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第78談 見たのは二人だけ

 今回も、知人で女優の宮坂真理さんの体験談の一つを皆様にご紹介します。


 私が宮坂さんと出会った経緯については、第25談「トンネルの中で⋯」をご参照ください。


 彼女はかつて、同世代の友人たちと毎年キャンプへ出かけていたそうです。


 ある年、某県の海辺にあるキャンプ場を訪れた時のことでした。


 このイベントを仕切っていたのは、一歳年上の植田先輩(仮名)という方で、強い霊感を持ちつつも怖い話や怪談が大好きだったそうです。


 そのため、キャンプのたびに肝試しを企画するのが恒例になっていました。宮坂さん自身は肝試しには反対派だったそうですが、植田先輩の強引な誘いを断りきれず、友人のゆず子さん(仮名)とぺアを組むことを条件に参加することにしたのです。


 ルールは簡単でした。夜の山道を登り、途中にある石塔の前に置かれた箱からお札を取ってくる――それだけでした。一本道ですから迷うことはない、はずでした。


 いよいよ、彼女たちの順番が回ってきました。


 懐中電灯の光は頼りなく、周囲の闇を照らすどころか、自分たちがどれほど孤独かを思い知らされるようでした。湿った土の匂いが鼻をつき、時折パキリと枝を踏む音に背筋がゾクリと震えたそうです。


 「なかなか石塔に着かないね」


 「うん、暗いから余計に遠く感じるのかな」


 そう言い合いながら進んでいたとき、不意に前方に灯りが見えたといいます。


 闇の中で、いくつかの裸電球がボンヤリと光を放っていました。山道が右に折れる角の左手に、それはありました。二階建ての木造の廃屋です。


 かつて茶店か食堂だったのでしょう。外壁は黒ずみ、雨風で剝がれた板がぶら下がり、苔や蔦が窓枠を覆っていました。


 二階に掲げられた看板は殆ど消えかけていましたが、‶何かの文字が書いてありました〟。‶看板に設置された数個の電球〟が不気味なまでに明るく輝き、まるで昼間のように建物の奥まで照らし出していました。


 入口付近には傾いた戸板が突き立ち、人影と見紛うように見えたそうです。


 さらに、台所らしきシンクが奥に見え、錆びた蛇口からは水滴が今にも落ちそうに光っていました。しかし耳を澄ましても、水音は一度も聞こえなかったのです。


 「明るいね」


 「うん、歩きやすいじゃん」


 彼女たちは笑い合いましたが、宮坂さんは焦げた油のような酸っぱい臭気に吐き気を覚え、耳の奥には電球がジジジ……と唸る音が残ったそうです。


 その光に背を押されるようにして、ようやく石塔にたどり着き、お札を手にすることができました。


 ところが――石塔に着いた途端、宮坂さんは奇妙な感覚に気づきました。あれほど強烈に照らしていた廃屋の光景の一部が、すでに頭の中で、ぼやけ始めていたのです。


 あの看板には何と書いてあったのか?電球は三つだったのか?それとも二つだったのか?が、どうしてもハッキリと思い出せないのです。


 「ねえ、さっきの看板、読めた?」と尋ねると、ゆず子さんも「赤っぽい字で書いてあった気がするけど……よく思い出せない」と答えました。


 昼間のように鮮明だったはずの光景が、僅かな時間で夢の断片のように曖昧に崩れていく。


 先程、二人が廃屋を訪れた際の看板や電球の数に関して曖昧な説明だったのは、このような理由があったからでした。


 唯一ハッキリしているのは、耳の奥に纏わりつく電球の唸り音だけとのことです。


 そして、ゴールへ戻る直前で合流した加藤君(仮名)は、顔を真っ青にして言いました。


 「……二人とも左肩を掴まれてるよ。ゴールの手前で」


 彼もまた霊感が強い人で、怯えきったその様子に、二人は言葉を失ったそうです。


 キャンプ場へ戻ると、植田先輩が「何かあった?」と問いかけました。


 宮坂さんとゆず子さんは「廃屋が明るかったので全然怖くなかった」と答えました。


 すると、植田先輩は眉を顰めて、


 「ねえ?廃屋って何のこと?」


 と呟いたのです。


 「石塔の手前に茶店みたいな建物があって、看板に電気がついてたじゃないですか」


 そう説明すると、他のメンバーは顔を見合わせ、誰も声を出さなくなりました。


 「そんな建物なんか、見ていないぞ。それに廃屋に電気が通ってるわけないだろ!」


 一人のメンバーが、そう言いました。


 その瞬間、廃屋の矛盾点に気がついた宮坂さんは背筋に冷たいものが走ったそうです。


 確かに見たはずの光景が、言葉にすればするほど不確かになり、ますます自信が揺らいでいったといいます。


 テントの中で目を閉じても、宮坂さんの耳にはジジジ……という電球の音がこびりついて離れませんでした。


 あの光景を思い出そうとすると、看板の文字も電球の数はおろか、その形さえも霞んでいきます。


 「私たちは、いったいどこを歩いてきたんだろう……?」


 夜が明けるまで、その疑問は頭から離れなかったそうです。


 翌朝。宮坂さんとゆず子さんは、恐る恐る山道をもう一度登ってみたそうです。


 しかし――石塔の手前には、建物どころか土台らしき痕跡すらありませんでした。


 周囲には、雑草が茂り、崩れかけた石垣があるだけ。昨夜あれほど鮮烈に輝いていた数個の電球も、何かが書かれていた看板も、厨房のシンクも、何ひとつ存在していなかったのです。


 彼女たちは言葉を失い、足早にキャンプ場へ引き返しました。


 ……以上が、宮坂真理さんから取材した体験談です。


 私が、今回の話で特に印象的だったのは、「見たはずのものが、思い返すほどに曖昧になっていく」という点でした。



 通常の怪談では「見た」「聞いた」という証言が残ることが多いのに、この話では、体験者本人の記憶すら崩れていく。その揺らぎが一層の不気味さを感じさせます。


 存在したかどうかも分からない廃屋。


 しかし、耳に残る電球の唸り音だけが、現実と幻の境界を強く刻みつけているように思えました。

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