ゴブリンと新たに生じた双子の神
鋭く細まった月は夜空につけられた切り傷のようだった。
(クジラの腹からナイアラスに吐き出されたあの晩は新月だったから……、そろそろ月が一巡するくらい滞在してるのか)
バザウは夜空から遺跡の壁に視線を戻す。砂漠で根城にしていた大きな岩陰から出て、今は古く朽ちた遺跡にいる。
あの岩場はすっかり利口な白い小型犬が居ついてしまった。作戦会議の内容はケレイブに聞かれない方が良い。
誰からも忘れ去られたこの場所にバザウを案内したのはエヴェトラだ。白い泥石で作られた建物はそうとう昔のものらしい。今はまったく人気がない。
「強固に育った創世樹なら、真理にわずかにでも同調した者を取り込むことも不可能ではないはずだ。……アイツはそうしない……。俺に話しかけてくるだけだ」
人の微笑みに似せて口元を開き、穏やかに尻尾を振って、好意を示しながら。
バザウが宿主を殺してもその信念をくじいたことにならず、無意味だ。しかし宿主側は邪魔なバザウを殺して排除する、という選択肢に充分な意味がある。しかしケレイブは犬の群れや神殿都市の人間たちにゴブリン狩りをさせるつもりはないようだ。
強引な方法をとらない理由は、小さな犬は信じているからだ。自らの正しさ、そしてバザウがいずれ理解者となることを。
(……やりづらい敵だ)
そもそもケレイブはバザウを敵だと思ってはいないだろう。
「私は……他の誰かとのつながりが大切だっていうケレイブさんの話もわかりますが、それが唯一無二の真理かと問われれば違うと答えます」
エヴェトラが背にしている壁にかつて絵が描かれていた痕跡があることにバザウは気づいた。
すっかり色あせているので絵の詳細な内容まではわからないが、五つほどのシーンが円形の配置になるように描かれていたらしい。
「雨や太陽の恵みは分け隔てなく降り注ぎます。そこに絆の有無は意味をなしません。私は雨や太陽のごとく皆のことが好きですよ」
皆が好きだとのたまう神にバザウは呆れを感じた。
「おお、偉大なる大地の神。あなたさまの博愛と慈愛の精神がにじみ出るお言葉ですね。……節操なしで無差別的なまぐわいと卑猥ぶりも」
「無差別? 同意を得ていない相手はそっとしておいてますよ。現にバザウさんには何もしていないじゃないですか」
「……たしかに。あなたにその分の理性があって本当に良かった。これからもその調子でお願いします」
「バザウさん、逃げても良いのでは?」
エヴェトラのいっていることの意味がよくわからず、バザウは真顔で目を瞬いた。
「ケレイブさんに対して打つ手がないのなら、創世樹に取り込まれてしまう前に逃げるのも選択肢なんじゃないかな~、と」
ひらりと何かのカードかチケットのようなものを指にはさみ、バザウに見せる。
カードは鉱物のように硬い質感でありながら、ピンとはった布か紙のようにやわらかくしなる。
文字が書かれているようだがバザウにとって未知の言語だ。しかも文字の一つ一つがホタルのように静かに明滅している。時々カードの表面上の勝手なところに文字が飛んでいったりもする。
「……なんだそれは」
「懐かしの我が家から先ほど発掘した古い切符です。ここの一番目立っている文字はイ-1って書いてあるんですよ。いつかヒマを見てグルメツアーにいこうと思って用意していたものですが、ニジュさんやイさんに妖精調査を頼まれて忙しかったり、ルネさんとチリルさんは人間の命を使って戦争をはじめるは、手足がなくなって衰弱していたところをニジュさんに助けられたのは良いけどあまりにも長~く手厚い保護が続いてしまい、けっきょく今日まで存在を忘れていた切符です」
イ-1界は神々の駅だという。様々な世界にむかう入口の役目をはたしている。エヴェトラが持っているのはそのイ-1界をとおして他の世界へといける切符。
