ゴブリンと因縁の相手
かつてはこの地下都市を治めるゴブリンの族長が鎮座していた大空洞。
そこに三人の人間がずかずかと入り込んでいた。
一人はミステリアスな雰囲気を漂わせた褐色肌の女。踊り子のような服装で、一見したところ武器らしきものは持っていない。
もう一人はどこにでもいそうな青年剣士。……だがバザウには見覚えがある。
そして最後の一人は……。
「こんにちは。ゴブリンちゃん」
杖を持ってほほ笑む若い娘。
「私のこと覚えててくれたかなぁ? それともすっかり忘れて、毎日をエンジョイしてたぁ?」
あの時の火炎魔法使いだ。
「あれからずっとあなたのことだけ考えてた。あのね。私の親って、冒険者ギルドを取り仕切るボスなの。私も小さい頃から、いっぱいいっぱい強くなるために勉強していたの。優秀な魔術師になること。それが両親が私に望んだ未来の姿」
指先で杖をもてあそびながら女は一方的に話を続ける。
本気でゴブリンに対して話しかけているわけではなく、自分自身と引き連れた仲間に聞かせるための言葉のようだ。
「わかるかなー? ゴブリンちゃん。人間ってね、大変なんだよ? 毎日のん気に遊んでるだけのおバカさんとは違うんだー。私が歩いていたのは一流の魔術師になるための道。そのまま進んでいればステキな未来があったのに。ちっぽけなゴブリン一匹が私の足をつまづかせた……。そんなの、許せないよね?」
傍らの戦士が声を張り上げて一歩前に出た。
「コイツがどれだけ頑張ってきたのか、俺はよくわかってる! その努力はっ、お前みたいなザコが汚して良いものじゃないんだよ!」
森の中での唐突な襲撃から始まった争い。
とうに決着がついたと思っていたが、相手の方はそうではなかった。
「……あなたに負けて、私、自信をなくしちゃったの。魔法の才能があったはずなのに、今はスランプで簡単な術も使えなくなっちゃった……。ゴブリンちゃんがまぐれで勝ったりするからいけないんだよ?」
魔法使いの女は可愛らしく笑う。
首をくりっと傾げると、髪がさらりと揺れた。
「だからこうして! 傷ついたプライドを取り戻すため、リベンジにきちゃいましたっ! ジャジャーンッ! ゴブリンの洞窟、完全殲滅ぅ! うんうん。やっぱりゴブリンってのはこうでないとね」
バザウの脳に、あの日の記憶がよみがえる。
「お前、ものの場所をつきとめる術とか覚えてなかったか?」
「ああ、あれねー。ちょっと条件があるの」
女は肩をすくめた。
「あらかじめ魔法で印をつけなきゃダメなんだよねー。その分、遠く離れてもバッチリ位置がわかるのがメリットなんだけど」
たしかにそう言っていた。
その後バザウはゴブリン流の和解儀式を執り行った。
だが人間がゴブリンの風習をしるわけがない。
立ち去る前に女が放った無痛の魔法。
(あれは……。俺がずっと和睦の一撃だと思っていたものは……)
バザウを追跡するための印づけ。
戦いを終わらせた気でいたのはバザウだけ。
一人で納得して、賢いつもりの愚か者。
自分こそがゴブリンの街を壊滅においやった原因。
その事実にバザウの頭は割れんばかりに痛んだ。
内臓が不穏に暴れ出す。
ぬるりと出てくる冷や汗が気持ち悪い。
今にも吐きそうだ。
「んんー? 大丈夫? どうしたの? ゴブリンちゃんてば、つらそうな顔してるよー? 今からそんな顔してちゃ先がもたないぞー」
ここで黙ってなりゆきを見ていた褐色の女が動く。
(……なんだ? 格闘術……?)
動揺していたバザウには、女が丸腰で挑んできたように見えた。
が、思い違いはすぐに体で理解した。
(違……、これは……!)
