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1、囚われる

 5月のポカポカした午後の陽光が、廊下に溢れている。

 時折、窓から吹き込む風が爽やかだ。

 窓の外はグランドで、野球部やテニス部などの運動部の掛け声が聞こえている。

 空は雲ひとつなく、どこまでも青い。


 伊那悠姫いな ゆうきは日直日誌を胸に抱え、はふっと一つ欠伸した。

 彼女はクラブに所属していない。

 日直の仕事を終え、これから職員室に行って、担任に日誌を渡せば、あとは帰宅するだけだった。


「のどかだなぁ、ホント良いよね……こういう平穏な学生生活」


 悠姫にとって、数ヶ月前には考えられなかった平和な光景だ。

 高校2年生の進級時に無理を言って、この公立高校に編入した。

 それまでは同い年の妹と同じ私立高校に通っていたのだが、そこでの生活はある種有名人である妹に振り回され、毎日が戦々恐々としていて、平和とは程遠いものだった。


 転校して、まだ一月余り。

 今日は、男子の日直が放課後の仕事をサボったため、教室の掃除やごみ捨て、日誌の記録など、一人でしなければいけなかったのは大変だったが、それすら悠姫には新鮮だった。

 自然に笑みが漏れる。

 黒縁メガネに、ツインテール。

 きちんと結んだ制服のリボンに、膝丈のスカートは典型的な真面目・優等生スタイルだ。

 そんな悠姫に、クラスメイトも必要以上に干渉してこない。

 それはなんて気楽で穏やかな毎日なんだろう。

 少なくとも悠姫はやっと手に入れた平穏な生活が、これからずっと続くと思っていたのだ。

 この瞬間までは―――――。





 グランドに向かった窓。

 視界の隅に何か黒いものが映った。

 視線をそちらに移す間もなく、後ろから誰かに思いっきり突き飛ばされる。


 ―――――え!??


 悠姫が頭から倒れこむと同時に、ガシャ―ンと窓ガラスが割れる音がした。

 顔を上げると、少し離れた場所に野球のボールと、今のショックで外れた悠姫の黒縁メガネが転がっている。


「大変! 眼鏡が!!」


 反射的に、思い切り手を伸ばした時だった。


「ばか! 動くな!!」


 男の人の低い声がした瞬間、指先に鋭い痛みが走る。


「不用意だな。周りを良く見てみろ。ガラスの破片で一杯だ」


 周りを見ると、悠姫の近くのグランド側窓ガラスが割れ、廊下の床にはガラスの破片が散っていた。

 身を起こすと、ジャージ姿の背の高い男の子が前にしゃがみ込んで、強引に悠姫の怪我をした手を取った。

 とたんに傷口から、赤い血がつーっと手首に流れた。

 悠姫の目がびっくりしたように瞠られる。

 

「あ~ぁ、結構傷深いぞ。ちょっと我慢しろよ」


と、男の子は首にかけていたタオルを口に銜え、ピッと縦に細く裂くと、傷口のある指の付け根をそれできつく縛った。

 白いタオルが赤く染まる様子に、一瞬、悠姫の意識はフッと飛びそうになったが、男の怒ったような声に我に返る。


「おい! 怪我した方の手、上に上げろ!」

「は、はい!」


 反射的に、悠姫はまるで授業中の小学生のように、勢いよく右手を挙手した。

 一瞬吃驚した顔をした男だったが、クスリと笑うと、「立てるか?」と聞いた。

 ちょうど、ガラスの割れる音を聞きつけた先生も二人、職員室から駆けつける。

 一人は悠姫の担任の大石先生だった。


「伊那、大丈夫か?」という声に悠姫が答えるより先に、「あんまり大丈夫ではなさそうなので、俺、このまま保健室へ連れて行きます。先生、あとよろしく」と、男は言うと、悠姫の膝裏と背中に腕を回すと、軽々と持ち上げた。

 悠姫の視線が急に高くなる。

 いわゆる「お姫様だっこ」というやつだが、悠姫はそんなことより、この騒ぎにわやわやと人が集まってきた気配にパニックになっていた。


「だ、ダメ! 私、メガネかけてない。メガネかけないと―――――」

 

 大石先生が落ちていたメガネを拾い上げ、悠姫に渡してくれた。

 少しフレームが歪んでいる。

 悠姫は左手でメガネを受け取ると、その腕で顔を覆った。右手は律儀に宙に上げたままである。

 転校してからは、ずっと目立たないよう、うまく学校生活を送ってきたつもりだったのに。

 こんなに注目を浴びることになって、どうしよう……ぐるぐる考えながら、緊張に固まっている悠姫に、男はポツリと声を落とした。


「よし。そのまま手を上げていろよ。怪我した時、患部を心臓より高く上げるのは常識だからな。手を下げると出血が酷くなるぞ」


 出血が酷くなる。

 右手を上げたまま、さらに固まってしまった悠姫の不幸をよそに、男はまたニヤリと笑ったまま、野次馬の衆人環視の中、保健室に向かったのだった。




 * * *




 男が言った通り思ったより傷は深かったため、悠姫は応急処置を受けると、そのまま養護教諭の車に乗せられて近くの整形病院に連れて行かれた。

 診察の後、処置室で消毒、3針縫われ、養護教諭の先生と会計の受付に行くと、夕方の診察を待つ人たちに混じって、背が高く悠姫と同じ高校の制服を着た男子生徒が座っていた。