「小さな身を押し潰しかねない重荷を捨てて、どこか別の世界で楽しく過ごしてはいかがでしょうか? というご提案です。私はエヴェトラ=ネメス=フォイゾン。困っている者を助けてほっこりした気持ちになるのが病みつきになっているミミズの神! ですので」
神が差し出している救いの切符をバザウは見た。
「……いや。優雅なバカンスに出かけるには早い。まだこっちでやることが残っている。おしゃべりな貴族の娘がその名を世界にとどろかせるのを待たねばならないし、一夜で財産を使い果たしたオークの富豪が返り咲くところも見届けたいしな」
「他者とのつながりを重んじてこのリ-9界に留まったあなたが、ご主人との絆こそ最高なワンワンの意志を突破できるか私にはわかりませんが……。救いは無理に押し付けるものでもありませんね」
エヴェトラは苦い過去を思い出すように包帯を巻いた手足をジッと眺めてから、しぶしぶ神の切符をしまった。
「宿主がどんな真理を掲げているにせよ……、創世樹は枯らす」
世界がたった一つの価値観で染め上げられると思うとゾッとする。それも、雑多で自由な思念を強制的に統一して。
たとえその真理を説いているのが可愛い犬で、創世樹が完全に既存の世界を作り替えたらハッピーもふもふランドが待っているとしてもだ。
バザウはケレイブに対抗して、絆がいかに信用ならないか、という話をすることに決めた。
ゴブリンの子供たちでぶっ倒れるまで走り続ける大会をした時に、いっしょに走ろうと約束をしておきながらサローダーが速攻で裏切りのダッシュをしたあげくペースを上げすぎてへばり、文字どおりバザウの足を引っ張ったこと。
バザウに贈り物を渡したいけど緊張して渡せないというゴブリン娘に調子よく近づいて、オイラが渡してやるるるよん! と請け負っておきながらふてぶてしくも友人宛のプレゼントを着服したサローダー。
森の偉い年寄りの前でサローダーは盛大にオナラをして平然とバザウに濡れ衣を着せようとしたこともあった。
迷惑や裏切りはこれだけではない。まだまだある。
「そのサローダーって子のエピソード、いっぱいあるんだね」
「……」
「仲の良い友達なんだね」
違う、とは否定できないバザウだった。
(うーむ……。有効打のないまま時間だけがすぎていく……)
途方に暮れてバザウは夜空を見上げた。今日の空には月がない。星ばかりが輝いて見える新月の晩だ。
異変は真夜中に何の前触れもなく起きた。
苦しそうな悲鳴を上げてケレイブは砂漠の上で転げまわる。サソリやヘビの毒を受けたわけではない。苦しみの原因は小さな犬の内側から生じている。
「……っ!? おい、どうしたケレイブ!」
落ち着かせようとその体に触れて、バザウは反射的に手を引っ込めた。
熱い。毒や病魔に侵された生き物が放つ熱ではない。もっと高い温度だ。
ケレイブを抱きかかえようとしてバザウが感じた温度。それは火炎の高熱だった。
死に物狂いの悲鳴がやんで、小さな体が不穏に痙攣した。何かがケレイブのノドにせり上げっていく。炎だ。
ケレイブの体の中から吹き上がった緋色の炎は、人の手を舐めるのが好きなピンクの舌をただれさせ、飼い主の臭いをかぎ分けるのが得意な鼻を二度と使えなくした。
「クソッ! 死ぬなよ!」
何が起きているのか理解できないが、バザウは何をするべきかは理解していた。
水袋を引っつかみ外套を水浸しにして、びしょびしょに湿った布をケレイブの顔にあてがう。
苦痛で暴れるケレイブの体を抑えるのは簡単なことではなかったが、外套で覆うように捕まえる。
「……まだ心臓は動いている。エヴェトラ、ケレイブに何が起きたかわかるか……?」
「いえ……。近くに炎の精霊や神の気配は感じません」
「そうか。原因を探るのは後にするか。すまないが火傷の薬か何かを探してき……」
バザウはハッとした。
