーセージを目の前にしながら、それを見過ごさなければならない。
生きていると時にこういうこともある。
悔しさをグッとこらえてバザウは拳を握りしめた。
(ん……? なんだ、アイツ……。食べ物を前にしているわりに、やけに浮かない顔をしているな)
バザウは改めて人間の少年を観察した。
見たところ年齢は大人と子供の間。ちょうど思春期の少年だろうか。
落ち着いた色合いをした群青のマントを上品に着こなす一方で、子供じみた半ズボンを当たり前のように履いている。
薄茶色の髪はマッシュルームの形に整えられていた。
少年はパンを持ったまま、不機嫌そうな顔で何やら考えごとをしている。
(くっ、何をしているんだ……! 食べないのなら、俺にくれれば良いものを)
じらされるような気持ちでバザウは少年を凝視する。
正確には、少年が手にしているソーセージパンを見ている。
少年が眉根を寄せた。嫌悪をあらわにした表情。
そしてあろうことか……、信じられないことに……。
手にしたパンを放り投げたのだ!
「!!」
バザウは一切の理性を放棄した。
無情にも弧を描いて重力に引き寄せられるソーセージのために、全身全霊でむかっていく。
間一髪の救出劇であった。
まさに地に落ちる寸前、バザウの手はしかとソーセージパンをつかんだ。
「はぁっ、はぁっ……! お、お前ぇっ! 何を考えている! ソーセージを投げ捨てるなど!」
ソーセージパンを一口食べて投げ捨てるというあまりの蛮行。
自分の種族も立場も忘れ、バザウは激情にかられるまま叫んでいた。
「おっ……、お前こそなんだというのだっ! ゴブリンがなぜここにいる!?」
呆然としていた少年が我に返り、声をはり上がる。
「いかなる理由があって協定をおかした? フズの境界線をこえてはならぬと、昔より決められているはずだ」
協定? フズの境界線?
少年の口からは突飛な単語が飛び出した。
「お前、人語を解すようだな。境界のむこうよりきたゴブリンの使者か?」
「ちょっと待て。そちらの状況が……、よく、呑み込めない」
バザウは少年を制止した。
「あと、俺がこのパンを飲み込むまで、待ってくれ」
バザウは事情を話した。
話してもさし障りのない情報だけ。
あわよくば村で食べものを失敬しようと思っていたことは伏せておく。
「それで……。お前は放浪の旅をしているはぐれ者のゴブリンで、偶然近くをとおりがかっただけだと。そう主張するのだな?」
「ああ」
バザウは口をぬぐいながら答える。
ソーセージにからんだトマトのソースが非常に美味。
パンの生地にソースがしみこんでいて、かじるたびに旨味が広がった。
「俺と関わり合っても、なんの得にもならない……。さっさと追い払うことだな。そうだ、人間の子よ。ゴブリンをあしらう特別な知識を伝授してやろう。ゴブリンを追い払うには、石よりもソーセージを投げると良い。石が命中しても、ゴブリンは怒ってむかってくるかもしれない。ソーセージを遠くまで投げれば、少なくともそれを食べる間はゴブリンの注意を確実にそらせる」
牙についた白ゴマを舌でキレイになめる。
パンにはさまっていた新鮮なレタスの歯ごたえが忘れられない。
ソーセージやパンとはまた違ったシャキシャキの食感が楽しめた。
しばらく待ってみたが、少年はバザウにソーセージのおかわりを投げつける気はなさそうだ。
「それでは俺は、おいとまするとしよう」
人間の前に姿を現すべきではなかった。
ゴブリンと人間の遭遇は、いつだってトラブルの元なのだ。
「いや。私はお前を逃すわけにはいかない」
き然とした声で少年が宣言した。
「旅のゴブリンという話が本当なら、お前などさっさといなくなった方が都合が良い。だが、そうでなければ?」
少年の目が油断なく細まる。
「フズの境界線のゴブリンとは別のゴブリンの群れが、村を狙っているのかもしれん。お前がその斥候でないとも限らない」
バザウは笑いを浮かべた。
「お子さまにしては頭が回るな。その推測がまったくの見当違いだということに目をつむれば、なかなか利口だといえる」
バザウはソーセージの後味を堪能するのをやめて、状況を把握する。
ここは村から遠い。少年が声を張り上げたところで、村人はすぐにはかけつけられないだろう。
(……始末するのは、簡単だ。五秒とかからない)
バザウはそんなことを考えながら少年の細い首を見ていた。
ゴキッとへし折ってしまおうか。サクッと切り裂いてしまおうか。
人間の子供を手にかけるという非道も、ゴブリンのバザウにしてみれば特に抵抗感もない。これがもしゴブリンの子供なら情けをかけてしまうところだが。
少年もまるで品定めでもするようにバザウを見つめる。
無知なのか豪胆なのか。武器を携えたゴブリンを前にして、少しも怯える様子を見せない。
ソーセージのために飛び出してきたという遭遇時の第一印象も、バザウが軽く見られている原因の一つだろう……。
居丈高に少年が尋ねる。
「お前。人の言葉をどこで習った?」
「聞きかじりでの独学だ。発音のおかしなところでも、ご指導してくださるのか? 人間さま」
バザウの言葉に少年は一瞬憤慨したが、すぐにとりつくろったすまし顔に戻る。
「これは驚きだ。このゴブリンは皮肉まで操るらしい」
少年はそう鼻で笑い飛ばした後で何やら小声でつぶやいた。
「独学で……、か」
群青のマントがパッとひるがえる。
「ゴブリンにしては見どころがある。旅をしているといったな。特別に、私の邸宅に招待してやろう」
バザウは少年の言葉の真意を探った。
(……ワナにでもはめるつもりだろうか?)
