ゴブリンと一つの神話の終幕
バザウとエヴェトラは元の世界に戻ってきた。
「さて、これからの予定だが……」
バザウはケレイブ=サイドに同行するつもりだ。
忠犬の信念を打ち砕ける気はしない。
ただ行動を共にすれば発火の苦悶を抑える手だてが見つかるかもしれない。
いつかケレイブがオースティンがこの世界にいるはずがないと気づいた時に悲しみを和らげることもできるかもしれない。
「命にしては気長な計画ですね」
「まあな……」
バザウは獣医から託された茶色い紙袋を抱え直す。中にはオースティンの絵とジャケットが入っている。
今のケレイブは記憶の一部が欠落した状態だ。オースティンの持ち物に触れることで、ケレイブの記憶に何か変化を起こせないかと期待していた。
「間違いない。オースティンの臭いだ! 他にもちょっと変な臭いが混ざってるけど……。これをどこで?」
「……エヴェトラのつてで……」
ケレイブは盛大に尻尾を振った。
「じゃあオースティン本人を見つけるのも簡単だ」
キラキラとした期待の眼差しをむけられてエヴェトラは固まった。
いつものように自信満々の顔で任せてください、なんていえない。
オースティンはすでに地球で死去しており、記憶が消えるケレイブはそれをしらない。
「え~と、バザウさんっ」
「……オースティンを直接見つけ出すのはエヴェトラにもできないんだ。すまないな、ケレイブ」
「そう……。それはひょっとして……オースティンがすでに死んでいるからかな?」
驚きで黙るバザウにケレイブはそっと近づいて外套の裾に黒い鼻を寄せた。
「君たちからは動物病院の臭いがする。オースティンの上着からも」
ケレイブ=サイドは欠落していた記憶を取り戻した。
五感のうちで嗅覚だけは脳への情報伝達の方法が異なる。嗅神経を通じた脳に直接情報が送られる。飼い主の臭いは忠犬に本当のことを思い起こさせた。
「変なものを食べちゃってから僕は何度か奇妙な経験をした。お腹を焼くような苦しみに耐えている時、フッと肉体の苦痛から解放される時があるんだ。そういう時は入院ケージからするりと抜け出してオースティンを探しにいける。振り返ると僕の体はケージの中で眠っていたけどね」
(……曖昧な存在というものの特性と似ている。毒に侵されて昏睡したケレイブは、生きているか死んでいるか曖昧な状態に陥っていたのだろう……)
入院中のケレイブがしるはずのない情報をしっていたのは、生死の境をさまよっていたケレイブの魂が病院から抜け出してロンドンの街をさまよっていたからだ。
「他の人間にバレずにどこにでもいけるのは良いけど、気に入らないところもあるんだ。走ろうと思っても早く走れない! 足はフル回転させてるのに!」
「その感じは俺もわかる。急いで走っているつもりなのに思うように先に進めないんだよな」
ケレイブはバザウに笑っているような表情をしてから、そのままの顔でつぶやいた。
「僕は上手く走れずにオースティンを乗せた車に追いつけないまま、肉体に引き戻されていったん目覚めた。……オースティンが亡くなったのは新月の晩だったよ。この時はちょっと遅れたけれどすぐに追いかけたんだ」
「バザウ。僕はね……すべてを思い出しても僕の真理は手放さないよ」
「そうか……」
ケレイブは砂漠に広がる白いエノコログサの海に鼻先をむけた。
「だからこそ、っていうのかな。本当の意味でオースティンを探しにいきたいんだ」
こちらの世界でケレイブがオースティンに再開することはありえない。
新月の夜がくるたびに燃え尽きて記憶が消えるのも困ってしまう。
だから。
「創世樹の宿主であることをやめたい。協力してもらえるかな?」
宿主自らが創世樹の宿主をやめたがるなんてはじめてのケースだ。
「お前がそう望んだのなら俺が手伝う余地なんてないだろう? 創世樹はお前の意志によって枯れてなくなる……」
「ああ、そうじゃないんだ。君に頼みたい協力っていうのはさ……」
ケレイブはリ-9界での肉体を捨てて、魂だけになってア-36界へと戻りたいのだ。
別世界への案内はエヴェトラができる。
