ゴブリンと終焉の訪れ
ブルネルスは息をのんで驚いたが、やがて体のこわばりを解き穏やかにバザウに向き合う。先ほどまでの険しさは消えている。
「ああ、兄弟。なぜこんな話をはじめたのかそれで理解した。チリルが求めた完全な木を育むためなら私は協力を……いや、犠牲もいとわないよ」
バザウが想定していたよりもだいぶ楽にブルネルスの助力が得られそうだ。それだけチリルへの忠誠心が強いのだろう。
(悪いな、信心深い俺の姉妹。しばらくの間そのまま誤解しておいてくれ)
バレないうちに用事を済ませなくては。バザウ本人にはできない仕事だ。
「お前にしか頼めないことがあるんだが、さっそく協力してくれないだろうか」
「うん。灰が必要だといわれればこの身を火に投じる覚悟はできているよ」
「そんな物騒なことを頼むか!!」
冗談や大げさな表現でもなく、ブルネルスなら本気でやりかねないところが怖い。
バザウの頼みはいたって簡単なことだ。
「この洞窟の中にある箱や壺の中身を全部確認してほしい。中身がいつもどおりか見るだけで良い」
奇妙な注文だがブルネルスは疑問を挟むこともなく実行した。
ブルネルスはすべての箱と壺の中身を見て回ったが、どこにもおかしな点は見つからない。乾燥させた薬草茶、祈りや瞑想の際に火にくべる香りの樹脂、わずかばかりの衣服や最低限の日用品。そんなものが当たり前に入っているだけだ。
「バザウ、終わったよ。特に変わったところはなかった」
「そうか」
箱や壺の中身に変化がない。当たり前のことなのに、バザウは妙に真剣な表情でブルネルスからの報告を聞く。
次にブルネルスにしてもらいたいのは、魂の色相を視認する能力で周辺の動植物を観察することだ。
二人は洞窟の外に出る。足元の草。遠くの木立。岩場を駆け抜けるネズミ。上空を舞うタカ。前髪に隠されたブルネルスの瞳が近くに存在するあらゆる命を追う。
観察の締めくくりにバザウを凝視しながら告げる。
「こちらも特に変わったことはないよ」
「わかった。ありがとう」
ブルネルスの力を借りてバザウが確認しておきたいことは三つある。
バザウのしりえないものが再現されているか。
空間内の生物に魂の色相があるか。
二つの課題はクリアできた。
しりたいことはあと一つ。
「協力ご苦労。おかげで俺は助かった」
「力になれて私も嬉しい。チリルの望みを叶えるために二人で頑張ろう」
ブルネルスの表情は控えめだ。その口元にかすかだがハッキリとした充足の笑みが浮かんでいて、その笑みをこれからぶち壊すことに罪の意識を感じる。
「ほう。創世樹はたしかに俺のもとにあるが……俺はチリル=チル=テッチェが示したのとは別の方法で創世樹を使おうと計画している、といったらどうする?」
「……あまり良い案だとは思えないね。賢いヘビイバラの兄弟は良かれと思ってそう考えたのだと思うけれど、チリルの望みを勝手に変えてはならない」
ブルネルスの顔から笑みは消えたが、まだ冷静にバザウを説得しようとする穏やかさは残っている。
「手に入れた創世樹を俺の目的のために使って何が悪い? そもそも俺はチリルの言いなりになる気なんて端からない」
ギリッとブルネルスが歯噛みするのが見えた。
「さっきどうすると尋ねたな。私はこうする。お前の目が覚めるよう魂の兄弟として最大限の努力をする」
そういうなりブルネルスはバザウにつかみかかった。森狼のマントの上から肩をぎりりと抑えつけられる。
「縛り上げて改心するまで生皮を少しずつはいでやる」
怒りのこもった呼吸がバザウの顔にかかった。ブルネルスの声は小さいままだったが息遣いは荒くなり語気も強くなっている。
「良いのか? 敬虔な信者がそんな血生臭いことをして」
「チリルは殺傷を禁じていない」
チリルの教典には殺害を禁じる記述はない。それが意志に基づく行為ならば。むしろ事故などで意図せず命を奪う方が罪深いとされる。
それとはまた別に人間たちの共同体で殺害を制限する法はあるが。秩序を維持するために決まりを作ることはチリルも禁じてはいない。
ブルネルスはバザウを揺さぶった。
激情のままつかみかかったは良いものの彼女は戦いの経験どころかケンカ慣れさえしておらず、その動作は稚拙としかいいようがない。
本当ならこの卑劣なゴブリンを地面に引き倒して顔面をボカスカに殴って無様にうずくまった腹に踵落としをお見舞いして遠い山のむこうまで放り投げてやりたいのに、悲しいことに非力な少女にはそれができない。
握られた拳がバザウの胸板を叩く。殴るというよりも力いっぱいドアを叩く動きに似ている。
その殴打をかわすのは容易かったがバザウはブルネルスから打ち下ろされる怒りを受け止めていた。
「……ごめんな」
「私への謝罪などほしくはない」
「この空間で他者が己の意志をたもてるのか。熱心なチリル信徒のお前が俺に対してどう反応するか。それを確かめたかった」
「意味がわからない」
三つ目の確認事項。この空間内で宿主の意志に他者が反抗できるか。
