ゴブリンとクマとサル
その山が普通ではないのは遠目にも明らかだった。
草木は枯れ果て、もろそうな岩肌が露出している。
鼻が異臭をとらえた。バザウは顔をしかめる。
腐敗臭とガス臭さをブレンドしたようなフレグランスだ。
何日も何日も履き込んだゴブリンのズボンのように臭い。
(それでも俺は……、いかなくては)
バザウは神の山を登る。
生き物の気配がうすい山だった。
岩の隙間から、時々トカゲがちょろちょろ顔を出すぐらいだ。
やがて白いモヤがバザウの視界をおおった。
(雲?)
空を見上げれば、はるかかなたに曇天。
あの雲に達するほどこの山は高くないはずだ。
(暑い……。というか、熱い)
したたる汗がバザウの体をつたう。
辺り一帯の空気は湿気と熱気をはらんでいて、涼しい風を期待してもムダだった。
白いモヤは地面からわき出ている。バザウは慎重に進んだ。
ゴロゴロとした岩の中には、不安定で崩れ落ちやすいものもある。
少しでも油断すると、熱湯に素足を突っ込むはめになる。
(話で聞いた覚えがある。実在するとは、思わなかったが……)
山頂を見据える。
(おそらくここは……、火の山だ)
火の山の恐ろしさは、ゴブリンだけでなく多くの生き物の間でしれわたっていた。
有害な蒸気。
地下から噴き上がる熱水。
気まぐれに灰を舞い上がらせ、赤いヘドロがあふれる時、山はすべてを飲み込むという。
それが火の山だ。
普段のバザウなら近寄りもしない危険な場所だ。
(……?)
黙々と山を登っていたバザウがふと動きをとめる。
(どうして俺は、そんな山にいるんだ……?)
頭をよぎった疑問にはすぐに答えが出される。
(……神だ。神に会うために……)
バザウはもう何も疑うことなく、また一歩踏み出した。
さらに進んだところで白いモヤのむこうに動くものを見つけた。
(この山の、神なのか……?)
一瞬の興奮は次の瞬間には鎮火していた。
モヤの中にいたのは一匹の黄鼻グマだ。
緩慢な動作と温厚な気質でしられている動物だ。危険性は少ない。
(だが、あのクマは森林地帯に生息しているはずだ……。こんな岩場では、黄鼻グマは生きていけない)
黄鼻グマは、果物とハチミツを主食としている小型のクマだ。
特徴的な黄鼻は、ゴブリンの間では代々ハチミツを食べ続けてきたせいだと伝わっている。
人間の間では、目や鼻といった急所からハチの注意をそらすためだといわれている。
バザウは、そのどちらも真実に近いのではないかと思っている。
ある自然観察者がいうには、ハチの視覚では黒い色が特に目立って見えるらしい。
黄鼻グマの顔周りが黄色いのは、ハチの攻撃の被害を抑えるための工夫だとか。
世代を重ねるうちに、生存に有利な特徴が受け継がれていったのだ。
(そのことをなんといったかな……)
モヤの中でのそのそ動くクマを眺めながら、バザウは考え込んだ。
昨晩からどうも頭の一部にモヤがかかったようにすっきりしない。
しばらくして、ようやく探していた言葉を見つけ出す。
(そう、たしか……。進化といったか)
ぱしゃりと響いた水音。
連続的にバシャバシャと。
(黄鼻グマ……。熱水だまりにでも落ちたか)
バザウはこの不幸な生き物の末路を想像した。
(哀れな……。死はまぬがれないだろう)
水音が静まった。
ということは、クマの動きがとまったということだ。
(……死んだか。肉が喰えるかわからないが、死体の状態は見ておこう)
ここは危険な火の山だ。
熱水だまりに落ちた者がどうなったか。
危険を避けるにはどんな危険があるのか、把握しなければならない。
バザウは白いモヤの中に入っていく。
(何……っ!?)
バザウは驚愕した。
(これはいったい……、どういうことだっ!?)
黄鼻グマは死んでなどいなかった。
熱水だまりに体を沈め、ゆったりと四肢を伸ばしている。
苦しそうにもがいているようには見えない。
むしろ……。
(……気持ち良さそうだな……)
有害な蒸気の噴き出す火の山の熱泉に、その身をゆだねているというのに!!
