第93談 線香の匂いに気づいた時は、もう手遅れなんです
これは、霊感体質で不動産会社に勤めてる智子さん(仮名30代)の体験談の1つです。
私と彼女の知り合った経緯は「第62談 買い手を選ぶ物件」をご参照ください。
彼女には子どもの頃からある〝奇妙な力〟がありました。
それは、「人が亡くなる一週間前に、どこからともなく‶線香の匂い〟を感じる」というものです。
最初にその能力を自覚したのは、小学生の時でした。
――夏休みの、湿気をたっぷり含んだある夕方のこと。
「伯母さんの容態が良くないらしいわよ」
母に言われ、彼女は家族と一緒に病院へ向かいました。白い壁と消毒液のにおいに包まれた病室。
薄暗い照明は、まるでそこに横たわる患者の命の灯を映しているように、僅かにちらついていました。
ベッドに横たわる伯母は、今にも消え入りそうな息遣いで、目を閉じていました。
智子さんは、その姿を見て、言葉にもならない胸のざわつきを覚えたといいます。
(伯母さんは、きっともう長くはない。もう少しで死んじゃうんだ)
子供ながらに、そう直感したと彼女は語りました。
数日後の夜。ふと、鼻を刺激する匂いに目を覚ましました。
まるで墓地の前を通り過ぎた時のような、乾いた線香の匂いです。
時計を見ると、まだ深夜2時過ぎ。自室は暗く、カーテンの隙間からは月明かりが、僅かに差し込んでいました。
(誰か……線香、焚いてる?)
布団から起き上がり、暗闇の中で匂いのする方向へ嗅覚を研ぎ澄ませました。
けれども、部屋の中には線香どころか火の気さえ見当たりません。
窓を開けても、隣家の庭先から焚き火の匂いがする気配もない。
なのに、確かに線香の匂いは、そこに「在る」のです。
――どこかで見えない誰かが、線香を焚いている。そんな錯覚を覚え、背筋がジットリと汗ばむのを感じたそうです。
翌朝、智子さんは母に話しました。「昨夜、線香の匂いがして……」けれど、母は笑って言いました。
「気のせいじゃないの?そんなもの家に無いわよ」
そう言われた直後、智子さん自身も、線香の気配を全く感じなくなっていました。
幻嗅――ただの夢だったのかもしれないと思うことにしたそうです。
しかし、その〝違和感〟は、翌晩も、そしてその翌晩も続きました。
ベッドに入ると、ふいに漂ってくる線香の匂い。暗い部屋で、鼻腔だけを侵すように漂う煙の気配。彼女は次第に、匂いの出どころを探そうとする気力すらなくなり、布団をかぶって震えるように夜を過ごしたといいます。
それが、ちょうど7日間続きました。
そして――その7日目の朝。線香の匂いは嘘のように消えていました。智子さんは、曇りのない空気を吸い込み、安らぎを取り戻します。
(今日は、いい朝になりそうだわ)
彼女が、そう思った直後です。
「智子!今日は学校休んでちょうだい!」
突然、母が血相を変えて部屋に飛び込んできました。
「伯母さんが……さっき亡くなったの」
母の言葉を聞いた瞬間、智子さんの体は凍り付きました。
(やっぱり。……あの線香の匂いは、伯母さんが死ぬのを知らせる匂いだったんだ……)
そう確信したというのです。
それ以来、彼女は自分に備わった〝予兆〟を意識するようになりました。
数年後。中学生になった彼女は、再びその能力を思い知らされることになります。
今度は、祖父が入院しました。
医師からは言いました。
「もう、いつ亡くなってもおかしくない状態です」と。
その晩、久方ぶりに線香の匂いが蘇りました。
前回よりも強く、より重たい、湿った感じのする匂いだったそうです。
しかし智子さんはその話を誰にもせず、ひたすら(無かったこと)にしようとしたと思ったそうです。
ただ、その時は、伯母とは違う『もう一つの違和感』がありました。
――そこには、線香に混じって、湿った木材や死臭のような匂いも、微かに残っていたのです。
それが何を意味するのか、智子さんには分かる術はありません。
そしてちょうど7日目。祖父は息を引き取りました。
この不思議な体験を、智子さんはずっと胸の内に秘めていたそうです。
ですが、ある日、ふとした会話の中で、知人の中年の男性知人に話したことがありました。
「智子さん。実は、俺にも、似たようなことがあるんだよ」
彼は、意外そうな顔をして、彼女に打ち明けたそうです。
ここまで話した智子さんは、私に言いました。
「その後も、たまにあるんです。私が会ったことがある人が亡くなる前、数日間から一週間ほど毎晩〝匂い〟が知らせてくれるんです。それがいつなのか……誰の死を教えてくれようとしているのかまでは、分かりませんけれど」
――智子さんの周囲に、次に漂うのは、いったい誰の匂いなのか?
さて、この話を私が初めて聞いた時、何よりも不気味だったのは(彼女が本当に嗅いだのは線香の匂いなのか?)という点でした。
線香といえば死者を弔うために焚かれるもの。
しかし、その象徴的な香りが、焚かれてもいない場所に漂い込んでくるという怪異。
それを予兆とするならば、ある意味、死の使者よりも静かで淡々とした〝お知らせ〟……あるいは、〝魂そのもの〟の匂いだったのかもしれません。
彼女は、最後にこうも言いました。
「私、今はこの匂いを無視するようにしているんです。だって、知ってしまったところで、何も変えられないじゃないですか」
確かに、彼女の能力は残酷なことに予知であって、予防ではありません。分かっていても黙っているしかできない。どれほど無力感に苛まれることでしょう。
この話を聞いてから、1週間ほど、私は帰宅する度に自分の部屋の匂いを嗅いでいました。
もちろん、何も匂わないはずなのに、妙に意識してしまうのです。
さて、アナタの部屋は、どうでしょうか?
もしも、今この瞬間、どこからともなく煙の匂いがしたなら……。
どうか、それが「誰に向けられた予兆なのか」を、確かめないまま、眠りにつけることを祈ります。