バザウを絡めとる銀の糸。肌に喰い込み、じわじわと肉を裂いた。
小さな血の雫が緑の肌の上でぷつぷつと膨らんで、やがて重力に従いつぅと赤く滑り落ちる。
(ぐっ……)
首といった、すぐに死に至るような急所は狙われなかった。
糸はバザウの手足を入念に封じていて、自力で抜け出すのは困難だ。
もがき苦しみ暴れるほど、糸は容赦なく喰い込む。
けして楽には死なせない。そういう魂胆がありありと伝わってくる。
「いーい? 絶対に殺しちゃダメよ! わかってるでしょうね?」
「心得ております。お嬢さま。動きを封じているだけです」
感情の薄い声で糸使いの女が答える。
「きっちり教育してやらなくちゃな。分相応の生き方ってものを」
優越感を全身から発散させて青年がバザウに近づく。
拳をベキベキと鳴らしていた。
身動きのできないバザウは、ただ口を堅く結び、敵を見据えることしかできなかった。
情けない姿を見せないことだけが、バザウに残された唯一の抵抗だ。
「あの日の戦いの結果は何かの間違いだ。そうだろう? 間違いは……正さなくちゃな!」
殴られる。
衝撃。よろめく体。絡みついた糸が肉を裂く。
激痛で無様な叫び声が出そうになる。それを必死でこらえた。
一発、二発……。
バザウはそれ以上の数も理解できたが、数えるのをやめた。
「アイツの誇りをっ! お前なんかがどれだけ傷つけたと思っているんだ!」
青年は熱い言葉をバザウに叩きつける。
「大事な仲間がっ! ゴブリンごときに負けただなんてっ! そんなの認められるわけないだろ!! 何かの間違いだ!!」
(聞くだけで寒気のする言葉だが……、きっとコイツは偽善者ではないのだろう)
おぼろげな意識の中でバザウはそう思った。
純粋な正義感と仲間意識から、青年はバザウに攻撃を加えている。
(まったく、友情とは素晴らしい!!)
「ねえ。糸を緩めて」
高みの見物を決め込んでいたお嬢さまのリクエスト。
「ゴブリンの拘束を解くのですか?」
「ううん。ある程度体を動かせるぐらいで」
銀糸によって、バザウは強制的に直立姿勢を保っていた。
「私の前にひざまずかせてやりたいの。自信を取り戻すためにね」
一瞬だけ糸使いの女は何か皮肉でも言いたそうな目つきをした。
熱血青年とは違い、糸使いは心からギルドのお嬢さまを慕っているわけではないようだ。
だが、あてこすりは心の中にとどめておき、結局は従順に振る舞う。
「承知しました」
褐色の女がグローブをはめた手をするすると動かす。
バザウに絡みついていた糸が少しだけ緩んだ。
普段のバザウであれば、糸の繰り方をじっと観察してこの状況からの脱出に役立てるところだが、今はそんな余裕がなかった。
視界はかすむし、頭は煙がかかったように重い。
傷口はどくどくと不快に熱を帯びて、それ以外の皮膚はやたらと冷たく感じられる。
糸を緩められて、体が崩れ落ちそうになる。
なんとか倒れずに耐えたのはバザウの執念だ。
「うわぁ、気持ち悪い! 膝がガクガクしてるぅ」
細い杖がバザウを小突きまわす。
汚いものでもつつくように。
「悪いんだけど頭をもうちょっとさげてもらえないかなー? 私、そんなに大きく足を上げられないよぉ。頭が高ーい! ひかえおろー! なんちゃってー」
ふざけた言葉とは裏腹に、杖でぐりぐりと強く頭を押される。
(この人間に……、俺がひざまずくだと?)
赤帽子の隊長でさえ、バザウをひざまずかせるには体に触れる必要がある。
プロンは、声だけでバザウを座らせることができた。
なら、この人間は?
(屈しない。そのようなことは、ありえない!)
