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第98談 嵐の夜のブティック店

 今回は、岡田加代子さん(仮名50代)の体験談をご紹介いたします。


 彼女は二十代前半の頃、伯母さんが経営していた小さなブティックでアルバイトをしていました。商店街の外れにあるその店は、派手ではありませんが、落ち着いた品揃えで常連のお客様に支えられていたそうです。


 その日、朝から台風の影響で空が低く垂れ込めていました。開店直後から、店内には雨粒の音だけが響き、客足はほとんどありません。


 ――違和感は、昼過ぎに前触れもなくやってきたのです。


 自動ドアの前を誰かが横切ったような気がして、岡田さんは顔を上げました。ですが、チャイムは鳴らず、ガラス越しには濡れた歩道が揺れているだけでした。


 気のせいだと思い、彼女はレジ周りの整理を続けました。


 夕方になる頃には、湿った空気が店内にジワリと溜まり、布地特有の甘い匂いに混じって、どこか生乾きのような気配が漂い始めていたそうです。


 閉店十五分前。


 「今日は早めに終わろうかな」と思いながら、在庫チェックをしていた時でした。


 背後に、誰かの立つ気配を感じたのです。


 振り返ると、そこには和田さん(仮名 女性)がいました。


 近所では有名な地主の娘で、たびたび高額な買い物をしてくれるお得意様です。けれど、その日の彼女はいつもと様子が違っていました。


 髪は雨に濡れ、肩から滴が床に落ちていました。


 青白い顔色で、視線は岡田さんを通り越したどこか遠くを見ているようでした。


 「和田様、いらっしゃいませ。こんな天候の中、ありがとうございます」


 そう声をかけても、返事はありません。


 彼女はゆっくりと近くのラックに手を伸ばし、服を何枚か乱雑に掴み取ると、それを差し出しました。濡れた布が擦れる音だけが、やけに大きく聞こえたそうです。


 「こちらでよろしいですか?」


 返答はなく、ただ、濡れた袖口から冷たい水滴が落ち続けていました。


 岡田さんは違和感を覚えながらも、接客を続けました。


 「そんなに濡れたままですと風邪を引かれますよ。タオルをお持ちしますね」


 事務所に下がり、棚からタオルを取り出した時でした。


 外で風がうなり、シャッターが微かに揺れました。


 その瞬間、和田さんが入店したにも関わらず店内のチャイムが――鳴っていないことを、彼女は気が付いたそうです。


 店内へ戻ると、彼女の姿はありませんでした。


 ラックの服だけが少し乱れており、床には薄く水の跡が残っていました。


 しかし、自動ドアは閉じたまま。チャイムも鳴っていません。


 「いつの間に帰られたんだろう……」


 そう呟いた声が、妙に乾いて聞こえたといいます。


 店内には、雨と布の匂いに混じって、ほんの僅かに汗のような生臭さが漂っていました。


 背筋に冷たいものを感じた岡田さんは、急いで閉店作業を終え、その日は早々に店を出ました。


 翌朝。伯母さんから電話がかかってきました。


 「加代ちゃん聞いた?和田様が、昨日、交通事故で亡くなったんだって」


 伯母の話によると、和田さんは、わき見運転をしていたトラックに撥ねられたそうです。


 しかも、亡くなった時間は――岡田さんが店で和田さんを見た頃より、ずっと前だったといいます。


 電話口の声が遠くなり、彼女はしばらく何も考えられなかったそうです。


 そして一週間後。


 伯母さんが、困った顔で話しかけてきました。


 「最近ね、あの辺りの服を買ったお客様から、変なクレームが来てるの。汗臭いって」


 指差された場所は、あの日、和田さんが立っていた売り場でした。


 持ち込まれた洋服を嗅ぐと、確かに湿った体温のような匂いが残っていたそうです。


 洗っても完全には消えない、不思議な臭いだったといいます。


 岡田さんは、思わず言いました。


 「もしかして、あの夜の和田様が触ったからじゃないですか?」


 伯母さんは何も言わず、売り場を見つめたまま黙り込んでしまいました。


 あの日、台風の夜に現れたあの人は、本当に和田さんだったのでしょうか?


 交通事故で亡くなった彼女の現世に対する強い未練が、雨に濡れた姿で店に立っていたのでしょうか?


 今でも岡田さんは、閉店前の静かな店内で、チャイムが鳴らなかった理由を説明できないままなのだそうです。


 そして、あの売り場に新しい服を並べ替える時だけは、なぜか背後に視線を感じる気がすると、静かに語ってくれました。


 このお話を初めて聞いた時、私は「和田さんらしき幽霊を見た」という部分よりも、後日になって騒がれた〝匂い〟の方に強い怖さを感じました。


 人は錯覚を起こしますし、疲れている時には見間違いもあるでしょう。


 ですが、第三者である複数のお客様が、同じ〝匂い〟という違和感を覚えたという事実は、単なる思い込みだけでは説明しきれないように思えます。


 特に印象的なのは、和田さんが言葉を発しなかった点です。まるで買い物をしに来たのではなく、いつも通っていた場所に、ただ立ち寄っただけのようにも感じられます。


 雨に濡れた姿、鳴らなかったチャイム、そして、後日、売り物から漂う匂い。


 それらを全て「偶然」で片付けることもできるかもしれません。


 しかし、もし人の強い想いが形を持つ瞬間があるのだとしたら、あの夜、岡田さんの店に現れた和田さんらしき存在は、決して悪意あるものではなく、現世を去る前に、安心出来ていた場所へ戻ってきただけだったのではないでしょうか?


 悪天候で、人気のない閉店間際の静かな店内には、時として〝生者ではない、もう一つの存在〟が、ひっそりと立っているかもしれないということです。

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