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第83談 バカにされ続けていた犬

 人から伝え聞いた怪談の中には、最初から「怖い話」だと分かるものと、恐怖ではなくジワジワと別の感情に訴えかけてくる話があります。


 これからお伝えするのは、私の同世代の友人の祖父が体験した、後者の話です。 この話は、友人が生まれる前――昭和三十年代に遡ります。 友人の祖父、堂本重蔵(仮名)さんは、戦後間もない頃に小さな会社を立ち上げました。


 高度経済成長の波にも乗り、事業は順調に拡大。設立から十年も経たないうちに、郊外に立派な屋敷を構えるまでになったそうです。


 広い庭には噴水があり、水音が絶えず静かに響いていました。


 重蔵さんは無類の犬好きで、庭では四、五匹の犬がいつも走り回っていたといいます。


 朝夕には餌の金属皿が触れ合う乾いた音がして、犬たちの息遣いや爪が石畳を叩く音が、屋敷の日常の一部になっていました。


 その中に、一匹だけ少し様子の違う犬がいました。 お手も待ても出来ない。散歩に出れば、見ず知らずの人に噛みついたり、突然何かに怯えたように走り出したりと、家族は手を焼いたそうです。


 祖母や、当時まだ幼かった友人の母は、 「本当に物覚えの悪い犬だね」 と呆れ、半ば蔑むような意味を込めて、その犬を〝ガバ〟と呼びました。


 〝バカ〟という言葉を崩した名だったそうです。


 しかし、重蔵さんだけは違いました。 ガバが失敗をしても、吠えられても、噛みつかれても叱らない。 ただ静かに頭を撫で、同じ餌を与え、他の犬と同じように分け隔てなく接していたそうです。 ガバが五歳ほどになった頃のことです。


 重蔵さんは社長業の無理が祟ったのか、突然体調を崩し、入院することになりました。


 病院の消毒薬の匂い、白い壁に反射する蛍光灯の光。 診察の結果は、家族が想像していたよりも深刻でした。


 医師から祖母は、 「すぐに手術が必要です。最善は尽くしますが、万が一のことも考えてください」と告げられます。


 祖母は深く頷きながらも、家では気丈に振る舞い、子供たちには「すぐに帰ってくるから」と言い聞かせていました。


 そんなある朝のことです。 祖母が庭に餌を置くと、他の犬たちはいつも通り駆け寄ってきました。しかし、ガバだけが皿に口をつけません。 耳を伏せ、低く唸り、次の瞬間、祖母が今まで聞いたことのないような、腹の底から絞り出すような咆哮を上げました。


  湿った空気が震え、噴水の水音が一瞬だけ遠くなった気がした――祖母はそう振り返ったといいます。


 ガバは突然、家の中へと駆け込みました。 滑るような足音が廊下を突き抜け、一直線に重蔵さんの部屋へ入りました。


 そして、机の上に置かれていた重蔵さんと家族が写った写真立てを咥えると、そのまま家を飛び出していったのです。 祖母も後を追いましたが、ガバの姿は、朝靄の向こうに溶けるように消えてしまいました。


 それから二日後のことです。


 近所の神社の神主から、祖母に一本の電話が入りました。


 「奥さんのところの犬だと思うんだが、境内で一匹、死んでるんだよ」


 神社で祖母と幼い友人の母が見たのは、白目を剥き、口から泡を吹いたガバの亡骸でした。


 身体には、不思議なほど外傷がありません。 まるで、内側から何かを使い果たしたように、命が尽きていたように見えたといいます。


 そしてガバの口には、あの日咥えていった写真立てが、しっかりと挟まれたままでした。


 写真のガラスには、なぜか薄く曇ったような指の跡が残っていたと、祖母は後年、ぽつりと友人居漏らしています。


  数日後。重蔵さんの手術は無事に成功し、術後七日で退院しました。


 ガバが死んだ話を家族から聞いた重蔵さんは、しばらく庭に立ち尽くしたまま、声を出さずに泣いていたそうです。


 そして、ガバの墓の前で、こう語りかけたといいます。 「きっと、お前が身代わりになってくれたんだな。頭は悪かったかもしれんが、私への忠誠心だけは、誰よりも強かった。ありがとよ!ガバ」 その夜、庭の噴水の水音が、いつもより長く、低く響いていたそうです。


 ……この話を友人から聞いた時、私は正直(犬が身代わりになるなんて、出来すぎた話だ)と感じました。


 理屈で考えれば、偶然が重なっただけなのかもしれません。 けれど、どうしても腑に落ちない点が残ります。


  なぜガバは、あの日に限って餌を口にせず、なぜ重蔵さんの部屋へ向かい、なぜ家族の写真を咥えて、あの神社まで辿り着いたのか?


 頭が悪いと蔑まれ、名前にさえ侮蔑を込められた犬が、たった一人、分け隔てなく自分を愛してくれた飼い主のために、何かを選び取ったように見えてしまうのです。


 重蔵さんが言った「忠誠心だけは一番だった」という言葉は、後付けの美談ではなく、ガバという一匹の犬の生き方そのものだったのではないでしょうか?


 人は言葉で感謝や想いを伝えられます。 しかし、言葉を持たない動物が示す行動ほど、強く胸に残るものはないのかもしれません。


 ガバが、本当に身代わりになったのかどうかは分かりません。


 それでも、重蔵さんがその後の人生を「誰かに生かされた命」として大切に生きたのだとしたら、 ガバは最後まで主人を守り続けたのだと思います。


 そう考えるとこの話は、怪談であると同時に、とても静かで、切なくも優しい話でもあるのです。

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