生き物の魂を肉体から切り離すのは、ゴブリンにだってできる。
「頼むよ。気が進まない嫌な仕事を君に強いてるのは理解してる……ごめんね。でも僕はどうしてもオースティンに会いたいんだ」
バザウは多くの獲物を狩ってきた。苦しませずに獣を即死させる方法も心得ている。だが命を奪うことになった自分が苦しまない方法はわからなかった。
(……チリル=チル=テッチェ。お前は……)
石を積んだだけの小さな墓を見下ろしながら、創世樹計画を考え出した神への嫌悪と怒りが沸き起こる。
小さな犬の魂をア-36界へと送り届けてきたエヴェトラに、バザウは静かに話しかけた。
「エヴェトラ。お前の手足を奪ったヤツらが憎くはないのか」
神の力を利用してルネとチリルを消し去ること。
それがそもそもバザウがエヴェトラに近づいたきっかけだ。
過去の遺恨を煽ろうとしたバザウだがエヴェトラは平静だった。
「いいえ、ちっとも」
拍子抜けするようにあっさりと憎しみを否定する。
バザウはエヴェトラを利用してルネとチリルを討つ作戦を諦めた。
どんな言葉を並べてもエヴェトラの憎悪をかき立てることはできないだろう。
「……大したバカだ」
「前にもそういわれたことがあります」
◆◇◆◇◆
包囲されたチリル信徒の砦で奇妙な事件が起きた。
ボロボロのマントを羽織った何者かが飢えた人間たちにフォイゾンを分け与えている。その者に軽く触れられただけで飢えた体に活力が満たされる。
意志と感情の優劣を決める戦に邪魔者が入った。はた迷惑な慈悲のせいで、飢えと渇きに苦しんでまで信仰を貫く者の決意が水泡に帰してしまったのだ。
豊穣神エヴェトラ=ネメス=フォイゾンの関与をチリル=チル=テッチェは看過しなかった。
「お久しぶりです。ここで何をしているのです」
「わ~、チリルさん。お腹を空かせた人たちがいっぱいいたのでフォイゾン注いでました~」
何も悪びれた様子もなくエヴェトラは返事をした。
意志よりも生命維持の方が大事だと単純に信じて疑わないエヴェトラの行動もチリルには不快だった。意志の神の前で信徒の意志をないがしろにされた。
心の神に対する他の神々の態度にチリルは不満をつのらせている。
妖精の研究を独自に続ける間にその不満を解決できる方法を見つけ出していた。計画の理論と覚悟はそろっている。足りないのは力と材料だ。
チリルにも手に入れられるような材料では力が足りず、計画に必要な力を持つ材料はチリルにはとても確保できない。
が、目の前にある素材なら強力でありながら容易に確保できる。
あの防護障壁を突破するのは不可能だが、油断しているところを素早く狙えば力を奪える。
チャンスは一度だけ。
「今日も心は無情に踏みにじられる」
忠義を貫く上で多くの命を蹴散らさなければならない者がいる。
信念のために自分の手を汚すことをいとわない者がいる。
理想を求めて世界を変えることに挑む者がいる。
強い意志は時に愚行と凶行の原動力にもなる。
危害を加えられるとはみじんも思っていないエヴェトラの左足をもぎとった。
人を模していた左足が急になくなり、バランスを崩した体は地面に倒れる。
傷口は規則正しい立方体のパズル状に切り取られ、豊穣神から流れる血を吸った大地は小麦に大麦、レンズ豆とヒヨコ豆を立派に実らせた。
片足を失った大地の神は落ち着き払ってチリルを見ている。
「返しなさい」
イタズラをした子供を冷静な大人がとがめるような声だった。
「この力はあなたが持っているよりもチリルの方が正しく使えます」
たしかにエヴェトラの力の使い方は下手だった。
チリルが転移で姿を消す前に、引きずり下ろすことも、叩きつけることも、締め上げることも、貫くこともしなかったのだから。そうできるだけの余力はあったのに。
「アンタ、足が……。その傷口だと、チリルにやられたのかい……?」
砦で起きた異変を感じ取ってルネがふわりと飛んできた。
癒えることのない焦げ跡は死者の皮膚で作ったパッチワークで隠されている。
「もがれちゃいました~……。私にはチリルさんがどうしてこんなことをしたのか見当もつきません。多分、私がお土産を持ってこなかったことに怒ったから……じゃないですよね?」