ギロリと女を睨むと、ニコリとした笑みが返された。
「うん? どうちまちたか? 反抗的なお顔でちゅねー」
「自分の立場が理解できてないんじゃないか? ゴブリンだし。まだ助けがくると思ってるとか」
剣士の男が勝手にバザウの心情を翻訳する。
まったく的外れな解釈だ。
だがその男の言葉は一部正しいように思えた。
(……そうだな。助けは……こない……)
絶望はバザウの意志を揺らがした。
(……俺が生きていて良いのか? 豊かだったこの街に、災厄を運んだこの俺が……)
「巣の仲間は一匹残らず駆除してやったし」
(いや、そもそもこの状況では……、俺が生き延びることは不可能だ。死は確定している。……ならば……)
バザウの心に亀裂が走る。
それはどんどん深くなる。
(……俺の誇りなど、全て投げ捨て……。無様に苦しみ抜いて死ぬことこそが、罪滅ぼし……になるのでは……)
魔法使いの女は、バザウの変化に目ざとく気づいたようだ。
「あれ? さっきまでの元気はどうしたのかな? 急にしょんぼりしちゃったねー?」
杖でなぶられるまま。
目を閉じる。
バザウは一切の抵抗をやめた。
「きゃあああぁっ!」
前触れもなくそれは突然に。
糸使いの女の甲高い悲鳴に、バザウは我に返る。
体を緩く取り巻いていた糸が、一瞬強く引っぱられる。そのせいでバザウの肉も裂けた。
が、その後で凶悪な銀の糸はだらりと解けていく。
血だらけでボロボロのひどい恰好だが、これでなんとか銀糸の縛めから逃れることができた。
「腕がっ……、腕をやられました……。あぐ、ぅう!!」
糸使いは利き手を押さえて地面にうずくまっている。
この洞窟の唯一の生存者が、荒く息をして四肢を踏ん張り立っていた。
ザンクだ。
「チクショウ! まだ生き残りの狼がいたのかよっ! 銀バエみたいにしぶといヤツだ」
青年が剣を抜き、ザンクに向かっていく。
その間にバザウは素早く滑り込む。
二本の短剣が、青年の長剣を受け流した。
鋭い糸に切られて肌のいたるところから血がしたたっているが、筋肉が完全にダメになるほどのケガはしていない。
(どうにか、体は動く。痛みにさえ耐えれば……)
バザウはまだ戦える。
「チッ!」
態勢を立て直すためか青年は後ろに退避する。
ザンクという思わぬ援軍を得て、バザウの頭はすぐに戦略を練る。
(森狼に……、指示を……。だが、ザンクが俺の指示を聞き入れるか?)
プロンの言葉が思い浮かんだ。
――狼達があなたの指示についていけてない。あなたの方も、理解が追いつかずに困惑している狼に、歩みを合わせるつもりがない――
バザウはザンクに目配せをした。
(……俺は何も命令しない。ザンク。お前の判断に任せる)
バザウの目には、この孤独な狼がニタリと笑ったように見えた。
森狼の乱入。
予期せぬ事態に人間たちは混乱していた。
矢傷の痛みで全速力は出せないとはいえ、狼の動きは人間を撹乱するには充分だ。
「ねえっ!? ゴブリンが見当たらないんだけどっ!!」
魔法使いのヒステリックな叫びが洞窟の広間に反響した。
腕を抑えながら糸使いは不安そうに周囲を見渡す。
「……に、逃げたのでしょうか……?」
人間たちはいくつかの照明具を持ちこんでいたが、この大広間全体を隅々まで照らせるほどではない。
明かりが届かない場所は、ゴブリンの洞窟本来の深い闇に包まれている。
「……! そこかっ!」
闇に潜んでいたバザウの気配をいち早く察知したのは、糸使いの女だった。
無事な左手で異国風の隠しナイフを取り出し握っている。
バザウは壁際に立っていた。
褐色の女は荒々しく息をつくと、追いつめたとばかりに深々とナイフを突き立てる。
……洞窟の壁に。
「なっ!?」
バザウは洞窟の壁を蹴り、足指で天井の岩につかまった。
足の筋力と身のこなし。ゴブリンの小柄な体格を活かした洞窟内のアクロバット。
