第81談 お嫁さんが来てくれた
この話は、私が取材した真知子さん(仮名40代)が、小学校3〜4年生の頃に体験した出来事です。
舞台はG県の、田畑と住宅が入り混じる、どこにでもあるような地方の町でした。
――けれど、その‶どこにでもある通学路〟に、ほんの小さな違和感が混ざり込んでいたことに、当時の彼女はまだ気づいていませんでした。
真知子さんが通っていた小学校の下校時刻は、季節によって微妙に異なります。夏場は西日がまだ眩しく、アスファルトがじんわりと熱を残している時間帯。冬場は、町全体が夕暮れの陰に沈み始める頃でした。
そんな通学路の途中に、彼女たちの間で「お菓子のおばさん」と呼ばれている女性がいました。年の頃は50代前半か半ばくらい。いつ見ても、口元に穏やかな笑みを浮かべています。
おばさんは、五回に一回くらいの頻度で道端に立っていました。まるで通学路に溶け込むかのように、柿の木の下や電柱の陰、あるいはブロック塀の角など、毎回少しずつ違う場所に――。
それでも、不思議と「いる」と気づくと、こちらをじっと見つめているのです。目が合うと、ニコリと微笑み、まるで事前に決まっていた台詞のように、真知子さんたちにこう言います。
「おばちゃんの家にね、お菓子とオモチャがいっぱいあるの。帰る前に、ちょっと寄っていかない?」
彼女の声の調子は、どこか甘ったるく、人懐っこさが、やけに耳に残ったと、真知子さんは振り返ります。
その誘いに、子供たちはいつも「うん、また今度ねー」と笑ってやり過ごしていました。
けれど、その笑顔に小さな違和感を覚える者もいたそうです。
――笑っているのは、口元だけ。目はまったく笑っていなかった、と。
そんなある日のこと。真知子さんは仲の良い友人と喧嘩をしてしまい、重たい気分を抱えたまま一人で下校していました。
曇り空で、風は少し湿り気を帯び、遠くの山並みは霞んでいました。どこかで犬が鳴き、電柱に打ち付けられたトタン板が「カン、カン」と鳴っています。
いつもの通学路なのに、足音がやけに響いて聞こえました。
その時です。曲がり角の先に、お菓子のおばさんが立っていました。いつもと同じ笑顔。
けれど、その笑顔が、薄暗い空の下ではどこか‶貼りつけた仮面〟のように見えたといいます。
「お嬢ちゃん、うちに寄っていかない?」
その一言に、真知子さんは一瞬だけ迷いました。けれど、友達と喧嘩した胸のモヤモヤを晴らしたくて、つい「うん、いいよ」と返してしまいました。
後から思えば、あの日だけ、なぜかおばさんの声がすぐ耳元で響いたような気がしたそうです。距離は十メートル以上あったはずなのに――。
おばさんの家は通学路から少し奥に入った、古い木造の二階建てでした。
玄関に一歩足を踏み入れると、すぐに甘いバターの香りと、線香のような焦げた匂いが入り混じって鼻をつきます。
「おいで、おいで。遠慮しなくていいのよ」
リビングに通されると、テーブルの上には高級店のものと思われるケーキやクッキーが所狭しと並べられていました。
生クリームの白さが妙に蛍光灯の光を反射し、ガラス皿の上で鈍く光っています。
真知子さんは夢中になってそれらを口に運びました。ふわふわのケーキ、サクサクのクッキー――。喧嘩のことも、いつの間にか忘れていました。
ただ、妙に気になったのは、おばさんがずっとテーブルの向こう側から自分をじっと見つめていたことです。まるで仮面のような笑顔のままで、瞬きもせずに。
「二階の部屋に来てくれない?」
お菓子を食べ終えた頃、おばさんはふいにそう言いました。声のトーンは相変わらず柔らかいのに、断るという選択肢を思い浮かべることが出来なかったといいます。
階段を上る途中、きしむ木の音と、壁にかけられた古い振り子時計の「コチ、コチ」という音だけが響いていました。二階の廊下に差し込む夕陽は赤く濁り、壁紙の花柄がまるで血管のように見えたそうです。
部屋のドアが、ゆっくりと軋んだ音を立てて開きました。
その瞬間、真知子さんの鼻の奥を、むっとするような甘ったるいプラスチックの匂いと、長年押し入れにしまい込まれていたような古びた布の湿気た匂いが一気に押し寄せてきました。
まるで、誰かが長い間、締めきっていた部屋の濁った空気が、不意に流れ込んだような感覚でした。
目の前に広がった光景に、彼女は思わず足を止めました。
――そこは、人形で埋め尽くされた部屋でした。
リカちゃんのボーイフレンド、外国製の少年人形、精巧な顔立ちの西洋人形……見たこともない種類の‶男の子〟たちが、棚、床、ベッドの上、さらには天井近くの飾り棚まで、隙間なく整列していました。
奇妙な事に、どの人形も全裸でした。衣服を一切まとわない身体が、夕陽の赤い光に照らされて、妙にヌメリを帯びたように光っています。ガラスの瞳はどれも正面を見据えているはずなのに、不思議と――自分を見ている気がしました。
それは「視線を感じた」というより、無数の目玉が、音もなく首をこちらに向けたような錯覚に近かったといいます。
