第79談 依頼は、まだ終わっていない!
知人経由で取材させて頂いた都内の不動産会社に勤める利田さん(仮名30代男性)は、その日もいつも通り、担当するマンションの管理巡回に出ていました。
朝から小雨が降り続き、街は灰色に煙っていました。スーツの裾がじっとりと湿り、コンビニの袋を提げたサラリーマンたちが、どこか無言で駅へと歩いていく。
――何も特別なことはない、日常の光景のはずでした。
しかし、築三十年を超えるそのマンションに足を踏み入れた瞬間、彼は違和感を覚えます。
狭い廊下を進むと、音がすっと吸い込まれていくような、妙な「静けさ」に包まれたのです。古い蛍光灯がチカチカと瞬き、濡れた靴底が床を踏む音だけが響きました。
向かった先は、家賃滞納が続いている一室――税理士・緒方さん(仮名九十歳近い男性)の事務所です。
緒方さんは、かつては都内でも名の知れた税理士でした。
若い頃は秘書や助手を複数抱え、FAXと電話が鳴り止まなかったといいます。
しかし、歳月は無情です。
体力と気力の衰えと共に、周囲は独立し、顧客も離れ、今では一人で、誰も来ない事務所を守っているだけでした。
扉を開けると、湿った紙とインク、そしてカビた絨毯の臭いが鼻を突きました。
壁一面の書類棚、積み上がった帳簿、そして――時代遅れのFAX機が1台。
埃をかぶりながらも、主の命令を待っているかのように鎮座しています。
「緒方さん、滞納されてる家賃の件ですが……」
利田さんが切り出すと、緒方さんは少し間を置いて、掠れた声で言いました。
「……今日も依頼がたくさん来てるんだよ。それが片付けば、家賃は払える」
室内は、シーンと静まり返っています。電話は鳴っておらず、FAXの受信ランプも消えたまま。
利田さんは、声にならない違和感を覚えました。
「先生、大変申し上げにくいのですが、もう依頼は来ていないのでは?」
その言葉に、緒方さんの表情が一変しました。
怒ったようにFAX機へ駆け寄り、ガチャガチャと乱暴に操作を始めたのです。
「嘘じゃない!ほら、今でもFAXで依頼書が届いてるはずだ!」
しかし、機械は沈黙したまま。
利田さんが電源を確認すると、コンセントは刺さっているのに、ディスプレイは真っ暗。
まるで「壊れている」というより、深い眠りについているかのようでした。
「私は……まだ現役なんだ……!」
緒方さんは、FAX機に縋りつき震える声を漏らしました。
「先生!とにかく今月中に家賃の振り込みが確認されない 場合は退去して頂くことになります」
利田さんは、心を鬼にしてキツめの口調で言いました。
彼の言葉を聞いた緒方さんは 「そんなはずはない!私はまだまだ仕事が出来るし、依頼人たって山ほどいるんだよ!」と、叫び出したと同時に号泣し始めました。
その姿を見た利田さんは、胸が締めつけられるような感覚に襲われましたが、業務として割り切る事にし、その場を後にしました。
数週間後。
マンションの隣室から「異臭がする」という通報があり、合鍵で部屋に入った利田さんが目にしたのは――机に突っ伏したまま亡くなっていた緒方さんの姿でした。
死因は心臓麻痺。誰にも看取られず、ひっそりと息を引き取っていたのです。
室内には腐臭と湿った紙の匂いが充満し、古い蛍光灯の明かりが、ボンヤリと遺体を照らしていました。
数日後。遺品整理業者による撤去作業が始まり、彼も立ち会いました。
棚が次々と運び出され、動かないFAX機が壁際に残された時、突然――「ウィーン……」と低い電子音が室内に響きました。
誰も触っていないはずのFAX機のディスプレイが明滅し、内部のローラーがゆっくりと回り始めます。
白紙が、二枚、三枚と吐き出されていきました。
まるで、見えない相手に返事をしているかのように。
利田さんは慌てて足元を確認しました。
――コンセントには、何も刺さっていませんでした。
その場にいた全員が黙り込み、FAXが止まるのをただ見つめるしかなかったといいます。
部屋には、掛け時計の「カチ……カチ……」という音だけが残りました。
奇妙な出来事は、それだけでは終わりませんでした。
FAX機の撤去から数日後、利田さんの勤める不動産会社で、異変が起こり始めたのです。
勤務時間中に、事務所のプリンターが勝手に起動し、白紙を何十枚も吐き出す現象が何度も発生。印刷ログには毎回履歴は残っておらず、社内にプリンターを操作した者はいませんでした。
極めつけは、FAXでした。
ある朝、利田さんが出社すると、FAX機から大量の白紙が吐き出されてました。
しかも、白紙の端に記載された送信元のFAX番号は、廃業したはずの緒方さんの事務所の物でした……!
電話会社に問い合わせましたが「そんなことは有り得ません。何かの間違いです」の一点張りでした。
この一連の出来事に社員たちが怯え、ついには上司の判断で神主を呼び、会社全体でお祓いが行われました。
その後。社内の怪異は、ピタリと止まったといいます。
緒方さんの亡くなった後、FAX機が電源もないのに動いたこと。
誰も操作してないプリンターから吐き出されたプリンター用紙。
それらはすべて、偶然や機械の誤作動と説明できるかもしれません。
けれど、FAX機が撤去されたはずの緒方さんの事務所から送信された用紙については、説明のしようがありません。
緒方さんが死の直前まで信じていた〝無いはずの依頼〟の存在。
その未練の行き先が、たまたま利田さんたちの会社に向けられてしまったのだとしたら……?
あの白紙のFAX用紙は、単なる誤作動ではなく――緒方さんの〝最後の仕事〟の呼び声だったのかもしれません。




