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第89談 我が名は斎藤道三ぞ!

 私は、今まで色んな方々を取材したり、時にはSNSに体験談が寄せられることがありますが、今回の体験談は、非常に心に残るものとなりました。


 今回は、園部麻里子さん(仮名・年齢非公開)から寄せられたお話となります。


 以前の体験談については「第53談 とあるアパートの怪異談」をご参照ください。


 体験談が届いた日の夜。窓の外は滝のような大雨でした。時折り稲光が走っており、今にして思えば恐怖の前兆だったのかもしれません。


 「これは、私の夫がまだ生きていたころの話です」


 園部さんのメールの冒頭には、そう記されておりました。


 その夜、夫婦はいつも通り早めに寝たそうです。


 夏の終わりで、虫の声とエアコンの微かな風音が部屋に溶け込むように響く、平凡な夜でした。


 しかし、ふとした違和感があったと彼女は言いました。


 寝室の空気が、どこか重かったのだそうです。


 湿気とは違う、説明のつかない圧のようなものを感じた……。まるで目に見えない鉛の塊を押しつけられているようにも感じられたといいます。


 「でも、気にしないことにしたんです。疲れているだけだと思って」


 違和感の段階では、人は大体そう考えます。


 だが、この『気にしなかった』という判断が、この夜の恐怖をさらに際立たせることになりました。


 午前二時を過ぎたころ、旦那様が突然、布団を蹴飛ばすようにして飛び起きたといいます。


 「我が名は……斎藤道三ぞ!そなたを切る!」


 彼の叫びは、いつもの聞き慣れた声のはずなのに、どこか見知らぬ他人のような響きを帯びていたそうです。


 彼女は一瞬、耳鳴りがしたかと思ったと語りました。


 暗闇の中、旦那様の腕が空を斬るようにブンブンと振り回され、その風切り音と布団をこする音が部屋に鋭く響いたのです。


 「その時に妙な臭いがしたんです。……刀から立ち込める鉄みたいな」


 もちろん部屋に、そんなものはありません。


 けれど、園部さんには、確かにその〝匂い〟が鼻についたそうです。


 彼女は恐怖で体が動かず、喉がひきつるような息しか出来ませんでした。


 勇気を振り絞って明かりをつけた瞬間、旦那様はピタリと止まりました。


 「……俺、何してた?」


 その声と様子は、いつもの旦那様でした。


 翌朝、園部さんが昨夜の出来事を話しても、彼は何一つ覚えていませんでした。


 ただ、その日を境に、旦那様の行動は少しずつおかしくなっていきました。


 理由なく立ち尽くして一点を見つめたり、誰もいない廊下に向かって「誰だ」と叫んだりしました。


 最初は疲れかストレスだと考えたものの、次第に異変は目に見えて増していきました。


 「誰かが俺を見ている。お前も気をつけろ。後ろにいるぞ」


 旦那様の声は落ち着かず、まるで何かに追われているようでした。


 夜中に物音がしたと思えば、食器棚が倒れていたり、テレビの画面にヒビが入っていたり。


 「最初は夫が物に当たっていると疑いました。でも……何者かが〝壊している〟気配がしたんです」


 園部さんのメールには、そう記されておりました。


 彼は次第に暴れ出し、家の中のものを破壊するようになり、ついに窓ガラスまで割ってしまいました。


 固定電話も携帯電話も壊されたため、彼女は裸足のまま外に飛び出し、近所の家に助けを求めたと言います。


 その夜、旦那様は警察に保護され、精神病院へと運ばれました。


 数ヶ月の入院の後、彼は退院しました。


 しかし、その顔からは何か大事なものが抜け落ちたようでした。


 「眠れない。何かがいるんだ」


 そう言って、処方された睡眠導入剤を多めに飲んでしまい、そのまま自転車に乗って外へ出ていったそうです。


 朝方、警察から「ご主人が道路脇の田んぼで倒れていました」と連絡がありました。


 頸髄を損傷し、旦那様はそのまま亡くなっていたのです。


 ……そこまで読み終えた私は、色々考えました。


 どうして、斎藤道三という名を旦那様が叫んだのか?


 旦那様は、なぜ別人のように乱暴な行為を繰り返すようになったのか?


 これら一連の行為は、常識的な視点で捉えれば、全て精神疾患として片付けることはできます。


 しかし、本当にそうでしょうか?


 園部さんのメールの最後は、こう書かれていました。


「時々、夢に出てくるんです。笑顔の夫が、あの夜の声で『そなたを切る』って言うんです。でも、夢の中の彼の声は……凄く優しいんです」


 それを読んだ瞬間、私の首から下の全身が氷の塊になってしまったような寒気が走りました。


 園部さんの出来事は、医学的にも心理学的にも説明できる余地があります。


 しかし、私はメールを読み終えて雨に濡れた窓を眺めながら、ある疑問がどうしても頭から離れませんでした。


 上記でも書いたように、『なぜ、旦那様は「斎藤道三」という名前を叫んだのか?』ということです。


 歴史上の人物の名を突発的に叫ぶという現象自体は、稀に報告があります。


 夢、記憶の断片、無意識に触れたテレビ番組など、理由を挙げることはできます。


 しかし、園部さんの話の中には、単なる偶然と片付けるには、どこか〝筋〟が通り過ぎている感覚がありました。


 私は数年前、雑誌の仕事である僧侶を取材した際「魂には〝癖〟がある」という話を聞いたことがあります。


 それは性格でも記憶でもなく、もっと曖昧で形のない〝傾向〟のようなものだと言われました。


 輪廻転生するとき、魂はその〝癖〟を完全には捨てきれず、別の肉体で生まれ変わっても、ふとした瞬間に姿を現す……という説です。


 もちろん、科学では証明できません。


 しかし、今回の体験談で思い返された僧侶の言葉は、妙に腑に落ちるところがありました。


 もしも、園部さんの旦那様の魂が、ほんの一瞬だけ、過去の〝癖〟のようなものに触れたのだとしたら――


 あの夜の叫びは、偶然の産物ではなく、どこか別の時代を生きた片鱗だったのかもしれません。


 むしろ、本人が覚えていないという点も、その仮説と矛盾しません。


 魂の奥にあるものが表に出た後、「肉体の自我がその痕跡を上書きしてしまった」と考えることもできます。


 私は、輪廻転生を断言も否定もできません。


 ただ、今回の体験談をお聞きして、ひとつだけ強く思ったことがあります。


 人は誰も、現在の自分だけで成り立っているわけではないのかもしれない。


 そう考えると、園部さんの旦那様が夢に現れ、「そなたを切る」と優しい声で言ったという話も、どこか象徴的に思えてきます。


 恐怖ではなく、別れの挨拶のように。


 まるで前世の斎藤道三の人格と、今生の旦那様の魂が、最後にそっと重なったかのように。


 この世とあの世の境界、そして時間の流れすらも、人の生では案外ゆるやかに繋がっているのかもしれません。


 そんなことを考えた瞬間、窓の外には再び稲光が走りました。

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