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第82談 静かに暮らすための頼みごと(天野ミチヒロさん怪異談その1)

 この話は、私がUMA研究家の天野ミチヒロさんから取材したものです。


 取材のきっかけは、とあるオカルト系のイベントで再会した際の、何気ない雑談でした。


 「昔、初めて一人暮らしをした部屋で、ちょっと変なことがあって」


 そう語る天野さんの口調は、驚くほど淡々としていました。


 それは、恐ろしい体験を語るというより、若い頃の思い出話を一つ取り出しただけのような調子だったのです。


 天野さんが二十一歳、大学生だった頃のことです。


 初めて借りた部屋は、東京都府中市にある古いアパートでした。


 トイレと流しは部屋にあるものの風呂無し四畳半という昭和の学生向け物件です。


 ですが、アパートの目の前は、交通量の多い府中街道で、某大手商業施設も建っている上に、府中本町駅から、徒歩1分という利便性の良い所もあり、魅力的に見えたそうです。


 契約の際、江戸っ子気質で豪快な大家の中年女性が、書類をまとめながら笑ってこう言ったそうです。


 「このアパートね、ひと部屋だけ、どうしても長く住まない部屋があるのさ」


 その声は明るく、冗談のような調子でした。


 「前の人なんて、ノイローゼになって布団を背負って出てったよ」


 天野さんは、その時は特に気にも留めなかったといいます。


 若さと、初めての一人暮らしの高揚感が、その言葉の棘を自然と覆い隠していたのでしょう。


 案内された部屋は、日当たりも悪くなく、畳の匂いもまだ新しかったそうです。


 アパートの真裏には、大國魂神社の林道とお墓があったそうです。


 前述したように表向きは利便性が良いこともあって、天野さんいわく(この動と静のコントラストが面白い立地だな)と思ったそうです。


 異変は、ごく小さな違和感から始まりました。


 夜、電気を消して横になると、部屋が妙に広く感じられるのです。


 天井が、昼間よりも僅かに高くなったような気がしました。


 もちろん、そんなはずはありません。


 天野さんは、疲れているだけだろうと、自分に言い聞かせていました。


 数日後、今度は音に違和感を覚えます。


 眠りに落ちる直前、どこからか、微かに金属が軋むような音が聞こえてきました。


 ギイ……と、短い音です。


 パイプベッドの軋みだろうと思いました。


 寝返りを打つと、音は止まります。


 それ以上、深く考える理由はありませんでした。


 最初に「おかしい」と、はっきり感じたのは、ある夜のことです。


 眠りが浅くなった瞬間、ベッドが、ゆっくりと揺れました。


 揺れは一度きりではなく、下から、規則的に続きます。


 ガタ……ガタ……。


 意識がはっきりするにつれ、天野さんは気づいたそうです。


 これは、寝返りでも、地震でもありません。


 ベッドの脚を、誰かが掴んでいる――そうとしか思えなかったのです。


 体が硬直し、喉の奥が冷たくなりました。


 それでも思い切って起き上がり、電気を点けます。


 しかし、狭い部屋の中に人の姿はありません。


 ベッドの下も、壁際も、逃げ場になりそうな場所はどこにもありませんでした。


 この出来事は、一度では終わりませんでした。


 半年の間に、同じ揺れを三度、経験したといいます。


 ただし、毎回同じではありません。


 揺れの強さも、時間も、微妙に違っていました。


 まるで、何かが様子を見ているかのようだったそうです。


 次に起きたのは、音の異変でした。


 夜中、部屋が完全に静まり返った頃、天井の隅から、「パン!」と、手を叩くような音が聞こえたのです。


 一度目は、遠く感じられました。


 建物のどこかで鳴ったのだろう、そう思えました。


 しかし、しばらくすると、再び音がしました。


 二度目は、前回よりも少し近い位置から聞こえました。


 三度目。


 今度の音は、はっきりと耳元で鳴りました。


 その瞬間、空気が動いたように感じたそうです。


 冷たいものが、首筋をなぞったような感覚がありました。


 ここで天野さんは、初めて(これは危ない)と感じたといいます。


 それでも、彼は叫びもせず、逃げ出しもしませんでした。


 (幽霊を怖がってはいけない。でも、怒らせても、戦ってもいけない)


 そう考えた末、彼は〝頼む〟ことにしたのです。


 ある夜。部屋の真ん中に座り、静かに手を合わせました。


 「僕は昼は府中の競馬場でガードマンのアルバイトをしています。夜間学校にも通っています。だから……どうか、夜だけは眠らせてください」


 声は震えていなかったそうです。事実を、淡々と述べただけでした。


 その夜を境に、ベッドは揺れなくなり、手を叩くような音も、完全に止まりました。


 後日。天野さんに会った大家の女性は、感心した様子で言いました。


 「あんた……こんなに長く、あの部屋にいた人、初めてだよ」


 結局、天野さんはその部屋に七~八年ほど住み続けました。


 しかし、引っ越して一年ほど経った頃、連絡が入ります。


 原因不明の不審火によって、件のアパートは全焼し、跡形もなくなったというのです。


 神社と墓地が真裏にあった場所も、関係していたのでしょうか?


 さて、私が取材を通して強く印象に残ったのは、怪異そのものよりも、天野さんの距離の取り方でした。


 怖がらず、敵視せず、理屈でねじ伏せようともしない。


 ただ、「ここで生きている人間としての事情」を静かに伝える。


 それが功を奏したのか、あるいは、最初から〝話が通じる相手〟だったのかは分かりません。


 しかし、後になって私は、もう一つ気になる事実を知りました。


 天野さんの一族は、代々真言宗の僧侶の家系なのだそうです。現在、従兄弟の方々は皆、出家されています。


 天野さんの本名は「倫弘」といいます。


 その名にある「弘」の字は、祖父が付けてくれたものだそうです。


 彼の祖父は、弘法大師の名を深く敬い、真言宗の最高位である大僧正にまで上り詰めた人物でした。


 もちろん、天野さん自身は僧侶ではありませんし、法力のような類いが霊との接触に関係したなどという話を、本人が語ることもありません。


 私自身も、それが直接、今回の怪異の鎮静に関係していたのかどうかは分かりません。


 ただ、神社と墓地の真裏という場所で起きていたこれらの現象が、最終的には火災という形で建物ごと消えてしまったことを思うと、あの部屋には、人の気配とは別の〝長い時間〟をかけて溜まり続けた〝何か〟が存在していたのではないか?


 そして、それに対して天野さんが無意識のうちに取っていた距離感は、家系の中で受け継がれてきた感覚の延長線上にあったのではないか?


 私は、そんな想像をせずにはいられないのです。


 天野ミチヒロさんからは、他にも体験談を取材したのですが、それは別の機会に紹介いたします……。

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