いぶかしがるバザウをよそに、少年は無防備に背中をむけてすたすたと歩いていく。
子供ならではの豪胆さか。はたまた危険意識が欠けているのか。
バザウはあっけにとられた。
「バッ、バカ! ゴブリンに背中を見せるなんて……、どうかしている! あ……っ、危ない……、ぞ」
最後の方は、ごにょごにょとごまかすようになってしまった。
当のゴブリンがいうセリフではない。
すかさず嘲弄の声が飛んでくる。
「目を合わせたまま後ろ歩きをしろとでも?」
「それはクマと会った時の逃げ方だ……」
もはやすっかり少年のペースになってしまった。
バザウは軽くため息をつくと、しぶしぶといった様子で少年の後についていく。
完全に少年を信用したわけではない。ワナの有無や他の人間の気配には気を配る。
それから、少年が片手でぶら下げている食事の包みにも。
「ここだ」
「おっと、すまない。どうやら俺は『邸宅』という単語を間違って覚えていたようだ」
木の上に強引に設置された小屋がある。
子供の秘密基地としてはそれなりに頑丈そうな造りだ。
だが、間違ってもこれを邸宅とは呼ばない。
バザウの嫌味を気にもかけず少年は誇らしげに笑う。
「小さくともここは私の城だ。招待されたことを光栄に思うが良い」
「……それはどーも。お招きいただき、ありがとうございますです……」
邸宅には、ロープを使って登り下りするようになっていた。
バザウは森育ちのゴブリンで木登りは得意だ。 さすがにサルやエルフほど上手に……、というわけにはいかないが。
なめしたぶ厚い獣皮がドアの代り。めくり上げて中に入る。
「……ほう、これは……。なかなかのものだな」
樹上の小屋なので、大きなものや重たいものは置いていない。
クッションやラタン製のカゴなど軽量な家具が中心だ。
細々とした雑多な品に混ざって、いくつかの本があった。
「あの、あれ……。少し本を見せてもらっても、かまわないだろうか?」
おずおずとそんなことを頼んでみる。
「!? ゴブリンが書物をだと? そ、それはかまわないが。お前、本に興味があるのか?」
知識に触れる喜びでバザウの声はかすかにうわずっていた。
「ああ。ずっと前から、実物を見たいと思っていた。人間は、本から知識を得ると聞く」
バザウは手近な本を一冊ひろいあげる。
表紙を指でなぞり、中のページにも触れてみた。
「……」
それからおもむろに本を閉じると、静かに目を閉じて額に押しつけた。
「おい、ゴブリン。いったい何をしているんだ?」
「……本から知識を得られるということは、しっている。だが……、どうすれば得られるかまでは、わからない。食べれば良いのか? それとも、人間でなければ無理なのか?」
バザウが嘲笑をあびたのはいうまでもない。
「ぷっ……くく。まあ、ゴブリンが文字を書けずとも……、くっ! な、何も、恥じることはな……ぷふっ、あははははっ!」
「……い、いい加減しつこいぞ。いつまで笑うつもりだ……」
もっとも人間でさえ、文字をきちんと理解している者は限られている。
読み書きを習得するには教育が必要で、教育を受けるには余裕が不可欠。
これぐらいの小規模な農村では文字を読めない者が多数派だ。
小屋にこれだけ書物があることから、この少年は限られた一部の方らしい。
「なんなら、私がお前に読み書きを教えてやらないこともないのだが……」
「文字を教えてもらえるのか!」
ぱっと顔を輝かせバザウが振り返れば、ほくそ笑んでいた少年と目が合う。
あまりもキラキラとバザウが期待に胸を膨らませている様子に、少年は性格の悪そうな表情のままで固まった。
やがてばつの悪そうな表情に変わる。
「あ、ああ。教授してやる。私にはそれだけの教養があるからな」
「……文字を修得できるなんて、夢のようだ……。学ぶ機会をくれて、ありがとう」
そっぽをむいてしまった少年に感謝の言葉をかける。
「まだ名を明かしていなかったな。ハドリアルの森の産まれ、震撼を呼ぶヘスメの十二番目の息子バザウだ」
少し躊躇してから少年の方も名乗る。
「私の名は、コンスタント」
バザウ、しばらくの沈黙。
「……インスタント?」
「コンスタントだ!」
今日一日でバザウの知的好奇心はくたくたになるほど刺激された。
だから小さなナゾたちは頭の隅へと追いやられてしまった。
フズの境界線とは何か。
境界線のむこうにいるゴブリンたちは何者なのか。
コンスタントがパンを投げ捨てたのはなぜか。
ただの村の子供にしては態度が高慢で、書物を所有しているのはどうしてなのか。