ケレイブを抑えている外套が熱くなっている。湿った水が温まり、蒸発して乾いていく。
「離れなさい!」
包帯が伸ばされてバザウを急いでケレイブから引き離す。
はじかれて転がったバザウが目にしたのは、全身から炎を噴き上げてもがくケレイブの姿だった。
「敵の位置が特定できません。全方向に強い防御層をはってしのぎます。バザウさんは攻撃者を探していてください」
周囲の砂が湿った黒土へと変わり、そこから濁った半透明の組織ができていく。消化器官を裏返したような、中空のモウセンゴケのような形状だ。
防御層の外部には長くうねる紐状組織が無数に生えており、分泌液をしたたらせながら敵襲を警戒している。
「……敵は、いない」
「どういうことです?」
エヴェトラは怪訝な顔をしたが、しばらくして防衛結界を解く。
ティモテという生身でこちらの世界に到達した特殊な例外を除き、創世樹の宿主は別の世界で死んだ者たちだ。
ケレイブはチリルの手によってこちらの世界で肉体を得ている。だがそれは通常の命の巡り代わりとは異なる。理から外れた術。そのひずみは転生者にむかう。
「これがケレイブ=サイドの代償か……。……そうだよな、神が……」
神が、都合の良いご親切な特別配偶などしてくれるものか。
この世界の神々は雨や太陽のように分け隔てなく残酷で理不尽なのだ。大雨は濁流となり善良な者にも悪しき者にも平等に破壊をもたらし、干ばつの太陽は愛深き者も孤独な者も等しく命をむしりとっていく。
ケレイブはエヴェトラに転生の代償について尋ねられた際、そんなものはないといっていた。
(だとすれば……ケレイブは代償のことをチリルからしらされていなかった? ……いや、それでは不公平というものだ。デンゼンは……強者の糧の戒律についてチリルから教えられていたのだから)
チリル=チル=テッチェは誰かを特別扱いしない。ケレイブとデンゼンは同じ転生者だ。ケレイブだけに有利な取り決めもしない代わり、デンゼンだけに大事な情報を教えることもないだろう。
(なら……考えられる可能性は……。なぜケレイブは代償はないと答えたのか……、それは……)
白い毛も愛らしい黒い瞳も灰に変わってしまった。
ただ一つ燃え残ったのは小さな心臓だ。
磁石が砂鉄を吸いつけるように、心臓に灰がひたりとはりついていく。
(……忘却するからだ)
忠犬ケレイブは主人オースティンを探している。だがそれは妙な話だ。
ケレイブもオースティンもここではない別の世界の出身だ。本来ならばこちらにいるはずがない存在だ。
灰は心臓を核にしてどんどん集まっていく。ケレイブ=サイドの肉体の再生が完了した。
「わ~! ケレイブさん、無事なんですか? さっきすっごく燃……」
エヴェトラが第一声を発した時点でバザウは黙るように手振りと目配せをしたが、一向に伝わらなかったため途中で口を手でふさいでやった。
「……」
バザウはケレイブの反応を慎重にうかがっている。
白い犬はぷるぷると身震いして毛についた砂を吹き飛ばした。
「ええと……どちらさまかな? それより僕の飼い主をしらない? ついさっき別れたばかりなんだけど」
◆◇◆◇◆
ニジュはイと共に妖精の動きを調べ上げた。弱った体で遠出のできないニジュに代わり、エヴェトラは各地に分身を放浪させた。
神の時間に比べて命の時間はせわしない。神殿に住まう人間の世代はまたたく間に交代していく。
シアとの事件の時にはまだあどけなさが残っていたあの少女も、今は歴代の巫女長といっしょに墓所で静かな眠りについている。
時の経過でニジュにも小さな変化が起きていた。外見上のささやかな変化だ。
人間たちの着るものをまねて衣服や装身具をまとって身を飾っている。
無理のない範囲での変身能力の行使。残されている力までもが衰えないようにする、というのが表向きの理由。
