ゴブリンと継承の神
やっとのことでたどり着いた山頂には、荒涼とした風景が広がるばかりであった。
神々しい大樹。古の言葉が刻まれた石板。高い技術と信仰で作られた建造物。
そういったものは何もない。
山頂にあるのは不気味な泉。
それだけだ。
神秘的? とんでもない。
毒々しい深緑色でドロリとしている。
時々底の方から泡が浮かんできてねばりと弾けた。
魔女が煮立てた雑草スープを連想させる。
緑色の正体は、小さな藻のようだ。
それが膨大に繁栄している。
この泉の中には小魚や水棲昆虫さえもいない。
普通の生き物が生存できない環境なのだろう。
高温のせいか。水質が悪いのか。
(……神はどこに……)
バザウは考えた。
そもそも神はどんな姿をしているものか、と。
ゴブリンがなんとなく崇める神は、容姿が定まっておらず名前もわからない。概念的な存在だ。
概念を信仰しているというと崇高に聞こえるかもしれないが、ゴブリンたちは神を棚ぼたラッキーをもたらす不思議なものくらいにしか思っていない。
人間の文化では、神は人やエルフに近い姿をしているらしい。
他にも、獣や鳥の神もいるだろう。
古木や巨岩そのものを神と見なす考えもある。
「ならば、この泉自体が……、神なのか?」
バザウは深緑の泉に視線をむける。
待ってましたとばかりに、泉がゴボゴボとわき立った。
「ゴブリンがやってくるとは珍しいじゃないか」
緑の色素が集まって濃厚なゼリーに変化する。
メロン色をしたスライムが、組織を急速に変形させ人型の頭部を作った。
続いて、肩、胴、脚と形成されていく。
「ここにくるのは思いつめた顔をした人間ばかりさ」
人型であるが、人ではない。
「僕が語る真理を求めてね。でもたいていは僕に気づかず去っていく」
ゼラチン質の髪が空気の中をたゆたう。
重力を無視して緋色の楕円球が飛び回る
「……泉の精、なのですか?」
「惜しいね。僕は泉を緑色に染めた犯人。ありふれた、見栄えのしない、ごく平凡な、藍藻類の神だ」
猫を思わせる瞳をイタズラっぽく光らせながら、得意げにこう付け加える。
「二十七億年前に世界を一変させただけのね」
太古の神は名を明かす。
「僕はシア=ランソード=ジーノーム」
バザウは、異形の神に畏敬を示そうとした。
が、それをシアが制止する。
やたらとキザで耽美な仕草で。
「およしよ。頭をたれる必要も、額を地になすりつけることもない。そんなことしなくても、僕が偉いのは自明の理なのさ。そうだろう?」
「あ。はい」
「……相方がいないと、このノリとテンションを維持するのは困難だね。どうもやりづらい」
「相方……? 対になった神がおわすのですか?」
シアは苦笑を浮かべただけだった。
「さて、と。わざわざこんな山を登って、この僕に会いにきたんだ。ゴブリンくんも僕が語る真理をお望みなんだろう?」
(そうだったか?)
「……なんだよ、その沈黙は」
「あ、いえ。頭がよく働かず……。ご無礼をお許しください」
シアがバザウの顔をのぞきこむ。
「ふむ」
その顔は意外にも真剣で。
でもそこにはロマンの欠片もありはしない。
バザウのことを見極めようとする、選定の眼差しだった。
「……山を登ってきて疲れたのかもしれないね。話の前に少しばかり休息をはさもうじゃあないか」
シアが空中に軽く手を滑らせると、岩場が生き物のようにゆっくりと動いた。
増殖し、成長し、崩壊し。
別の形に変化していく。
数秒後には、そこそこ快適なイスとテーブルが構築された。
「さ、かけたまえよ。遠慮することはない」
バザウはおずおずと腰をおろす。
少し前まで活発にうごめいていた岩状生命体の上に。
(うう……。これは、生き物なのか……?)
そんなバザウの心情にはおかまいなしで、シアは憩いの一時の準備を進めていく。
マイペースに。
「ゴブリンくん。メロンソーダ飲むかい?」
コトリと。テーブルの上にガラスのゴブレットが二つ出現した。
「っ!?」
禍々しいほどに緑色の液体。
それは、泡立っていた。
いくつもの微細な気泡が底からとめどなくわき上がる。
(これは……猛毒っ!? いや、強力な酸の一種か……!?)
バザウは一つの結論に達した。
(なるほど……、そういうことか)
シュワシュワと音を立てる、エメラルドグリーンの液体を凝視する。
(これは神が与えし試練! 真理を得るのは、毒の苦痛を乗り越えた者だけ……、というわけか!!)
「おっと。僕としたことが。ストローをつけるのを忘れ……」
「火の山に君臨する神よ!!」
ゴブリンは臆病で狡猾な生き物だ。
基本的には愚かだが、死を恐れる感情も持ち合わせている。
バザウとて死は避けたい。
だが、危険と引き換えに神の知識が手に入るチャンスがあるとしたら?
「……神の知識は……、死を覚悟した者だけに与えられる……、ということなのですね?」
ふるえる手でバザウは器をつかんだ。
その振動で液体がいっそう泡立つ。
「ふっ。我ながら、ブザマな……。しかし、どうしても手が震えます。死を近く感じるほど、命を深く感じるとは……。不思議なものですね」
「いや、君が何をいっているのか、僕にはまったく理解できないよ。とりあえず、その悲壮な決意を秘めて死にゆく男の顔をやめたまえ。今すぐに!」
とんだ誤解であった。
「お恥ずかしい限りです……」
「この世界の者にこれを飲ませてリアクションを見るのが、僕のちょっとした楽しみの一つなんだけど。いやあ、ゴブリンくんの反応は新鮮だったよ」
メロンソーダ。
人工的な甘味料とカラフルな着色料がポップな炭酸飲料。
シア=ランソード=ジーノームのお気に入り。
この地とは異なる世界では普通に飲まれているものらしい。
別の世界。
(どんな場所なのだろう)
バザウは、海の果てに別の大陸が存在する光景をおぼろげに想像した。
海というものすらもちゃんと実物を見たことはないのだが。
海のかなたにある未知の国。
それが今のバザウの想像力がおよぶ最大限の異界のイメージだった。
バザウは新たにシアから差し出された飲み物に、ぎこちなく口をつける。
今度は未知の味覚ではなく、こちらの世界でごく普通にゴブリンが飲んでいるものを用意してもらえた。
飲みなれたカビ茶の芳醇な味にバザウはホッと安堵した。
「さて、知性あるゴブリンくん。お目当ての話を始めようか」
バザウは居ずまいを正す。
「遺伝子の話をしよう。利己的な遺伝子の話を」
「……いでんし?」
悩める三人の男にまったく別々の行動をとらせた、ある一つの話。
「生き物は遺伝子の器にすぎないんだ。乗り物と表現しても良いだろう」
シアは指でグラスをはじく。
メロンソーダは、とっくに空になっていた。
「シア=ランソード=ジーノームが、真理を授けよう。あらゆる命は、遺伝子を継承させるための生存機械にすぎないのだよ」




