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バザウ、君は賢すぎる  作者: 下山 辰季
第八部

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109/115

ゴブリンと一つの苗木

 早朝。バザウは暖かな森狼の毛皮にくるまりながら、洞窟の隠遁者が責め苦の寝床から起き上がる気配を感じていた。

 目覚めたブルネルスは植物を編んだ箱から何かを取り出す。新しい服でも身支度の道具でもなく、ピンと張りつめた鞭。本来は家畜に使う短鞭だ。それを持ってブルネルスは洞窟を出る。

 しばらくして戻ってきた時には、肩で息をして背中からじわりと血をにじませていた。


「朝から勤勉なことで」


「おはよう、起こしてしまったかな。よく眠れた?」


 ブルネルスはいたって真面目に尋ねているのだが、ついおかしくて吹き出しそうになる。トゲ植物と砂利のベッドよりはずっと快適に眠れた。


「なあ、泊めてくれた礼くらいさせてくれ。俺の持っている薬をわけてやる」


 ボロ布の服を畳んで胸の前に抱えて、ブルネルスはバザウに背中を見せている。

 わかっていたことだが、今朝の新しい傷に加え長年の苦行の成果がむざむざと残されていてなんとも痛々しい。鞭打ちにより背中の皮膚がめくれて血をにじませた肉がのぞいている。

 ブルネルスの体にはところどころに穴が開いていた。古いもののようで血を垂れ流してはいなかったが皮膚がはがれた箇所にも穴があり、薬を塗るためにそこに触れて良いものか判断に迷った。

 

「左右対称に穴が開いているが……」


「それは体を吊り下げるための穴だよ」


 たしかに穴は体の表面を貫通しており紐やフックがとおせそうだ。


「……」


 慎重に傷を洗った後、バザウは旅の荷物から軟膏を取り出した。獣の脂をベースに外傷に効く薬草を混ぜたものだ。指にとり体温で少し緩めてから傷口に塗布していく。痛みを与えないよう慎重に。

 やや落胆した口調でブルネルスがつぶやいた。


「……その薬あまりしみないね……」


「不満か!」




「終わったぞ」


 手当を受けたブルネルスは服を着直した。


「ありがとう」


 ブルネルスの感謝の言葉は治療だけにむけられたものではなかった。


「バザウは……珍しい。私の苦行の成果を間近で見ても、それは悪しき行いだとは言わなかった」


 共感しているわけでも理解しているわけでもない。同じことを自分でやろうとなどはみじんも思わない。見ていて気分が良くなるものでもない。

 だが、この過激な苦行がブルネルスにとって必要な行為であるのは感じ取っていた。


「兄弟。お前はどうやって魂の折り合いをつけているの?」


 ブルネルスはバザウの手の甲に軽く触れる。ささくれた冷たい指先が緑肌をそっとなでる。


「苦しくはないの?」


 黒く尖った爪を柔らかくつまんでから少女の手はすっと離れていった。優しく悲しい触感の余韻を残して。バザウの手は脱力して垂れている。離れていったブルネルスの手をとろうとはしない。

 自分はブルネルスのような苦しみとは無縁だと。浅はかにそう思った後で気づく。対応が異なるだけだ。この世に産まれ落ちてからの苦悩に、なんとかして折り合いをつけようとずっとあがいてきたではないか。ハドリアルの森を旅立とうと決意した理由を思い出せ。


「……俺にとってはこの旅が魂の折り合いをつけるための行為だったんだろうな。未知の世界を自分の中に取り込んでいくことが……」


 何かを理解した時のパズルがカチリと噛み合ったような感覚が好きだ。

 発見の驚きは心臓と脳を昂らせる。

 自分の思考だけではたどり着けない発想に触れた時の刺激。

 バザウはそういうものを求めてきた。


「世界をしろうとする。己に苦行を課す。どちらも境目を探ろうとしているんだと、そう感じる」


 唯一の自分自身と、それを取り巻く一切合切とを。


「方法は違うが、俺もブルネルスもそうやって自分がどんな存在なのか確認しているのかもしれないな」


 ふと思った。

 千匹獣座のむこう側を。

 形を得ようと望む星の光のことを。


(同じなんだろうか……、ヤツらも)


 バザウとブルネルスが感じている肉体と魂の齟齬。二人が己の輪郭を確かめようとジタバタしているように、形を持たないという彼らが形ある世界に侵食してくるのは自分の輪郭を確かめるためなのだろうか。


「……ブルネルス。チリル信徒の間では世界の終焉がくると伝えられているそうだな」


「終焉の訪れについては教典にも記されているけど……、時代や支配者の移り変わりで何度も書き換えられているみたい。最初の神託でチリルが本当は何を告げたのか、わからなくなってしまった」