「まあ、和田くん、……どうしたの?」


 先に気づいたのは一緒にいた養護教諭の先生だった。


「伊那の鞄、持って来ました。ちょうど帰り道だったし」

「まあまあ、わざわざ届けてくれたの? それはご苦労様」


 にっこり微笑んで、それからちらりと悠姫に視線を移す。

 鞄が差し出され、悠姫は素直に受け取って頭を下げた。


「あ……ありがとうございます」


 悠姫の返事に、和田と呼ばれた生徒は不服そうに片眉を上げた。

 そして、悠姫の肩に腕を回し、クルッと先生に背を向けると、そっとその耳元に囁いた。


「おい、なんで敬語なんだ? ひょっとして、俺が誰かわかってない?」

「え……」


 包帯を巻かれた手で、歪んだメガネを押し上げ、悠姫はまじまじと男を見上げる。


「今日の放課後、廊下で怪我した時、助けてくれた人ですよ……ね?」

「……それから?」

「え……そ、それからって??」

「俺ら同じクラスだろ? クラス替えから、もう1ヶ月なのに、覚えてねぇわけ?」

「ほ……ほんとですか?」

「……ちょっとそれって許せねぇな。俺ってそんなに印象薄い訳?……本当にそのメガネって度が合ってんの?」


 和田の言葉に固まった悠姫の手から、手にしたばかりの鞄が滑り落ちる。

 

「伊那の家って学校の近くだと聞いたけど。何町?」


 さりげなくその鞄を拾い上げて手に持つと、和田は悠姫に尋ねた。


「え……。幸町……ですけど」

「奇遇だね。俺も同じだよ」


 和田はニッコリ微笑むと、養護教諭を振り返る。


「じゃあ先生、ありがとうございました。俺、彼女を送っていきますから」

「え……」


 驚いた悠姫が和田を見上げ、凝視する。

 いつの間にか怪我をしていない方の手を和田に掴まれていた。


「大石先生が怪我の件、彼女の親にちゃんと連絡済だと言ってましたし。大丈夫、送り狼にはなりませんよ」


 養護教諭の先生は、しばらく和田の顔と繋がれた手を交互に見た。

 やがて先ほどの親密そうな内緒話をしている様子も考え合わせ、合点がいったらしく、「そっかぁ。もしかして私、お邪魔虫かしら。じゃあ和田君にお願いするわね」と笑った。

 とたんに悠姫の顔が引きつる。

 

 先生、絶対勘違いしてますよね?

 私と彼が友人以上のスペシャルな関係とでも思ったんじゃないですか?

 クラスメイトと言っても、今まで話したことはおろか、その存在を知ったのもつい先ほどってくらいの疎遠な間柄なんですけど。

 しかも、男の人と二人きりで帰るなんて、そんなの絶対無理!!!


 心の中で嵐のように言葉は渦巻くが、口はパクパクと動くだけで、そのまま和田に手を引かれながら、ずるずると悠姫は病院を後にしたのだった。




「私、一人で帰れますから。とにかく、今日はありがとうございました」


 病院の駐輪場まできて、ようやく正気に返った悠姫は、和田の手を振りほどくと、ぺこりと頭を下げて別れの言葉を口にした。


「ふ~ん、……命の恩人に向かって、なんか薄情な反応だな」

「!?……い、命の恩人なんて、そんな大げさな……」

「あの場でおまえのこと、突き飛ばしてなかったら、割れたガラスが直撃していただろうなぁ。しかも、俺のおかげで奇跡的に無傷だったのに、わざわざ自分から怪我して……その時も俺の応急処置が適切じゃなかったら、今頃出血多量でもっと酷いことになってただろうな」

「……」


 その言葉を脳内イメージ化して、くらりと倒れそうになった悠姫の腕を、和田がさっと支えた。

 ぼんやり見上げた悠姫の顔を、和田はまじまじと見下ろす。


「あの時……メガネを取ったおまえ見て思ったんだけど、どっかで見たような顔だよな」


 ピキッと悠姫の全身が硬直した。

 

「今かけてるその牛乳瓶の底みたいな黒縁メガネ、全然似合ってないし。たいした度も入ってないんだろ? こんなの取った方が―――――」


 さっとメガネを取った和田の手に、悠姫は反射的にかじりつく。


「やめて下さい。メガネ、返して。私はこれで満足してるんですから。どうして、こんな意地悪するの?」


 和田を掴んだ指先に鈍い痛みが走った。

 先ほど3針縫ったばかりの指だ。

 痛みの上に、理不尽としか思えない意地悪をされて、悠姫の瞳にじわっと涙がにじんだ。


 和田は驚いたような顔で、しばらく悠姫の顔を見つめていたが、やがて決まり悪そうな顔で視線を逸らせ、素直にメガネを返してきた。


「悪かった。別に意地悪をするつもりで、待ってたんじゃないんだ。ただちょっと心配だったから、さ」


 元通り黒縁メガネをかけ、俯いた悠姫の手から鞄を取ると、和田は自分の自転車の前カゴに悠姫の鞄を放り込んだ。


「とにかく今日は送らせてくれよ。先生にもちゃんと家まで送るって言ったし。何より心配だから、な?」


 和田の顔は真剣で、本当に悠姫を心配しているように見えた。

       

 ―――――それほど親しい訳でもない私に、こんなに親切にしてくれるんだもん。やっぱり良い人なんだよね……。


 つられるように、悠姫はコクリと頷いた。

 

「伊那…素直だな」

「え……」


 和田の言葉に、悠姫は頬を染めてモジモジと「それは……どうもありがとう」と呟く。

 褒め言葉に取られた和田は、変な顔をしてじっと悠姫を見下ろしていたが、やがてニヤリと笑って言った。


「どういたしまして。……やっぱりどこかで見かけたように思うけど、追々分かるだろうしね」


 後半は声が小さくて聞き取れなかったが、『どういたしまして』だけはっきり聞こえた悠姫は、邪気のない笑顔でニッコリ微笑み返したのだった。


久しぶりの小説投稿です。

よろしくお願いします。

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