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第87談 自転車のカゴに咲く恐怖の薔薇

 私が、三年ほど前に招待された異業種交流会で聞いた話を紹介します。


 会場である都内某ホテルのパーティールーム内で、談笑と名刺交換が飛び交う中、ふと私の右隣から声がかかりました。


 「ねえ、噂に聞いたんですけど……ひらやまさんって、怖い話を集めているんですよね?」


 声の主は、柔らかな雰囲気を持つ女性——浅葉理子(仮名30代)さんでした。


 表情は明るいのに、その目だけが、どこか焦点の定まらないような印象を残していました。


 「ええ、そうです。何かお話をご存じなんですか?」


 「私の話じゃないんですけどね。前の職場にいた友達の佐竹希美(仮名 年齢非公開)ちゃんの話なんです」



 そう前置きして、浅葉さんは語り始めました。


 声に揺らぎはありませんでしたが、その奥に、まだ癒えきらない恐怖の影が滲んでいるように感じました。


 佐竹さんと浅葉さんは、五年前まで小さな商社で働いていました。


 従業員は二十名ほどで、経営は創業者一族が担っていたそうです。


 その中に、社長の甥にあたる常務取締役の男性がいました。


 望月啓介(仮名)さんといい、四十代前半で独身。


 身長は高いものの、肥満体形で、髪は湿ったようにボサボサ。


 蛍光灯に照らされる肩口には細かいフケが積もり、どことなく不潔な印象を与える方だったそうです。


 彼は勤務中にもかかわらず、佐竹さんや浅葉さんに頻繁に話しかけ、定時になると必ずと言っていいほど夕食の誘いをかけてきました。


 「佐竹さん、浅葉さん!よかったら三人でご飯でも行こうよ?」


 しかし、浅葉さんは、すでに恋人もいたため、はっきりと断り続けていました。


 一方で佐竹さんは、穏やかで優しい性格だったのか、望月さんの誘いに何度か応じたそうです。


 その小さな「優しさ」が災いとなり、日常が少しずつ、軋み始めていたのかもしれません。


 数日後。


 佐竹さんが自宅近くの駐輪場に停めていた自転車を取りに行った時、違和感に気づきました。


 自転車のカゴの中に、一輪の真紅の薔薇が置かれていたのです。


 雨上がりだったため、花弁には細かな雨粒が光り、湿った空気とともに鉄のような匂いが漂ってきたといいます。


 「気持ち悪い……」


 そう呟きながら、その場で薔薇をゴミ箱に捨てたそうです。


 しかし翌日も、さらにその翌日も、同じようにカゴの中には真紅の薔薇が置かれていました。


 その頃から佐竹さんは、「誰かに見られているような視線」を感じ始めました。


 自転車を停めた時の足元がやけに湿っていたり、背後から小さな呼吸音がした気がしたり。


 浅葉さん視点からですが、その出来事を境に、明らかに望月さんの佐竹さんへの視線が増えているように感じたそうです。


 そして、決定的な異変が起きたのは、佐竹さんが生理になった日のことでした。


 いつものように仕事を終えて自転車のカゴを覗いた彼女は、息を飲み、その場から動けなくなったそうです。


 カゴの中には、薔薇ではなく、ひとつの生理用品が置かれていました。


 包装は新品でしたが、湿った紙袋に乱雑に押し込まれたような痕跡があったといいます。


 湿っぽい雨の臭いに混じって、妙に甘ったるいような不快な匂いが漂っていました。


 翌日、会社に出社した佐竹さんに、望月さんがニヤニヤと声をかけてきました。


 「佐竹さん、今日は体調大丈夫なの?女の子の日なんだから、あまり無理しちゃダメだよ」


 (なぜ、貴方が、そのことを知っているんですか?)と、問い詰める余裕もなく、その場で佐竹さんは激しい吐き気に襲われ、嘔吐してしまいました。


 翌日以降、彼女は恐怖のあまり出社できなくなってしまったのです。


 そのことを知った浅葉さんは怒りを抑えきれず、社長に望月さんのセクハラ行為について、直接抗議しました。


 彼女の話を聞いて激怒した社長は、他の社員たちの前にも関わらず、甥の望月さんを激しく怒鳴りつけ、降格を命じたたそうです。


 叔父からの怒声と降格処分に対して、彼は何も言い返せず、突然号泣し、そのまま会社を飛び出していきました。


 翌朝、社長から浅葉さんは呼び出されました。


 「昨夜、啓介の母親から連絡があったんだ。啓介は自室で首を吊って死んでいたそうだ……」


 学校を卒業して以来、叔父の会社で周りからチヤホヤされていて怒られたことのなかった望月さんは、プライドが異様に高かったそうです。


 そのためか、他の社員の前で怒られ、常務の座を剥奪されたというのが、余程の屈辱だったのか、自ら命を絶つという道を選択してしまいました。


 驚愕と困惑が入り混じる中で、浅葉さんは言葉を失ったといいます。


 そしてその後、佐竹さんも会社を辞めることになりました。


 けれど……恐怖は、それで終わりではありませんでした。


 新しい職場へ移った佐竹さんが、ある日の帰り、自転車のカゴを見た時、足が止まりました。


 そこには、見覚えのある真紅の薔薇一輪が、雨に濡れて横たわっていたそうです。


 「ウソ!?望月さんは死んだはず……なのに、どうして……?」


 佐竹さんは、その出来事以来、外出すらままならなくなり、引きこもり生活を余儀なくされたそうです。


 社会復帰までには、数年の時間を必要としたそうです。


 浅葉さんは語り終える直前、ポツリと呟きました。


 「これは、希美ちゃんから聞いた話なんですが、最初の頃は薔薇は萎れてたのに、最後に見た時だけ、何故か蕾が開きかけてたそうなんです……」


 その言葉を発した時の彼女の横顔は、どこか怯えているように見えました。


 私はその話を聞いた時、ふと(なぜ浅葉さんは、初対面の私にこの話を打ち明けたのだろうか?)と思いました。 


 ただ怖い話をしたかっただけではないような、どこかすがるような眼差しを感じたのです。 


 「誰かに知ってほしかったんです」


 と、彼女が別れ際に漏らした一言が、今でも忘れられません。 


 それはきっと、恐怖を語り継ぐことで、ようやく自分自身の中で区切りをつけられる——そんな祈りにも似たものだったのではないでしょうか? 


 そして、話を聞いた私の心にも、ある疑問がひっそりと巣食っています。 


 自転車のカゴの中の薔薇は。いったい誰が置いたのか? 


 亡くなった望月啓介さんが生前に仕込んでいた物だったのか? 


 それとも、彼の「執着」そのものが、常識では説明が出来ない形で動き続けていたのか?


 あるいは、彼以外の佐竹さんに異常な愛情を抱く〝何者〟かによる仕業だったのか……?

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