第94談 ダンスリズムが、ズレた夜の怪異
先日、私の古い友人(男性)から久々に連絡が来ました。
それは、自分の娘が最近心霊現象に遭遇したので、この作品で紹介してもらいたいという内容でした。
2つ返事でOKを出した私は、近所のファミレスで友人同席の元、娘さんである八原真美子さん(仮名20代)を取材しました。
開口一番の一言が、妙に残っています。
「夜の鏡って……本当に‶ずれる〟んですよ」
彼女はそう言って、小さく笑いました。
しかし、その笑みの奥には、どこか目を合わせようとしない気配があったのです。まるで、“何か”を置き去りにしてきた人の表情のようにも見えました。
八原さんは、大学を卒業した春から地元のストリートダンススクールに通い始めたそうです。
駅前の雑居ビルの五階。外壁のネオンがガラス窓に反射し、夜になるとその部屋だけが水槽のように浮かび上がる。
HIPHOP、LOCK、JAZZといったクラスが並び、リズムと笑い声が絶えない。床からは僅かにワックスの匂いがし、汗と香水が混ざった甘い空気が満ちていました。
廊下の蛍光灯は、所々チカチカと瞬き、夜になると、なぜか時間がゆっくり流れているような錯覚すら覚えたといいます。
そんな明るい空間にも、ひとつだけ妙な噂がありました。
「夜に一人で残って練習してると……鏡に‶もう一人の自分〟が映るらしい」
大半の人間は冗談めかして話すが、その話題になると、なぜか視線をそらす人もいました。
八原さんも最初は信じていませんでした。――あの夜までは。
その夜は、夏の終わりの蒸し暑い日でした。
LOCKクラスのレッスンが終わり、先生が「残って練習してっていいよ」と声をかけたため、数人が残って自主練をすることになりました。
外からは駅前のアナウンスや居酒屋の暖簾を揺らす音が微かに聞こえ、ビルの中は静かでした。
21時半を過ぎた頃、仲間たちは更衣室へ。フロアに残ったのは、八原さん一人だったそうです。
鏡張りのスタジオに蛍光灯の光が反射し、床には長い光の帯が伸びている。
音源はローファイ・ヒップホップ。BPM90前後のゆったりとしたリズム。
八原さんは基本のアップ――首、肩、胸を順に動かす8ビートの練習を始めました。
最初の違和感は小さかった。視界の端に、誰かの肩が動いた気がしました。
振り返ると、当然、誰もいません。更衣室からは水音がかすかに響いているだけでした。
「怖い、というより……目が離せなくなったんです」
八原さんは、当時を思い返しながら、喉を鳴らした。
息が浅くなり、喉だけが砂漠のように乾いていく。冷房の風が首筋をかすめるたび、見えないナイフを突き当てられてるような感触がして、寒気を感じました。
鏡の前には自分しかいないはずなのに――鏡の奥に、もう一つの呼吸と視線が潜んでいるような感覚が、肌の裏側にジワリと染み込んでいきました。
その時、音源の低音が、フッと消えたのです。
空気が水で満たされたように、ピタリと静止し、スピーカーから〝バチンッ!〟と乾いた破裂音が響きました。鼓膜が内側から叩かれたような衝撃だったといいます。
音が消えたと認識した瞬間、外の世界が一枚、膜の向こうへ遠ざかってしまったような感覚に襲われました。
駅前の喧騒も車の音も消え、耳鳴りだけが〝シーン……〟と体の奥で響いています。
そして――
鏡の中の〝もう一人〟が、ほんの僅かに首を傾げたのです!
現実の彼女は、一歩も動いていません。
だが、鏡の中の彼女だけが別の拍に合わせるように、滑らかに、ゆっくりと傾いていく。
その動きは人間の反応ではなく、呼吸や鼓動のリズムそのものがずれていくような不気味さがあった。
時間にすると僅か数秒程度の出来事でしたが、決して見間違いではないと、彼女は語ってくれました。
恐る恐る振り返りましたが、当然誰もいません。
天井近くの送風口が、〝カタ……カタ……〟と鳴り、まるで〝何か〟がリズムを刻んでいるように聞こえたそうです。
八原さんは、咄嗟に震える足で床をドンと踏み鳴らしました。
音がスタジオ全体に異様なほど響き渡り、すぐに吸い込まれるように消えました。
……その吸い込まれる感じが、どうしようもなく不自然に思えたそうです。
まるで、音と鏡の向こう側で〝誰か〟が待っている――。
そんな確信にも似た感覚が、冷たい指で心臓を掴むように八原さんを縛りつけたのです。
恐怖と混乱のまま更衣室に駆け込むと、ちょうどインストラクターの先生が、鍵を閉めようとしていました。
生乾きのタオルの湿った匂いが鼻をつく中、八原さんが震える声で状況を話すと、先生は一瞬だけ目を伏せ、深くため息をついたといいます。
「昔から、夜になると……たまにあるんですよ」
そう言って、先生はしばらく黙り込みました。金属の鍵が回る音が乾いた響きを立て、更衣室に不自然な間が落ちます。
「このスタジオが開店して間もない頃に、若いダンサーが一人、夜中まで練習してましてね」
先生の声は淡々としていながら、語尾が消えるように弱々しかったそうです。
「その子、ある夜、鏡の前で急に動かなくなったんです。呼んでも叩いても、ずっと鏡を見つめたまま。身体が小刻みに揺れて……まるで、鏡の中の自分の動きに合わせてるみたいだったんです」
先生は、無意識に自分の肩を一度上げて下ろしました。
「一緒にいた仲間が言ってたんです。あの子、ずっと小声で『ズレてる……ズレてる……』って、繰り返してたって」
更衣室の空調がふと止まり、空気がピタリと張り詰めます。
「その子は、そのまま倒れてしまったんです。仲間が慌てて近寄った時には、もう息をしてませんでした……」
そこまで話すと、先生は急に話を打ち切るように、鍵束をポケットに押し込み、足早に去っていきました。
その夜を境に、八原さんは一人での夜練習を止めたそうです。
今でも、彼女の通う夜のスクールでは、鏡の真正面には立たないという暗黙のールがあります。
それを知らずに中央でアップを始めた新入りには、必ず誰かが、こう声をかけます。
「その場所には、夜……あんまり立たない方がいいよ」
取材を終えて外に出た時、ビルのガラス窓に自分の姿が映りました。
私は、何気なく肩を動かして、ガラス窓の中の自分との〝タイミング〟を確認していた。
一拍、遅れていないだろうか?ズレていないだろうか?
そんなことを気にする自分に、思わず苦笑いしたが、その笑いは妙に乾いていた気がします。
日常を狂わせてしまう、ほんの僅かな〝ズレ〟は、確かに存在すると思います。
そして、それに気づいてしまった人だけが――もう元の世界のリズムには、戻れないのかもしれません。