よく見れば、モヤにまぎれて別の動物の姿もある。かなり小さな生き物だ。
熱い水を少しも恐れることはなく、岩場を跳び回っている。
(サルの一種か?)
小さなサルが何匹か集まり、黄鼻グマの背中にいそいそと手を突っ込んでいた。
サルの手は器用かつ繊細。毛づくろいをされているクマは恍惚の表情を浮かべる。
「……」
今度はつい口に出してしまった。
「……気持ち良さそうだな……」
湯の温度と底の深さを慎重に確かめながら、バザウは熱泉につかる。
「お、おぉお」
思わずバザウのノドから感嘆の声がもれる。
「くううっ!」
肌をチクチク刺すような圧倒的な熱の刺激。
「ぬあああああぁ……」
熱さにくじけずに湯にひたる。
「……」
そして訪れたのは、極上の快楽。
「はぁー……。骨の芯まで温まる……」
サルたちがわらわらと近づいてきた。
熱い湯の中を平気で泳いでくる。
バザウの体によじ登り、小さな手で緑の皮膚をくるくると揉み洗う。
いたれり、つくせり。
ここにきわまり。
バザウは湯につかりながらサルの様子を観察した。
顔といい仕草といい、なかなか愛嬌のある。
今まで見たことがない動物で正式な名前がわからない。バザウは仮の名として、この生き物を湯ザルと呼ぶことにした。
頭の上に立った三本の飾り毛が特徴的だ。
群れの中での順位は、どれだけ高温の湯に長時間耐えられるかで決まる。
熱泉の噴出口近くで数匹の湯ザルがガマン大会のようなことをしていた。
また岩場のわずかな雑草や落ちてきた鳥の羽などを見つけると、湯ザルはそれを湯にひたす。
そして、水気をたっぷりふくんだそれを両足の間にパシーンと景気良く叩きつける。
意図は不明。
バザウの推測では、オスの誇示行動ではないかと思われる。
どうやら、この湯には傷病を癒す作用があるらしい。
先客の黄鼻グマは、ハチに刺されて腫れた肉球を治しにきた。
湯ザルの手先は器用なので、トゲを抜いたり、悪い血肉を取り除くといった、ごく簡単な治療が可能だ。
食べ物に乏しい岩山で、湯ザルは湯に入りにきた動物を世話することで生活している。
他の動物の毛についていた虫や古い皮膚を湯ザルが口に運んでいる姿が見られた。
「お前たちの生態は、なかなか興味深いな」
バザウは近くにいた湯ザルに親しげに話しかける。
それぐらい穏やかで充実した気分だった。
生命の気配が少ない火の山で、思わぬ動物の習性を発見し、バザウは多いに知識欲を満たした。
もちろん入欲も。
湯からあがって衣服を着こむ。
黄鼻グマはもう本来の住処へと帰ったようだ。
(ゆっくりしすぎたかな)
荷物袋の中身は無事だった。
きちんと口をヒモで縛っていたおかげだろう。
バザウは果物を取り出し一口かじった。
汗をかいて失った水分が体に補給されていく感じがする。
それもまた爽快で、生きている充足感が満ちていく。
(さて、山頂を目指すとするか)
バザウは先に進む。
点在する多くの熱泉。
そこに住まう湯ザルたち。
バザウがそんな光景に見慣れてきたころ、別の一面に出会う。
「……」
そこでは、湯を浴びにきた動物を丁重にもてなすはずの湯ザルが一匹のシカに群がっていた。
シカはかなりの重症のようだ。
取り囲んだサルがせわしなく手を動かしていた。
毛づくろいでも、治療行為でもない。
捕食だ。
サルたちは、シカの傷口に次々手を突っこみ、肉を自分の口へと運ぶ。
火の山の熱泉は自然の治療場でもあるが、まったくの慈善事業ではないらしい。
隙あらば、客を喰らう。
ククッとバザウは軽い笑いを浮かべる。
「やり手だな」
バザウは前を向く。
そして確実に一歩一歩進んでいった。
足を踏みはずし、岩場を転がり落ちて、致命傷を負い、動けなくなったところをサルにむさぼられることのないように。




