2、演技する
「……で、何でまた、和田君がこんなところにいるのですか?」
数日後の朝。
学校から徒歩15分のところに住んでいる伊那悠姫は、自宅を出て通りを曲がった電柱の影に、最近見慣れた姿を見かけ、大きな溜息をついた。
クラスメイトの和田雅之。
彼は悠姫に気づくと自転車から降り、それを押しながら悠姫の隣に並び歩き出した。
こうして並ぶと和田は背が高い。
160cmの悠姫より20cmは高いだろう。
それだけで人目を引いている。
「伊那の家は通り道だって言ったろ? 偶然だよ、偶然」
本当かなぁと疑いの目で、悠姫は和田の顔を見上げた。
割れたガラスで怪我をして、病院の帰り道に送ってもらってから、なぜか朝登校途中に和田に会う。もうこれで3日目となると、さすがに疎い悠姫もおかしいなと思い始めた。
あの時、自宅マンションまで送ってもらったのは失敗だったかもしれない。
結局、和田に自宅を教えることになってしまったのだから。
「でも、和田君と一緒に登校すると、目立ちますから。私、困るんです」
「いや、一ヶ月以上たっても、クラスメイトに顔も覚えてもらえなかった俺だし。別に目立つってことも、ないっしょ」
「……根に持ってるんですね。元々私は人の顔を覚えるのが、苦手なんです。和田君だけって訳じゃないんですよ」
「度の合ってない黒縁ビン底メガネじゃあ、全然周りが見えてないんじゃないの? それに伊那はいつも俯いているし、人を避けてるようなところがあるもんな」
悠姫が憮然とした顔でジロリと睨み付けると、和田は肩をすくめて見せた。
そのまま無視して、悠姫は早足で歩き始めたが、和田は焦る様子もなく、自転車を押しながら、すぐ後を余裕で付いて来る。
毎日こんな感じで一緒に登校していては、周りに誤解されかねない。
「本当に困るんです、私。それに、和田君ってサッカー部期待のエースなんでしょ? 私なんかといて、あらぬ誤解を受けるのも嫌でしょう?」
「へえ……ちょっとは俺のこと、知ってくれてたんだ。いや、別に誤解されたって俺はちっとも構わない。俺は伊那と友達になりたいって思ってるから」
「え……友達? 私と?」
悠姫が驚いて振り返ると、和田は「もちろん」と、ニッコリと微笑んだ。
悠姫の頬がサッと赤く染まる。
転校してから、人と距離を置いていた悠姫にとって、友達になりたいなんて言われたのは初めてだった。だけど、悠姫には、簡単に了解できない理由があった。
「で、でも、ダメなんです。無理なんです。……ごめんなさい」
「頑なだなぁ」
「和田君こそ、物好きですね。みんな『頭の固い、面白味のない優等生』って私のこと敬遠してるのに」
「そうでもないさ。みんな、本当の伊那悠姫を知らないからな」
「……」
「でも、俺も伊那を困らせるのは本意じゃない。じゃあ、携番とメアド教えてよ。そしたら、朝はできるだけ近付かないようにする」
「だから……それは昨日も一昨日もお断りしましたけど、無理なんです!」
ムッとした和田の顔を見て、悠姫も困った顔をした。
昨日も一昨日も同じ要求をされたが、スルーしていた。
あまり馴れ馴れしく、踏み込んだ話をしたくなかったからだが、このままでは和田は納得しないようだ。
明日も待ち伏せされていたら、たまったものじゃない。
悠姫は小さくほっと溜息をついた。
「……だって、私、携帯電話持ってませんから」
「え!?」
和田が本気で驚いたようすに、悠姫は焦って説明した。
「だって、だって、校則で携帯電話は禁止だって・・・」
「―――マジで言ってんの?」
「禁止されているのに持つなんて……そんなのダメですから!」
「……」
はぁっと溜息を一つついて、和田は悠姫をチラリと見た。
黒髪のツインテールに全く崩していない着方をした制服。
黒縁厚底メガネ。
確かに、そんな悠姫をお堅い優等生と悪口を言うヤツがいることも知っていた。
だが、実際に彼女は常識を超えた生真面目・天然な性格であるらしい。
和田は悠姫の素顔を見ている。
素顔の悠姫は決して隠さなければいけない容姿ではなかった。
むしろ芸能人にいそうな、整った顔立ちだったように思う。
そのギャップに俄然興味をそそられた。今まで周りにはいなかったタイプの女の子だ。
「じゃあ、せめて俺のこと、助けてくんない? 今すっげぇ困ってることがあるんだ。俺、伊那のこと助けただろ? だから、俺の窮地を救ってくれたら、お互い様ってことで」
「困ったこと? 助けるって、私にできることなんですか?」
「ああ、簡単なことだよ。俺の姉貴に会って欲しい」