といいつつも、どこか自信なさげにエヴェトラはルネの反応をうかがった。
「さあね。……ところで砦の人間たちがずいぶんお元気なこと。そろそろ飢え死にするヤツらも出てきそうだから、目の前でステキな贅沢ディナーでもしてやろうか、なーんて思ってたんだけど」
エヴェトラが衰弱した人間たちの体にフォイゾンを注ぎ込んだことは、ルネにはわかっていた。
なぜチリルが怒りの矛先をエヴェトラに向けたのかも。
だがチリルが創世樹計画を実行に移すための材料を必要としていたことは、この時ルネはまだしらなかった。
(……ゲームへの介入にムカついたからって、いくらなんでもこりゃあやりすぎ)
その頑固さと潔癖なまでの正義感からチリルは攻撃的な気性を持っている。ルネが指摘すると不機嫌そうに否定するのが常だった。
一方ルネは対立や争いごとはあまり好まない。ゲーム感覚ならまだしも、何かのために本気で戦うのはストレスだ。もっとも弱い者イジメなら話は別だが。
「とりあえずアンタはじっとしてな。アタシは吹っ飛んだ足の先っちょを見つけてくるから。治療が得意な神ならくっつけて治せるかも」
「足ならチリルさんが持っていっちゃいましたよ~」
周囲を探そうとしていたルネの動きがとまる。
(持っていった……。チリルの目的はコイツを傷つけることじゃない。奪い取ったコイツの力を何かに使うつもりだね)
心の神の立場は強くはない。
無邪気な願いも真摯な志も現実の前に打ち砕かれる。
(仕方のないことじゃないか。仕方のないことなんだよ、チリル)
ルネがヘラヘラと空虚な苦い笑いで受け流していた状況をチリルは受け入れることができずにいた。
小さな意志の神はいつだって世界に心で抗おうとしていた。
(……本当に仕方がないこと、なのかい……?)
「やめておきなさい」
エヴェトラの周りに大地の精気で練り上げられた防衛障壁ができていた。半透明の細い触手はうねうねとうごめいてルネに対して警戒している。
この神は力を攻撃に使うことが不得手だ。得意とするのは堅牢な守り。ルネに突破できるはずもない。
「まぁ! やめておけってなんのことかしら? もしかしてアタシがあなたのお手々やあんよや腹のぜい肉や胸のムダ肉を引きちぎろうとしてるって思っておりますの? うーん! 正解でした。でもまあ、アンタが警戒しちまってる以上それは無理ってもんだけど」
ふざけた後でルネは低い声で本音をつぶやく。
焼け焦げの跡がじくじくと痛む。
「この世に抗うための力はアタシだってほしいんだ」
「……」
エヴェトラは真剣な表情をしていた。
長い付き合いでルネはよくわかっている。
(コイツがこんな風に真面目な顔をした時は何かすごくバカなことを考えるのさ)
それはまさに愚行であった。
防御結界が消える。
無言で左腕が突き出される。
「……アハッ! なんだいそりゃ。アンタって本当に……大したバカなんだねぇ」
「疲れたので少し休みます。う~ん、五年? くらいしたら起こしてください~」
左足と右腕をなくした姿で神殿に戻ったエヴェトラはパタリと深い眠りに落ちた。
「……エヴェトラ……」
ニジュの腕の中にあるのは力を抜き取られた残滓。
気さくで親切で、ニジュが苦しみ困っている時にいつでもそばにいてくれた者。
ルネに対して、チリルに対して、そしてシアに対して、制御のできない暗い思いがとめどなく沸き起こってくる。
神々の世界にニジュは心底うんざりしていた。
「他の者とは関わらず……我と共に静かにすごそう……」
病んだ神は手足を失った神を連れて砂の大陸を去る。
転移の時に先導して潜ってくれる者はいない。
一つの神話が幕を下ろした。
五年たっても、十年たっても、百年たっても、千年たっても、ニジュがエヴェトラを起こすことはなかった。
白い菌糸の繭の中。眠りの胞子を振りまいてエヴェトラを夢にとどめ、致死の胞子を風に飛ばして生き物が近づくのを禁じる。
救済を与え続けた黒き神は、優しき白き神に包まれて眠り続けた。




