第86談 パワーストーンの夜に起きたこと
これは、色々な不思議な体験をされている知人であり女優の宮坂真理さんから聞かせてもらった話の一つです。
私と宮坂さんが出会った経緯については、第25談「トンネルの中で…」をご参照ください。
さて、突然ですが、人の家には、それぞれ独特の「夜の匂い」があるかと思います。
湿った木材の匂いだったり、柔軟剤の甘い香りだったり、家主が気づかない微かな生活の気配だったりと様々です。
〝あの夜〟に、宮坂真理さんの部屋で漂っていたのは、「仄かに温まった布団と猫の毛並みの匂いだった」と、彼女は言いました。
私は、この話を本人から直接うかがいましたが、冒頭のこの説明を聞いた瞬間、「ああ、この人は本当に見たのだ」と直感しました。
あくまで私の持論ですが、人は強烈な恐怖体験をすると、まず〝匂い〟の記憶を語るものです。
当時の彼女は、離婚を経験された後、心機一転、剣道を再開して四段に受かり、友人とフラダンスも始めていました。
年齢を重ねたからこそ分かる自分のペースを楽しんでいた時期で、誰が見ても充実した毎日だったと言います。
そんなある日、友人と半分遊びのつもりでネット通販の「パワーストーン」を購入しました。
『直感力が高まる』という触れ込みの石――白く滑らかな質感で、手に取りやすい大きさ。
箱を開けた瞬間、石から微かに冷たい空気が立ちのぼった気がして、「おっ」と思ったそうです。
けれど、その時はまだ、何の違和感もありませんでした。
ただ一つ、宮坂さんはポツリと付け加えました。
「そのパワーストーンを机に置いた瞬間、飼い猫がじっと石を見て動かないんですよ。いつもなら新しい物を見つけると、すぐ嗅ぎに来るんですよ。だけど、その時は何故か近寄ろうとしなかったんです」
今にして思えば、ここが最初の〝日常のほつれ〟だったのかもしれません。
その夜、宮坂さんはパワーストーンを枕の下へ滑り込ませ、照明を落としました。
布団に潜ると、石がヒンヤリと冷たく、首筋を撫でる風のように感じられたと言います。
眠りにつくまでは、ごく普通の夜だった——はずでした。
深夜。
ふっと意識が浮かび上がり、瞼の裏が淡く明るくなるような感覚で目が覚めました。
隣のリビングへ続く扉は、猫のために少しだけ開けてあり、隙間から黒い闇が覗いています。
静けさの中、時計の秒針の音だけが遠くに震えていました。
その扉を見つめた瞬間、宮坂さんは「あれ?」と思ったそうです。
そこに〝影〟があったのです。
猫ならもっと低いはずです。
けれど、そこにゆらりと立っていた影は、猫よりも高くて細い。
さらにボワッと白く光っているようにも見えました。
宮坂さんの眠気が一瞬で吹き飛びました。 やがて、扉の向こうから〝それ〟が姿を現しました。
ボブカットの外国人の少女。
年の頃は十歳前後。
その横には、小さな犬がいたのでした。 少女と犬からは、生者が持つ〝生〟の気配の類が全く感じられません。
ただ、闇の中から滑るように、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。
そして何より異様だったのは、少女も犬も、頭のてっぺんから足の先まで〝真っ白〟だったのです。
正確に言えば、白というよりも、〝色が抜けている〟。
影がなく、光がなく、存在の輪郭だけが白く塗りつぶされたような姿に見えたといいます。
だけど、宮坂さんは、はっきりと見ました。
「女の子は浮いてはいませんでした。ちゃんと、足があったんです。でも、その〝足音〟がしなかったんです」
少女は歩きながら、ずっと宮坂さんを見つめていました。
瞬きもせずに。
彼女が、どれほど見つめていたのか、宮坂さんには分かりません。
ただ、少女と犬はいつの間にか視界の端に消えていき、気配も途絶えました。
(見えなくなった……。よかった……)
宮坂さんが胸を撫でおろした、その直後!
布団の左側。
リビング側の暗がりから、何かが、にじり寄る音もなく近づいてくる気配がしました。
宮坂さんがそっと視線を向けた瞬間、あの少女が、顔の真横から覗き込んでいたのです!
両目を見開き、ひたすらに無表情で。
まるで、最初からそこにいたかのように。
少女の顔は異様なほど近く、吐息がかかる距離。
真っ白な髪が、フワリと宮坂さんの頬に触れ、ぞわりと鳥肌が立つ。
声を出そうとしても出ず、腕も指先も動かない。
(うっ……うっ……!)
喉が勝手に震え、胸の奥から低い呻きが漏れる。
金縛りの重さで肺が圧迫され、冷気が身体中に張り付いていく。
少女の瞳は、まるで底の見えない穴のように暗くて、その奥に微かに「何かが渦巻いていた」と宮坂さんは語りました。
どれほどそうしていたのでしょうか?
彼女の時間の感覚は完全に失われていました。
ふいに、金縛りの圧がふっと軽くなり、右手が動きました。
声も出るようになり、反射的に腕を振り払った瞬間、宮坂さんの手が少女の体を通り抜け、そのまま少女は霧のように消えました。
バッと空気が戻り、少女たちの出現と同時に消えてしまったかと思われた暗闇の中の音が一斉に蘇りました。
時計の秒針音、外の車の走行音、自分の荒い呼吸。
宮坂さんの全身は汗で濡れ、時計を見ると深夜二時を少し過ぎていたそうです。
翌日、友人にこの出来事を話すと、その知り合いの霊視ができる人がこう言ったといいます。
「その宮坂さんって人は、霊感強いでしょ?そういう人がパワーストーンを持つと、いろんなものを引き寄せちゃうのよ」
この話を友人から聞いた時、宮坂さんは全身に氷水を浴びせられたかのようにゾッとしました。
少女と犬に遭遇した夜、枕の下のパワーストーンは、ただ冷たいだけではなく、どこか〝ザラザラした違和感〟を返してきたような気がしていたからです。
以来、彼女はパワーストーン類には一切触れなくなったと言います。
そして別れ際に、宮坂さんはポツリとこんなことも付け足しました。
「あのね。その後もしばらく、家の猫が夜中になると、女の子たちがいた扉の周辺をジッと見つめてたんですよ。そこには、もう女の子も犬はいないはずなのに……」
宮坂さんの体験を聞き終えた後、私は長い間言葉を失っていました。
彼女は誰かを怖がらせようとして話しているわけではなく、 むしろ(思い出してしまうことを避けたい)ような表情をしていたからです。
私が特に印象的だったのは、【パワーストーンと、宮坂さんの前に現れた少女と犬の因果関係】でした。
彼女の談によれば、輪郭も目も表情も、あまりにも〝この世の人間らしく〟作られているのに、そこから一切の生気が感じられなかったという感覚だったそうです。
それは、通常の幽霊談に出てくる曖昧な影よりも、むしろ恐ろしさが鋭く、冷たい刃物のようにリアルに感じました。
また、猫の行動が〝最初の異変〟になっていた点は、動物特有の勘が働いたと考えれば非常に興味深いものがあります。
パワーストーンが本当に〝何かを引き寄せた〟のか? それとも彼女自身の直感が偶然にも〝何かを捉えやすい状態〟になっていただけなのか?
いずれにしても、この話から受けた不気味な余韻は、今でも消えることがありません。
語り終えた宮坂さんが、静かに息を吐きながら『あの夜だけは二度と思い出したくない』と呟いた表情が、なによりも強烈に記憶に残っているのです。