「……和田君のお姉さんに会うだけでいいんですか?」
ホッとした表情で歩調を緩める悠姫の顔を、覗き込むようにして和田はニヤリと笑った。
「そう。ただし、俺の彼女としてね―――――」
* * *
和田の説明によると、和田には一つ年上のお姉さんがいて、これがかなりお節介な人なのだそうだ。
私立の有名女子高に通うお姉さんはしっかりもので、同級生や後輩の信頼も厚く、しょっちゅう色々な相談事を持ちかけられるらしい。
恋の相談もしかり。
実際お姉さんが仲介して、うまくまとまった恋人たちは結構な数に上るようだ。
「最近じゃ、姉貴にまとめてもらった恋人たちは別れないなんて、ありえないジンクスまであるそうなんだ。で、姉貴も調子に乗って、そのキューピット家業に生き甲斐を感じているようで、さ。それだけなら我慢できるけど、弟の俺にまでお節介を焼いてこようとする。だけど、彼女がいると分かれば、諦めると思うんだ」
「……でも、私じゃお姉さんも納得してくれないんじゃないでしょうか? 他の人に頼んだ方が……」
「そんなこと頼んで、相手の女が本気にでもなったらどうすんの? 余計面倒なことになりかねない。伊那だと安全だろ? 大丈夫。伊那のような真面目タイプの方が、姉貴も却って俺が真剣だと思うに違いない。ケバイ派手なタイプを連れて行ったりしたら、遊びだって思われかねないし」
「そうでしょうか……」
「そうだよ」
和田に強引に押し切られる形で、結局悠姫はにわか彼女を引き受けてしまったのだが、約束の週末日曜日の今日、悠姫は猛烈に後悔していた。
「あ、あの……やっぱり私、自信ないし……帰りたいんですけど……」
「そんなの、今さら無理に決まってるだろ? 俺を見捨てる気?」
「だ、だって、私、男の人と付き合ったこともないのに、付き合ってるふりなんて……すぐにお姉さんにバレちゃうに決まってます!」
「へえ、誰とも付き合ったことないんだ」
和田が目を細めて、悠姫に視線を向けた。
「でも、もう姉貴のうちに上がりこんでから怖気づけれてもね。そんな緊張しなくても、大丈夫だって」
そうなのだ。
約束してからずっと悠姫は後悔して、何とか和田に思い直してもらおうと、何度も訴えてきたのだが、のらりくらりとかわされ、流されて、しっかり断れないまま。
今は、既に和田と並んで、彼の姉のマンションのリビングにあるソファに座っている状況だ。
緊張も後悔も最高潮に達している。
和田の姉は、悠姫の最寄り駅から30分ほど乗り継いだ町で一人暮らしをしていた。
隣室にあるキッチンではカチャカチャとお茶の準備をしている音がしている。
「で、でも。私こんな格好ですし。本当に良いんですか? かなり今時の女子高生らしからぬセンスだと思うんですけど」
「ふ~ん、自覚もあるんだね。……別に俺はそのままの伊那で良いよ。大丈夫、大丈夫」
「私は、和田君に恥をかかせるんじゃないかと、心配して……ですね」
「……心配してくれてるんだ」
「……」
和田に上手くあしらわれている気がする。
悠姫がムッとして黙り込んだ時、紅茶のポットを載せたトレイを手に和田の姉が顔を出した。
「お・ま・た・せ。お茶しながらお話しましょう。どうぞ召し上がって」
ソファーに座る悠姫と和田の前に紅茶とクッキーが置かれる。
和田の姉は落ち着いた所作で、悠姫の向かい側のソファーににっこり腰掛けた。
一つ上とは信じられないくらい、大人っぽいスレンダー美人だ。
「はじめまして。雅之の姉、美幸です。弟が彼女を連れてくると言った時は、冗談を言ってるのかなと思ったんだけど……ホント意外。びっくりしたわぁ」
「す……すみません」
「やあねぇ。別に責めてるんじゃないわよぉ」
朗らかな美幸の笑い声に、ますます悠姫の緊張は高まるようだ。
「あのなぁ、姉貴。それでなくても緊張している悠姫を煽るようなこと、言うなよな」
悠姫の右手をそっと手にとって、傷口に響かないよう、軽く握る。
美幸は日頃とすっかり違う弟の様子に、面食らったようだった。
「ふ~ん、今度の彼女には優しいのね」
「あたりまえだろ。俺が悠姫に一目ぼれしたんだから。失礼なこと言うなよ。俺から悠姫に告ったんだ」
「え……そうなの?」
美幸にしてみたら、弟が誰かに告白なんて初耳だった。
いままで逆に告白されて、女の子と何気なく付き合ったりはしていたようだが、雅之が冷めているからか、長続きしなかった。
しかも目の前の少女は、中学生のようなツインテール、黒縁メガネはレンズが厚くて瞳がはっきり分からないほどだ。
