第99談 正座していた〝モノ〟
これは、霊感体質で不動産会社に勤めている智子さん(仮名・30代)の体験談のひとつです。
彼女と私が知り合った経緯については「第62談 買い手を選ぶ物件」に譲りますが、今回お話しするのは、彼女がまだ〝見えること〟を完全には受け入れていなかった頃の出来事です。
不動産の仕事というのは、意外と地味で、そして現実的です。間取り図、ローン審査、内見の立ち会い。
日々の業務は数字と書類に追われ、幽霊など入り込む余地はないはずの世界です。
けれど、物件には「住人たちが生活していた時の空気や匂い」があります。
長く空き家だった部屋の、湿った畳の匂い。
日当たりは良いのに、なぜか温度の低い洋室。
誰もいないのに、僅かに残る生活音の気配。
智子さんは、不動産関係の仕事に就く前から、そうした〝空気の違い〟に敏感な人でした。
子供の頃から、誰もいないはずの部屋で声を聞くことがあったそうです。
夜、電気を消して布団に入った瞬間に耳元で、
「遊んでよ」
と、小さな子供の声がしました。
その声は、布団の中に入り込んでくるような距離で、息遣いまで感じられたといいます。
慌てて電気をつけると、蛍光灯の白い光が天井を照らし、部屋はいつもの見慣れた景色に戻ります。
当然のことながら、どこにも子供の姿はありませんでした。
畳の匂い。壁に貼ったポスター。閉めたはずのカーテン。
だけど、心臓の鼓動だけが、やけに大きく耳の奥で鳴り続けていました。
シャワーを浴びている最中にも、背後から
「キャハハハ!」
と、若い女のような笑い声が聞こえたことがありました。
水の流れる音に混ざって、確かに耳に届いたそうです。
振り返った瞬間、熱い湯気が視界を曇らせます。
湿ったタイルの匂い。
足元に伝わる排水の温い水。
誰もいない浴室。
それでも、背中には、確かに〝誰かの視線〟が残っていたといいます。
ただ、当時の彼女はそれを「疲れのせい」にしていました。
社会人になり、一人暮らしを始め、忙しい毎日に追われていたからです。
転機となったのは、ひどく体調を崩していた日の夜でした。
本当は休みたかったそうです。
しかし、どうしても外せない契約があり、彼女は重い身体を引きずるように出社しました。
帰宅する頃には、微熱で視界がグニャリと揺れていました。
住宅街は静まり返り、遠くで犬が一度だけ吠えました。
その時です。
背後から、男の声が聞こえました。
「どうして俺が……どうして俺が……」
低く、陰気な声でした。
吐息の混ざった、後悔のような響きでした。
彼女は、聞こえないふりをしました。
心の中で般若心経を唱え、呼吸を整えようとしました。
だが、その声は、次第に距離を詰めてきます。
まるで、彼女の歩幅に合わせるように。
思わず振り向いた瞬間、周囲の空気の温度が落ちたそうです。
街灯の下、薄くぼやけた輪郭の中に、上半身だけの男が立っていました。
顔は血に濡れ、目は焦点を失い、それでも口だけが、
「どうして俺が……」
と動いていました。
しかし、瞬きをした一瞬で、その姿は消えていました。
風が吹いたわけでもありません。
音もありませんでした。
ただ、夜の静かな住宅街の風景だけが残っていました。
彼女は全速力で自宅に駆け込み、鍵を閉めた瞬間、意識を失いました。
翌朝。玄関の床の冷たさで目を覚ましたそうです。
それ以来、彼女は一つの決まりを作りました。
――体調が悪い時ほど、振り返らない。
それが、彼女なりの生存術でした。
そして、しばらく経った頃のことです。
仕事で、ある県の山間部へ向かう用事がありました。
帰り道、彼女の車は長いトンネルに差しかかりました。
トンネルの入り口に入った瞬間、外界の光が消え、車内の空気僅かに濁ります。
エンジン音が低く反響し、ハンドルに伝わる振動が強くなります。
その時、
「ううぅぐ……ぐぎゃあぁ……」
と、男の呻き声が聞こえました。
最初は、エンジン音の錯覚かと思ったそうですが、その声は明らかに苦痛を伴った人間のものにしか聞こえませんでした。
進むほどに、その声は大きくなります。
耳の奥に直接流し込まれるように。
トンネルの中間地点あたりで、彼女はふと視線を左に向けました。
そこに、正座している男がいました。
両目は真っ黒な空洞のように見えました。
顔の輪郭はハッキリしているのに、目だけが〝抜け落ちている〟ようでした。