ケープやローブを羽織っていると少しだけ安心できる。キノコの傘みたいで懐かしい気持ちになるし、強制変異させられた体を隠せるのも居心地が良い。
「あっ、ニジュさん。首のところに巻いてる布の輪っかは新しいやつですよね!」
拙い語彙でも温かくのどかな好意は伝わってくる。
ニジュはにやけ面を押し殺しいつもどおりの落ち着いた態度を装う。
「糸でできてるあみあみの模様がキレイです」
一番の理由はこんな風にエヴェトラの興味を引くためだ。
けれどエヴェトラは一仕事を終えたフンコロガシだとか、はじめての裏切りに泣いている人間の子供だとか、息を引き取る今際のカバにもあまねく関心を払っている。
この前はナツメヤシの木を口説いていたし、なかなか子供に恵まれず神殿に加護を求めにきた人間の夫婦を手助けしたり、本来は滅多に動きたがらない地形神でさえも土地にそそがれるフォイゾンを求めてやってくる。
独占できないとわかっていても束の間の会話が楽しかった。
ニジュから頼まれた妖精関係の調査の傍らで、エヴェトラは困っている命を助け続けた。無選別かつ無条件。崇高な理念あってのことではなく、相手が喜ぶと自分も嬉しいという単純な心の動きに基づいた習慣だ。
だんだんと多くの人々が加護や祝福や救済を求めて神殿に集った。神殿は人里から離れた場所に建てられていたのだが、近隣に居つく人間の数が多くなり神殿を囲んで家が次々に作られていく。
百人が数百人に。数百人が千人に。千人をこえて一万人に達した。それでもまだ足りないとでもいわんばかりに人口は増え続ける。
虫でも植物でも獣でも菌でも、時間がたてばなんでもかんでも増えていく、というわけではない。増殖するには条件がそろっていなくては。
この地には、それが実現可能なだけの水と食料それに安全と健康があった。エヴェトラ=ネメス=フォイゾンとその眷属は、生きているだけでその地を豊かに変える。
農耕を覚えた人類に肥沃な大地を与えれば増殖する。それは柔らかなパンをカビが覆いつくすくらい当然のことだった。
集まった人間の命の数だけ思惑が交差する。街に流れる空気には歓喜や悔恨の生々しい情念が息吹となって渦巻いた。
そしてその心の奔流の中から神性を宿した存在が二柱同時に顕在した。
深い森の奥の濡れたコケから神は生じる。闇に閉ざされた深海のウミユリから神は産まれる。狭い晶洞の中で育まれたオーケン石から神はできる。
自然の気が高まった時に新たな神が生成される。
「すぐ近くで新たな神が出現したようです」
「そのようだな」
「この世界を彩る仲間が増えたのです。誕生を祝いにいきませんか?」
「その必要は……」
ない。といおうとした口をニジュはつぐんだ。
妖星が封印されてから生じた神の目には、あの忌まわしき妖精たちがどう映るのか。それを確認できる機会だ。
「……良い機会だ。我も同行しよう」
町は人間たちが織りなす生活の息吹で満ちていた。
広大な黒土の畑とそれを耕す者の住居。豆やネギやダイコンなども食卓に欠かせないものだが、小麦の栽培に一番力をそそいでいる。
収穫した小麦は石臼でひいて粉にする。人力頼みのくたびれる気長な作業だ。
かくして多くの工程と労働のすえ自然界には絶対に存在しないたぐいまれなる素晴らしきパンが職人の手で焼かれ、町で生きる人々の活力へと変わる。
町では様々な品を交換する市が開かれ、旅人の疲れを癒す宿もある。
今は夜明け前。太陽は地平線から顔を出していない。
町はまだまどろみの中にあり、働いている者といえば早起きのパン職人ぐらいのものだ。
ニジュとエヴェトラはその姿を人間の目には映らぬようにしていた。働き者のパン屋は目の前をとおりすぎていく金色の首輪をしたミミズと青白くやせ細った人影に気づくことはない。