 強引な布教を推し進めた時代には、チリル信徒以外は裁かれるとされた。

 穏やかな共存を掲げる時代には、心の善良な者は救われるとされた。

 そして現在ではチリル=チル=テッチェが警告した世界の終焉とは概念的なもので、実際に滅びが明日にも起きると本気で信じている者はあのきらびやかな宗教都市の中にもいない。

 チリルの信者も一枚岩ではない。主流なのは、自分の属する集団こそが最上級だとおごりつつ他の神を信じる者にも慈悲深い寛大さをもって接し大きな波風を立てずに教典の内容を快適な生活に支障の出ないよう適宜時代に合わせて変えていく派だ。


(またしても教えが都合よく変えられている。都合を優先して事実をねじ曲げるのは、ゴブリンも人間も同じってことか)


 ゴブリンはこうだったら良いのになと妄想しているうちに現実と区別がつかなくなる。人間は統治や利益追求のために意図的にウソを作り出す。作り出したウソがどんどん成長していきコントロールできなくなり、事実を塗りこめて封印してしまう。なんて愚行もやらかす。


「終焉が訪れる前にチリルの声を聞けるようになりたいな」


 苦行があれほど過酷なのはブルネルスが世界の終わりを実感していることの証左でもあるのだろう。


「教典には終焉にどんなことが起きるのか書かれていないんだ。やっぱりこれも時代や教団の傾向によって様々な解釈がなされてる。私個人はね、闇の中でロウソクの火を吹き消したみたいに突然世界のすべてが消えてなくなるような、そんな風に想像している」

 

 自分がしっていることをブルネルスに話そうかと迷う。

 バザウは決めた。


「……千匹獣座の果てから漏れ出す光が、この世界をこの世界たらしめているものを塗り替える」


「それは……怖い解釈だね。終焉は秩序の崩壊という説を唱える派閥も多いね。混沌のシュシュの勢力が強まるともいわれているよ」


 前触れもなく不吉な忌み星の名を聞かされブルネルスは少し動揺する。そのまま落ち着いて会話を続けたが、恐れと不安を拭い去るために自分自身の腕を軽く抱きしめている。


「ルネ=シュシュ=シャンテは問題にならない。もっと途方もなく大きな力に蹂躙される。……それは神々にも止められない」


「ヘビイバラの兄弟。お前は何かしっているの」




 チリルが語った話をブルネルスに伝える。

 その間、ブルネルスの唇は固く結ばれていた。

 ずっと焦がれていた自分ではなく別の兄弟をチリルは選んだ。

 あれほど待ち望んでいた創造者との再会をすでにバザウは遂げていて、その上その名誉をありがたがる素振りも見せない。

 それでも同年代の未熟な子供たちのように怒りでわめきたてることはなかった。バザウが話す内容そのものに耳を傾けたいという気持ちも大きい。嫉妬は皆無ではないが、チリルが選んだ存在がどれほどのものなのか確かめたいという思いもある。


「チリルはたった一柱でそれだけの苦労を……」


「大きな問題が控えてるのに相談相手もいない状況はハードだよな。……とはいえこの話を聞いたところで、俺も妖星の来訪を止める方法を考えたが何も思いつかなかった」


「思いあがるな、ヘビイバラ。長年チリルが考えあぐねてさえ止められないものを被造物の思いつき一つでどうにかできるなどと」


「そうだな」


 トゲのある言葉をバザウは受け流した。

 この話を打ち明けると決めた時点で、ブルネルスからの心証が悪くなることは覚悟している。


「チリルは妖星の被害をある程度秩序だったものに制御しようと長年研究していた。創世樹を使ってな」


 妖星は強い心に反応して現実を自由自在に変えてしまう。事象、物質、概念、地形、生物といった現存世界の体現者である神々ですら狂気に陥る圧倒的な幻想の力で。

 たった一つの真理を確立させることにより、妖星が及ぼす世界改竄に一つの法則性を持たせる。それが秩序の神チリル=チル=テッチェが孤独の中で導き出した対応策。それが創世樹計画の目的だった。


(その研究の一環で俺やお前という試作品まで作り出して放り出して。まったく孤軍奮闘でご苦労なことだ)


 いつもならチリルに対してこんな皮肉の一つや二つや三つもいっているところだが、ブルネルスの前では自重しておいた。


「創世樹。そんなすごいものがあったなんて」


 チリルが欲した完成品。

 試作品の上に失敗で終わった他のどの兄弟でもなく。


「ここに」


 バザウはトンッと自分の頚窩に指を置いた。


「……チリルから預かった創世樹の苗木がある」

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