第97談 某公民館で起きたファンミーティングの怪異談
SNS経由で私に話を送ってくれた佐倉綾乃(仮名20代)の体験談です。
彼女は、ごく普通の会社員でした。
平日は仕事に追われ、夜はスマートフォンで推しの俳優の情報を追う。
それだけの、どこにでもある日常。
そんな日々の中で、彼女にとって唯一の〝非日常〟が、某劇団に所属する推し俳優・鷹宮 恒一(仮名20代)さんの存在でした。
ある夜、帰宅途中の電車内で、彼のインスタグラムのアカウントにイベントの告知が投稿されてました。
『鷹宮 恒一ファンミーティング開催のお知らせ』
その瞬間、仕事の疲れも、満員電車の息苦しさも、全てが薄れていったそうです。
(鷹宮君と直接話せて、同じ空間で、同じ時間を過ごせる!?)
それは、彼女の日常の延長線上にある細やかな夢でした。
当日、会場となったのは都内の某公民館。
外観は古く、壁の塗装はところどころ剥げ、入口付近には、どこか湿ったような木の葉のような匂いが漂っていました。
それでも会場の室内は明るく、参加者のほとんどは女性。
談笑する声、バッグの擦れる音、椅子が床を引きずる乾いた音。
どれも、ごく普通のイベント風景です。
鷹宮さんは、噂通り気さくな人で、よく笑い、よく話しました。
綾乃さんは、自分の心臓の鼓動が早まっているのを、少し誇らしく感じていたといいます。
ファンミーティングが始まって、約一時間。
室内の空気が少しだけ緩み、(この時間がずっと続けばいいのに)そんな考えが、誰の心にも浮かび始めた頃でした。
「すいませーん! 遅くなりました!」
扉が開く音は、思いのほか大きく、その声は場違いなほど明るく響きました。
入ってきたのは、30代前半くらいの男性――黒川 一人(仮名)さんです。
最初に感じたのは、視覚的な違和感でした。
Tシャツの右肩を濡らす、不自然な〝赤い〟染み。
次に、時間の違和感。
誰も悲鳴を上げない。
誰も固まってかのように声を出せない。
そして、彼が通り過ぎた瞬間、嗅覚が現実を否定しました。
生暖かく、鉄臭い、喉の奥を刺激する――紛れもない「血の匂い」でした。
(あ、あ、あ!これ、本物だ)
その認識が、ゆっくりと恐怖に変わっていきます。
背筋を冷たいものが這い上がり、指先が痺れ、綾乃さんは自分の呼吸音がやけに大きく聞こえたそうです。
それでも黒川さんは、まるで何事もないかのように、血まみれのまま鷹宮さんの隣に座りました。
笑顔。
穏やかな声。
流血していることに触れないどころか、自分が〝流血してることに全く気がついていない〟態度でした。
その違和感が、参加者たちの心を静かに削っていきます。
数分後。黒川さんは突然Tシャツを脱ぎました。
「暑いですねー」
その言葉と同時に、空気の温度が一段階、下がったように感じたそうです。
露わになった右肩には、刃物で抉られたような深い裂傷。
血はまだ滲み、床に落ちる気配すらありました。
それなのに、彼は痛がる様子も、焦る様子も見せない。
ハンカチで体を拭く、布が肌を擦る湿った音。
その音だけが、やけに鮮明に残っていたといいます。
やがて、一人の女性が耐えきれず嘔吐しました。
胃液の酸っぱい匂いが、血の匂いと混じり、室内は言葉にできない空気に包まれます。
鷹宮さんは、終始冷静でした。
「……本日はここまでにしましょう。体調を崩された方もいらっしゃいますので」
その言葉に、黒川さんは笑って頷きます。
「あ、そうなの? じゃあ、また今度」
その「また」が、なぜか現実味を帯びて聞こえなかったと、綾乃さんは言います。
去り際、
「あの……。病院に寄った方がいいですよ」
という鷹宮さんの声にも、黒川さんは応えませんでした。
彼が出て行った後、誰かが時計を見ました。
黒川さんが入室してから、ほんの十数分しか経っていなかったそうです。
けれど、全員が「もっと長かった」と感じていました。
会場を出た後、綾乃さんは気づきます。
自身の服に、血はついていない。靴底も、濡れていない。
それなのに、帰宅後。何度洗っても、鼻の奥に、あの鉄臭さが残っていたといいます。
後日。彼女は公民館に問い合わせました。
「当日、救急車は来ましたか?」
職員からは「そのような記録はありません」という答えでした。
後日。別のファンから聞いた話によれば、黒川一人という名前は、参加者名簿には最初から書かれていなかったそうです。
――本当に、彼は〝途中参加〟だったのでしょうか?
それとも、あの場に集まった〝熱〟に引き寄せられただけの別の〝何か〟だったのでしょうか?
今でも綾乃さんは、人混みの中で、ふと、血の匂いがするような気がして、周囲を見回してしまうそうです。
「すいませーん、遅くなりました」
そう言う黒川さんの声が、背後から聞こえてこないかを――。
この話を聞いた時、私はまず「現実的な説明」を探そうとしました。
例えば、事件や事故に巻き込まれた直後で、ショック状態に陥っていた可能性。
アドレナリンの過剰分泌によって、痛みや恐怖を感じにくくなっていた――医学的には、決してあり得ない話ではありません。
しかし、それでも説明がつかない点が、いくつも残ります。
まず、彼が流していた血の量です。
肩口に刃物で斬られたような傷。
常人であれば、ふらつきや意識障害が出ても不思議ではない状態にもかかわらず、彼は終始、理路整然と会話をし、感情の揺らぎすら見せなかったといいます。
次に、時間感覚のズレ。
参加者全員が「長い時間、あの場にいた」と感じていたのに、実際には十数分しか経過していなかったという点です。
強い恐怖体験の影響とも考えられますが、それにしては全員の感覚が、あまりにも一致しすぎています。
そして、決定的なのは――彼の痕跡が、ほとんど残っていないことです。
名簿に名前がない。
救急の記録もない。
床にも、服にも、確かな血痕が残っていない。
それでも、複数人が同時に
「血の匂いを嗅いだ」
「傷を見た」
「同じ光景を目撃した」
という点は、単なる錯覚や集団幻覚として片づけるには、あまりにも生々しいと感じます。
個人的に、私が最も気になっているのは、彼が〝遅れて入ってきた〟という点です。
最初から、そこにいたわけではない。
途中から、当然のように席に着き、誰一人として、はっきりと「あなたは誰ですか」と問いたださなかった。
まるで、「そこにいることが前提の存在」であったかのように。
ファンの熱気。
憧れや執着、強い感情が集まる場所。
そうした空間は、時に人ならざるものを『呼び寄せてしまう隙間』を作るのではないでしょうか?
彼は「単なる怪我をした感覚が異常な人」だったのか?
それとも、誰にも気づかれずに紛れ込み、異変を残して去っていっただけの〝何か別の存在〟だったのか?
もし、鷹宮さんがあの場で会を終わらせていなければ、もし、誰かが彼を強く刺激していたら――
そう考えると、この話は「何も起こらなかった怪談」ではなく、「何も起こらずに済んだ怪談」だったのかもしれません。
日常の中に、ほんの少しだけ混じる違和感。
それに気づいた時、私たちは本当に、無事に〝こちら側〟へ戻って来られるのでしょうか?