向かったのは町の片隅にある大きな共同墓地だった。積まれただけの石が墓標だ。ここに新たな神々の気配を感じる。
「はじめまして! 私はエヴェトラ=ネメス=フォイゾン。この辺りの土を耕しています。好きな食べ物は茎レタス! なミミズの神です」
エヴェトラの名乗りに応じて、並び立つ石の塔の間から二つの影が浮かび上がる。
完全にシンクロした二つの動き。
「喜びの歌がアタシを呼び覚ました」
「嘆きの祈りがボクをゆり起こした」
その形状は布一枚を縛って作った人形に似ていた。
丸くふくらんだ頭部に綿のような奇妙なもやがくっついている。これが髪に相当するのだろう。
その顔には、目と口だけが記号的に示された簡素なものがイレズミとして刻まれていた。描かれた目はまだ閉ざされている。
神は自分の諱字司を持って産まれてくる。
「アタシはルネ=シュシュ=シャンテ」
「ボクはチリル=チル=テッチェです」
イレズミが描き変わった。目が開く。
一人の子供は多彩の瞳。
一人の子供は一色の瞳。
「そちらはどなたです?」
チリルの問いのすぐ後に、ルネはチリルに向けて何事かをささやく。
ニジュにはルネの言葉の内容も行動の意図もわからなかった。
「ニジュ=ゾール=ミアズマ」
「こちらへいらしたのはどのようなご用向きです?」
「挨拶とお祝いにきました~」
「そうですか。それはどうもご丁寧に」
チリルはそれだけ応えると後にはしばらくの沈黙が流れた。
耐えきれず吹き出したルネの笑い。
「プハッ! チリル、もっと喜んでおきなよ。この町の人間に愛されている『慈悲深きネメスさま』が直々にご挨拶にきてくださったんだ」
慈悲深きネメス。人間たちの間ではエヴェトラはそう呼ばれている。
「あ、『神殿に現れる白い幻影』ことニジュさまもいるんだった」
ルネは墓標の石の一つにちょこんと乗っかった。
「まー、せっかくですし? こんな場所ですがくつろいでってくださいな」
「おもてなしするです」
チリルはこの場にいる四柱の神の前に白いスイレンを出現させた。
長い茎つきのスイレンの花には透明な露が一つ乗っている。露は四つの花のまったく同じ位置に完璧に同じ大きさで配置され、白い花弁をうるおしていた。
「どうぞです」
「アッハハ! 盛りつけ几帳面すぎー!」
ルネはケタケタ笑ってふわりと舞い上がる。
石の上から自分の分のスイレンに着地。外套の中へもしゅもしゅと引き入れて賞味した。
「どうせすぐなくなるのにさ」
「お前のやり方は雑すぎるのですよ」
チリルは思念の力でスイレンの花弁をぷちっと取り外した。
「ああ、そうだ。エヴェトラさまの評判は人間どももよく口にしてますよ。すごいすごい」
「ご自身の眷属でもない命にここまで身近に接する神は、あなたの他にはいないのでは?」
チリルは花弁の一つを丁寧に折り畳み、控えめな動作で外套で覆い隠す。
「いえいえ、それほどでもありませんが!」
エヴェトラは悪意に対して鈍感であった。
三獣神ならすぐにチリルの頑固さとルネの性悪さを見抜いただろう。
シアは他者の心を思いやりこそしないが、自分を少しでも侮辱したり不快にさせる行為には目ざとい。
イ=リド=アアルは怒りや不快といった感情にはなじみ深かった。というのもイの特異なしゃべり方でたいていの相手は気分を害するからだ。
「ニジュさま? ……は寡聞ながらご活躍ぶりが耳に入ってはきませんが、何をなさっておいでです?」
この不遜な新参者たちにどこまで話したものかとニジュは思考を整理する。
一気にすべてを打ち明ける気にはなれなかった。以前そうしたせいで他の神からは狂気に陥った、とウワサされた。
多少回りくどくてもここは慎重にいこうと思う。
「……妖精のことを調べている」
「そうなのですか」
「へー、すごーい」
最高に無難な返事だった。
「……」
ニジュはスイレンの花を無駄にもてあそんだ。