背後に気配を感じ、振り向くと、おばさんが音もなく立っていました。まるで最初から背後にいたかのように。
その顔には、いつもと変わらない満面の笑みが貼り付いていました。けれど、その目だけは、どこか深い穴の底のように光を失っていました。
「さあさあ、坊やたち。可愛いお嫁さんが来てくれたよ!嬉しいだろう?」
その声は、笑っているのに妙に湿った響きがありました。空気が一瞬で、ピンと張り詰め、呼吸をする音すら響いてしまいそうな沈黙が訪れます。
その直後――
カチリと、何かが小さく鳴りました。
真知子さんが視線を向けると、壁際の棚に並んだ人形たちの瞳が、一斉に夕陽を反射しました。
赤く、冷たく、均一な角度で。まるで、彼女の到来を心待ちにしていた‶何か〟が、一斉に顔を上げたかのようでした。
喉の奥がひゅっと鳴り、背中の産毛が一斉に逆立ちます。
――この部屋に、いてはいけない。
真知子さんは、体の奥底から湧き上がる“危険”の声に突き動かされ、反射的に下腹部を押さえて、しゃがみ込みました。
「おばさん、お腹が痛くなっちゃった……トイレ貸して……!」
その言葉を口にした瞬間――おばさんの表情が、音もなく崩れ落ちました。
笑顔が剥がれ落ちた顔には、むき出しの憎悪と混乱が入り混じった、まるで別人のような表情が浮かんでいました。頬の筋肉がぴくぴくと痙攣し、唇は乾いた音を立ててひきつっています。
「はあ?あんたさ、今更何を言ってんの?」
その声は、床下から染み出すような低い湿った声でした。部屋の空気が一気に重くなり、まるで見えない水の中に放り込まれたような息苦しさを覚えたといいます。
「私の可愛い息子たちに、恥をかかせるつもりかい!?とんでもない嫁だね!!」
おばさんの瞳が細く吊り上がり、黒目が異様に沈み込みました。その顔はもう、近所のニコニコした‶お菓子おばさん〟ではありませんでした。
背後の人形たちの瞳が、夕陽の残光を受けて微かにギラリと光った気がしました――まるで彼女の返答を、全員が息を潜めて待っているかのように。
真知子さんは、泣きながら土下座して「お願い!トイレに行かせて!」と懇願すると、おばさんは無表情で舌打ちし、こう言いました。
「三十秒以内に戻ってこないと、許さないからね」
その言葉を聞いた瞬間、彼女はドアを開け、階段を全力で駆け下りました。玄関に置いていたランドセルを掴み、裸足のまま外へ飛び出しました。
……背後から、おばさんの怒号のような声が響いた気がしましたが、振り返る勇気はありませんでした。
翌日、真知子さんはクラスでこの体験を話しました。
すると男子が「お菓子食べたいから遊びに言っていい?」と声をかけると、おばさんは別人のように怒鳴り散らし、「お前らに用は無い!帰れ!」と追い返したという話が、複数の男子生徒から出ました。
さらに、町ではこんな噂が囁かれていました。
――お菓子のおばさんには一人息子がいたが、数年前に交通事故で亡くなった。あの日以来、彼女は人形を‶息子〟と思い込み、女の子を「お嫁さん候補」として探しているのではないか?と。
真知子さんは、その日以来、おばさんに会わないよう通学路を変えました。それきり、姿を見かけることはなかったといいます。
ただ一つだけ、今でも思い出すと背筋が冷えるのは――
おばさんの家の二階の窓。あの日以来、やむを得ない事情で、足早に通り過ぎる度、カーテンの隙間から複数の‶人形の瞳〟が覗いていたような気がしたということです。
真知子さんの話を聞いて、私が最も強く印象に残ったのは――おばさんの「笑顔」の異様さでした。
近所で見かける優しげな大人と、部屋の中で見せたあの歪んだ表情。
二つの顔は、確かに同じ人間のものではあるはずなのに、まるで別の人格が同居していたかのような違和感がありました。
彼女は、自分の息子を失ったという深い喪失をきっかけに、現実の時間を止め、心の中で「息子」と「そのお嫁さん」を集める世界を作り上げていたのかもしれません。
部屋いっぱいに並んだ‶全裸の男の子の人形〟は、彼女の歪んだ母性と執着の象徴のようにも見えます。
息子を永遠に幼い姿のまま人形に投影し、その世界を壊されることを何よりも恐れていた。
だからこそ、真知子さんの「トイレに行かせて」という一言で、彼女の中の‶別の顔〟が露わになったのでしょう。
お菓子のおばさんの狂気は、突発的に爆発したものではなく、静かに、長い時間をかけて醸成されたものだったのだと私は感じます。
通学路に立ち続け、笑顔で女の子を誘い続けていた姿は、外側から見ればただの優しげな中年女性のように見えるでしょう。
けれど、その内側には、「失われた家族を人形で再構築する」という、現実と幻想の境界が完全に崩れた世界が広がっていたのです。
恐ろしいのは、そうした‶狂気〟が、決して大声で叫ぶわけでも、刃物を振り回すわけでもなく――日常の笑顔の仮面を被って、静かに通学路に立っていたという事実です。