それは、これまで見てきたどの存在よりも鮮明でした。
ですが、不思議なことに、その鮮明さはどこか異質だったそうです。
トンネル内の照明は一定の間隔で並び、オレンジ色の光が道路を規則正しく照らしていました。
車が進むたび、光と影が流れるように移動します。
ところが、その男の周囲だけ、光の流れが途切れていたといいます。
輪郭はくっきりしているのに、照明が当たっているはずの頬に反射がありませんでした。
髪も衣服も質感があるように見えるのに、光を受け止めていないのです。
そして何より不可解なのは、足元でした。
トンネルの壁際には、車のヘッドライトが強く当たり、物体があれば必ず影が伸びます。
彼女の車も、ガードレールも、壁の凹凸も、全てがクッキリとした影を落としていました。
ですが、その男の足元には――何もありませんでした。
正座しているはずの膝の下に、接地の感覚がありません。
まるで、地面の上に〝置かれている〟のではなく、空間に貼り付けられているようでした。
光が彼を避けている。
あるいは、彼の周囲だけ、ほんの僅かに現実からズレている。
そう感じた瞬間、智子さんの背筋を、氷水を流し込まれたような冷えが走ったそうです。
さらに奇妙だったのは、瞬きをしても、男の姿がブレなかったことです。
通常、走行中に視線を横へ向ければ、像は僅かに流れます。
だけど、その男だけは、映像の中で〝固定された画〟のように動きませんでした。
時間が止まっているのか?
それとも、こちらだけが通り過ぎているのか?
黒い空洞のような目は、智子さんを見ているのかどうかすら分かりません。
ですが、瞳がないはずなのに、視線だけは確かに〝合った〟と彼女は言います。
そしてその瞬間、耳の奥で聞こえていた呻き声が、ピタリと止まりました。
音が消えたのではありません。
トンネルの反響音も、エンジン音も、タイヤの走行音もあるのに、その男の存在だけが、音の層から切り離されたように感じられたのです。
無音の中心に、男がいる。
その違和感に耐えきれず、彼女は視線を前に戻しました。
すると、ほんの一瞬、ヘッドライトが通り過ぎる際に見えた気がしたそうです。
男の足元。
正座しているはずの膝の下から、微かに――地面に触れていない隙間があったことを。
(ここで停まったら、絶対にダメだ!)。
理由は分かりません。
ただ、その確信だけがありました。
彼女はスピードを落とさず、アクセルを一定に保ち、呻き声が最大になった瞬間をやり過ごしました。
トンネルを抜けた途端、声は消えました。
しかし、その夜、自宅で車のキーを置いた時、ふと気づいたそうです。
キーの金属部分に、薄く赤黒い汚れがついていました。
泥かもしれません。
サビかもしれません。
だが、彼女には、その色は、どこか〝あの瞳の無い男〟の血のように見えたそうです。
智子さんは、今でも言います。
「体調が悪い時ほど、向こうは近いんです」
ただし、あのトンネルの件だけは‶少し違う〟と。
「あの時は……体調、悪くなかったんです」
それ以来、彼女は‶あの道〟を通っていないそうです。
……この話を聞いた時、私は正直、いくつかの合理的な可能性を考えました。
体調不良による知覚の揺らぎ、トンネル内の光の錯覚、音の反響による幻聴。
説明しようと思えば、いくらでも説明はつくのかもしれません。
しかし、どうしても引っかかっている点が一つあります。
智子さんは、これまで見てきた存在についてはどこか冷静で、距離を保った語り方をしてました。
「また来た……ああ、今日は‶近い〟な」
そういった、ある種の〝慣れ〟が感じられたのです。
しかし、あのトンネルの男の話だけは違いました。
この話をしている最中、彼女は一度も私の目を見ませんでした。
そして最後に、ボソッとこう言ったのです。
「今まで私が見たのは、〝あちら側〟のモノたちでした。でも、あれは、あの瞳のない男は……」
その続きを、彼女は言いませんでした。
私は、それ以上は踏み込むことが出来ませんでした。
もしも、あのトンネルの男が幽霊ではないとしたら、何なのでしょうか?
そして、もし幽霊だったとしても、なぜ、あの男は正座していたのでしょうか?
謝罪でしょうか?
懺悔でしょうか?
そして何より、その男は、どうしてトンネルの中にいたのでしょうか?
この話を聞いて以来、私は、長いトンネルに入る時は、ルームミラーを極力見ないようにしています。