しりたいことに近づくためには、時には相手にも何かをしらせる必要がある。
この二柱にどこまでなら話しても平気か。ニジュはそのラインを見定めているところだ。
「妖精は……。大多数の神々は妖精をとるに足らない存在だと思っているが、それを疑う神もいる。本来は……もっと強大なものではないのかと。……汝らはどう思う?」
チリルがすっと前に出た。優等生的に淡々と。
「妖精は古くからこの地に根付いている生き物の一種ですね。菌類の毒性を無効化する体質を持ち、キノコやカビを好んで食べます。妖精の最大の特徴は心や言葉の影響を反映することです。心の神としても興味深いかなり稀有な生態ですが、妖精は古くからこの地に根付いている生き物の一種で菌類の毒性を無効化する体質を持ち……」
「アタシもそれと同じこといおうとしたのに」
ふいにチリルが口をつぐむ。
「あれ……? 変です。どうして妖精だけは最初からこれほど正確な知識が頭に入っているです……??」
「んあっ? 別に変ってことはないだろう? 諱字司だって最初から頭に入ってたじゃん」
「それはそうなのですが……、違和感の正体を的確に表現するのは難しいのです。そうですね、諱字司や力の使い方は最初から感覚的に理解しているものでしたが、妖精に関する一連の知識は整いすぎている点にチリルは引っかかりを感じます」
神々は誕生時から諱字司を持つが、諱字司はその神と結びついた層からもたらされる。
体外にまで展開されたこの色層は神以外も持っている。生気と関わる層はエーテル体、感情と結びついた層はアストラル体など呼ばれている。
この世界に生きる命たちにも層はあるにはあるのだが、これを制御できているかと問われればそれができる者はごく少数。命が理知や因果の層にたどり着くには適性や努力が必要となる。
さらに無我、真我、梵源の領域に至る道は非常に稀で、神以外でこれらの層にたどり着いた者がいればイ=リド=アアルがその記録に残すほどの出来事だ。
妖精の知識は梵源の領域から神々にもたらされた感覚的な世界理解ではなく、何かが意図的に植え付けたものではないのか、とチリルは感じ取った。
「アハッ! また何か小難しいことをいってる」
「……一番の違和感はお前の言葉ですよ。『アタシもそれと同じこといおうとしたのに』。お前の頭にある言葉はせいぜい可愛いやキモい程度ではありませんか。あの言葉、本当にそうなのですか? それとも適当なことをいっただけなのです?」
「えっ、まあ……本当ではあるよ。いわれてみてわかったけど、妖精なんてクソ興味もないしロクに見たこともない種族の詳しい解説文みたいなのを当然の知識としてしってるって……わ、なんかキモッ!」
放っておけばいつまでも続きそうなおしゃべりにニジュが割って入る。
「確認になるが……汝らは妖精を見たこともなく、他の神から妖精の話を伝えられたこともないのだな?」
双子神は互いの顔を見合わせた。
「ボクらが顕現したこの辺りにはあまり妖精が生息していないようなので直接触れ合ったことはないはずです」
「アタシらが先に産まれた神と交流を持ったのは、今回がはじめて。だよね? チリル」
「ですです。他の神々の気配があるのは感知してますが、直接的な接触をした神はあなた方だけです」
夜明け前の墓地は奇妙な沈黙に支配された。
「……なんだか気色が悪いね」
げんなりした表情でルネが小声で吐き捨てる。
「ニジュさま。妖精の調査というのはどのようなことをなさっているのです?」
チリルはニジュの話に真剣に耳を傾け、その間エヴェトラとルネは天気の話からはじまり町のウワサや砂漠の面白スポットの話題で盛り上がった。
「チリルからお願いがあります。妖精の調査にご協力したいです」
太陽が昇りはじめた。
一日のはじまり。そして砂漠を無慈悲に焼き焦がす灼熱の炎がやってくる。