化粧っけもなく、おしゃれとも言えない格好だ。
美幸はどこに弟が一目ぼれする要素があるのか、まじまじと悠姫を見た。
一方悠姫は激しい目眩を感じていた。
『一目ぼれした』なんて甘い言葉を言われ、今自分の右手はなぜか雅之の左手と、包帯部分を避けた変則『恋人繋ぎ』となっている。
和田君は恋人のふりをしているだけなんだから、これはお姉さんを納得させるお芝居なんだからと、何度も自分に言い聞かせてはいるが、体は理性を裏切って、顔は体中の血液が一挙に集中したように熱い。
きっと耳まで真っ赤になっているだろう。
動揺する悠姫の鼻腔に、甘い香りが漂ってきた。
目の前の紅茶に視線が止まると、悠姫は気持ちを切り替える話題に飛びついた。
「あ、これフォションのアップルティーですよね。良い香り。私、この紅茶大好きなんです」
「あら、正解。私も大の紅茶党で、いろいろなフェィバリットティーを試すのが好きなのよ」
悠姫は自由の利く左手で、そっとカップを取り上げると、しげしげと見入った。
「カップもかわいい。ジノリのイタリアンフルーツですね。私の父がやはり紅茶党だったので、夫婦で色々凝って……このカップも家族のお気に入りでした」
「まあ、そうなの。私もこのカップ・ソーサーは大好きで、実家からくすねてきたのよ。でも、『お気に入りでした』って、なぜ過去形なの?」
「あ……父は3年前に亡くなったので。母も父を思い出して辛くなる品は、父方の親戚に差し上げたりして……今は家にももうなくて」
「まあ…、お気の毒に。ああ、どうぞ召し上がれ」
「ありがとうございます」
―――なるほど。素直で健気で純情、それにひょっとしたらお嬢様育ちだったのかしら? そういう点に雅之は惹かれたってことかしら?
美幸は悠姫に気づかれないように、意味ありげな視線を弟に送ったが、弟の方はシラッと無視を決め込んでいる。
小さく溜息をついて、美幸もカップを手に取ったところで、「あっ」と小さな声がした。
悠姫のメガネが、紅茶の湯気で真っ白に曇ってしまっている。
「あちゃ、それじゃ何にも見えないだろ? 貸しなよ。拭いてやるから」
「いいえ、やめて―――――」
雅之はテーブルにあったティッシュケースからティッシュを1枚取り出すと、悠姫の静止の言葉も聞かず、ひょいと彼女の黒縁メガネを取り上げた。
驚いた悠姫は手に持った紅茶を手放してしまいそうになった。
しかし、先ほどまで繋いでいたはずの雅之の左手が、いつのまにか悠姫のカップに添えられて、そっとソーサーに戻される。
どうして、この人は、こんな魔法みたいなことができるんだろう。
メガネを取り上げられた悠姫は慌てて俯いたが、前に座っていた美幸はその素顔をバッチリみてしまった。
「……ねえ、悠姫ちゃん……あなた、女優の九条瑞姫に似てるって言われない?」
「そ……そうですか?」
「まさか『本人』ってことないわよね?」
「ないです!!」
雅之は何事もなかったように、ティッシュで丁寧にメガネを拭くと、「はい」と悠姫に手渡す。
悠姫はほっとしながら、早速元通りメガネをかけ、「ありがと」と小さく微笑んだ。
美幸は心底驚いた顔で、悠姫を凝視している。
企て通り事が運んだことに、雅之は満足の笑みをこぼした。
「ところで、姉貴。女優の九条瑞姫って?」
「まあ、あなた知らないの? 今人気急上昇中の若手女優じゃない! 高視聴率のドラマ『天国の扉』のヒロインで、この冬公開の主演映画も決まったとか。それくらい、今時小学生でも知ってるわよ」
「へえ」
美幸は部屋の隅に置いてあるマガジンラックの中から、一冊の雑誌を取り出すと雅之の前のテーブルに置いた。
髪の長い少女が笑顔でポーズを取っていて、『平成のヴィーナス』という見出しも見える。
「ほら悠姫ちゃんとよく似てるでしょう?」
「悠姫はうちの学校の優等生だぜ。欠席・遅刻・早退は一回もないはずだ。女優と二足のわらじを履くなんて不可能、他人の空似だよ」
真面目な顔でこくこくと頷く悠姫に苦笑する。
雅之はパラパラと記事を流し見ると、興味なさげにテーブルにパサッと置いた。
「『平成のヴィーナス』だって? 悠姫の方がよっぽど美人じゃん」
「なに、惚気てんの? あんた、本当に変わったわね。冷徹なあんたはどこへいったの?」
「これが本当の俺なの。今までは本気で好きになったことがなかったって事」
―――これは、お姉さんに納得してもらうお芝居・・・だよね?
真面目な顔をして平気で赤面するような事をポンポン言う雅之を、どう捉えたら良いのかわからなくて、悠姫は途方に暮れていた。