バザウは糸使いの女の背後に音もなく着地した。
短剣を抜く。無防備な背中に淡々ととどめの一突き。
「……」
老婆たちの賑やかな包囲網からバザウが抜け出した時の芸当だ。
糸使いの女が倒れるのを見て、二人の人間はますます恐怖に陥った。
魔法使いは身を隠すように青年の背中に回った。
年若い剣士は、混乱状態の中で叫ぶ。
「なんなんだよ……っ! お前、いったいなんなんだよぉっ!?」
「……バザウ」
「ぁ、は……? え?」
「震撼を呼ぶヘスメの十二番目の息子バザウだ」
人間の言葉でバザウがそう名乗ると、剣士はその目と口を限界まで開けた。
「まさか、お前……。ウソだろ? ゴブリン……だろ? え……? 人間の言葉をわかって? 俺らの会話、全部理解して……?」
「あれだけ正義と友情について熱弁していたのは、全部独り言だったのか?」
熱血正義漢からの返事はなかった。
破れかぶれのめちゃくちゃな動きで剣が乱雑に振り回される。
バザウはすっと手を伸ばす。
錯乱する青年の腕に、穏やかにに、そっと、優しく触れる。
無規則な動きをバザウが導く。
「これで……、勝負がついたな」
青年は自らの武器で腹部を刺し貫いていた。
「……」
赤帽子隊長の奥の手。相手の力を巧みに利用した不可思議な体術。
「あ……、ああ……」
最後に残ったのはあの少女。
「私は悪くない! 私の道を邪魔したのはアンタでしょっ!?」
心取り乱し、髪を振り乱す。
むき出しの感情をぶつけられる。
それは醜く浅ましいが、偽りのない本心からの思いだった。
「優秀な魔術師にならなきゃいけないって人生のレールに、必死にしがみついてたこれまでの私の努力はどうなるの!? プライド! 期待! 熱意! アンタはそれを全部ダメにしたのよっ!」
バザウは黙って短剣の切れ味を確かめる。
問題なさそうだ。
「アンタは私の足をつまづかせた小石よ。……石ころらしく、地面に這いつくばってなさいよ……」
へたり込みながら少女がつぶやく。
だんだん弱々しくなっていく声。
悔しそうに地面を引っかく手の動きは鈍く力なかった。
自分一人の力でも敵に立ち向かおうとか、死ぬまでにせいいっぱいの悪あがきをしてやろうといった、そういう気概はまったく見られない。
「……たかが小石一つに執着しすぎたな。俺の存在に転んだのなら、さっさと気分を変えて立ち上がるなり、別の道を探せば良かったものを……」
栄光の道からはずれた魔法使いが顔を上げる。髪が乱れているせいで、その表情はよく見えなかった。
「ダメなのよ。やっぱりゴブリンちゃんは人間のことがわかってないなー。落ちこぼれたら……。親の期待を裏切ったら……。私の価値なんて、なくなるのよ」
「……そういうもの……か」
バザウは、無価値だという彼女の命を静かに終わらせた。
厄介ごとが片付いた後で、バザウはザンクの傷を治療した。
誰にも心を許さなかったザンクが、今はしぶしぶながらもバザウの手当てを受けている。
「ザンク。お前、これからどうする?」
洞窟の前。
岩に腰かけながら、孤独なゴブリンは孤独な森狼に語りかける。
「一時は死こそが唯一の償いに思えたが……。お前の姿を見て、考え直した」
吹く風が死臭を運ぶ。
手当てを済ませたバザウとザンクの傷口からは、薬草の汁と乾いた血が入り混じった臭いがした。
少し躊躇した後、そっとザンクの体を軽くなでる。
(温かい……生きている……)
生き物の温度。
生命の鼓動。
生臭くて湿った狼の呼吸。
黒銀の毛並みから手を放す。
別れの挨拶の代わりにポンポンと優しく叩いた。
「俺は生きる」
バザウは立ち上がり歩き出す。
一人で。
その背中をザンクは静かに見送る。
風が青花を揺らしてた。この地を立ち去る孤絶した漂泊者に、手を振るかのように。
第一部 おしまい