現実世界に酷似したここはバザウの創世樹の根源世界だ。バザウが自分の体を指さした時、周辺の動植物もろとも一気に取り込んだ。
希望を持たせて協力させてその後わざと怒りを引き出す。ブルネルスの心を乱すことは当然わかっていた。
バザウ一人ではどうあっても調べることができない情報を得るために、自分を魂の兄弟と慕いもてなした者を翻弄した。
「……」
もう一度謝ろうとしてバザウは口をつぐむ。この上さらにブルネルスに許しを請うのはむしろ汚いように思えた。バザウは目を閉じてブルネルスの気が済むまで殴られることにした。
軽くせき込みながらブルネルスは握りしめていた拳を解いた。疲労のせいかフラフラして足元がおぼつかない。そのまま地面にへたり込んだ。怒りの火はまだくすぶっているが粗食や苦行で常時衰弱した体が気持ちの強さについていかなかったのだろう。
「血がたぎって頭が痛い」
「……冷やすか? 何か飲むと楽になりそうか?」
返事はない。ブルネルスはしゃがんだまま大儀そうに顔をそむけた。何度か肩で息をして呼吸を整えてからゆっくりと立ち上がる。すぐそばには魂の兄弟がいたが断固としてその緑の手をとろうとはしなかった。
「これだから人間の体は嫌なんだ。感情と肉体が連動している。みっともない……」
つらそうに息を吐き、バザウに一瞥すらくれずに洞窟へと向かう。
「……」
バザウは根源世界の展開を解除した。
宿主にとって未知の部分まで現実世界をそのまま反映した根源世界。それを解いたところで取り込まれた者たちはなんの変化も感じない。
そのはずだった。
天はパステルピンクの星空になっていた。
どこからともなく甘いミルクの香りがただよう。
宗教都市のあった方角では無数の風船がとめどなく吹き上がっていた。
赤ん坊の笑い声と惚けた年寄りが駄々をこねて岩の間から清水のしぶきの奏でる木琴タンポポの極楽園。
何もかもが狂った世界の中で、バザウが取り込んでいた周辺一帯の地形と動植物はまだ現実世界の形をたもっている。
(……いつ起きるかわからないと覚悟はしていたが……ついにきたのか!)
バザウは一番遠くまで見張らせる岩に駆け登り状況を見極めようとする。
異変に気付いたブルネルスも岩の下までやってきた。
「どういうこと? お前、いったい何をした」
「……これがチリルが警告していた妖星の来訪だ」
混乱しながらもブルネルスは冷静でいようと努力していた。さっき強い怒りで体調を崩したばかりだ。続けて激昂しようものなら、このわけのわからない状況で適切な行動がとれなくなってしまう。
「この辺りは安全なの?」
周囲を警戒しながらブルネルスがおそるおそるつぶやく。
「それはわからない。ただ、根源世界は妖星の影響を免れたのは間違いなさそうだ」
これ以上周辺の状況を見ていても一向にらちが明かない。そう判断したバザウは再び根源世界を展開した。
さっきまでの異常な光景が一瞬で元に戻り、呆然とするブルネルスにバザウは状況を話した。
妖星が飛来して現実世界の塗り替え現象がはじまったこと。その間、二人は創世樹が作り出した現実に酷似した根源世界にいたこと。創世樹が作り出した世界が現実世界と変わりなく機能するか調べるため、ブルネルスを利用したこと。そして今もう一度その空間に戻ってきたこと。
「そうなんだ。それじゃ世界が元どおりになったわけじゃなくて、その模造品の中に私たちだけが逃げ込めたって感じなんだね」
無言で頷きながらバザウは自分の思考がまとまらない感覚に苛立っていた。
これからどうするのか考えるべきだと思う自分と、親しい者たちが外でどうなっているのか想像して何も手がつかなくなる自分。その板挟みだ。
「そっか。バザウが言っていた創世樹の使い道というのはこういうことだったのか」
妖星の飛来は止められない。
一人だけの自我を残しそれ以外はすべて統一する。それがチリルの案だ。
創世樹の成長をセーブし思考の統一は起こさずに、それぞれの意志を持ったまま根源世界に命を取り込む。創世樹の根源世界をシェルターのように利用する。それがバザウの案だった。
「もっとも……それで救えたのは……」
創世樹を育てながら旅をして、見知った人々のもとへと戻る予定だった。今にして思えばなんてのんきな計画だ。実際のところ創世樹を得てから妖星到来までの猶予は一週間にも満たなかった。
すぐさまイ=リド=アアルのところにおもむき、ジョンブリアンやコンスタントとピーチ・メルバの群れや天空の山岳の民や貪欲の市場の住人たちとすぐに会えるよう交渉を試みていれば、また違ったのだろうか。そんなことも考える。
生身のバザウには神々のように一瞬で移動する手段がない以上、数日という期限内でこれまでに出会った者全員を救うのは到底無理な話だが。
それでも悔やまずにはいられない。バザウは終焉の予言を本気で恐れない宗教都市の信者たちをあざ笑ったが、自分もまた滅びへの覚悟が甘かったのだと痛感する。




