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第76談 ピーナッツを食べる八つの小さな口

 私が、怪談師の萬屋千絵よろずやちえさんから、この話を聞いたのは、夏の終わり、湿気の抜けきらない夕方のことでした。


 彼女が仕事を終え、商店街の裏にある喫茶店で私と落ち合った時、店内にはアイスコーヒーの氷が小さく触れ合う音しか聞こえず、外の蝉の声だけが遠く響いていたのを昨日の ことのように覚えています。


 「この話ね。ずっと誰かに聞いてほしかったんです」


 千絵さんは、テーブルの上のコースターを指でなぞりながら静かに言った。その指先の動きがどこか落ち着かず、私は自然と姿勢を正しました。


 彼女が語り始めたのは、怪談師として活動を始めて間もない頃の体験でした。


 当時、千絵さんは都内の商店街にある小さなお菓子屋で働いていました。


 古い棚の木の匂いや、和菓子の甘い香りが鼻に残る、どこにでもある店です。


 そこへよく来ていたのが、坂田さん(仮名)というお婆さんでした。


 いつも同じ饅頭を買い、店を出る前に軽く会釈をしていく──そんな、日常に溶け込む常連客。


 その日も、坂田さんは饅頭を買い、袋を手にクルクルと回しながら言いました。


 「千絵ちゃん。アンタ怪談師になったんだって?」


 「はい。細々とですけど……」


 少し照れくさく笑うと、坂田さんは目を細め、しばらく考え込むような顔をしました。


 そして──まるでタイミングを見計らっていたかのように、こう言ったのです。


 「不思議な話があるんだよ。うちに来て聞いてくれるかい?」


 その時は、(何か面白い話でもあるのだろう)と軽く受け止めていました。


 だが、後になって思えば、あの時坂田さんの瞳には、どこか「期待」と「不安」が入り混じっていたような気がしたそうです。


 後日。彼女の家を訪ねた千絵さんは、玄関を一歩入った瞬間に違和感を覚えたという。


 空気が、静か過ぎるのです。


 生活音がしない。時計の秒針の音すら聞こえない。まるで家の中が〝誰かが待っている〟ような、そんな沈んだ空気でした。


 案内された居間には、畳の上に八体の人形が円を描くように並べられていました。


 それぞれ布の服をまとい、小さな座布団にちょこんと腰掛けています。


 「この子たちは家族なんだよ」


 坂田さんは誇らしげに語り、さらに驚くべきことを話しました。


 亡くなった旦那さんがご存命だった頃、夫婦で旅行するときには必ず人形八体を連れて行き、人形の分の新幹線の席までちゃんと買っていたのだそうです。


 だが、その話を聞きながらも千絵さんの視線は、人形たちの顔から離れなかったのです。


 (どれも同じ顔に見える)


 目のガラス玉は光を失い、肌色の塗装は乾いた土のようにくすんでいるのです。人形特有の甘い樟脳の匂いが漂い、胸の奥がざらつくような感覚を覚えました。


 しかし、坂田さんが持ってきたアルバムを開くと、そこには信じられない光景がありました。


 写真の中の人形は、どれも表情がはっきりと異なり、まるで生きているように明るかった。旅行先の温泉街、旅館の部屋、駅のホーム……坂田さん夫婦が人形を抱いて写っているのです。


 千絵さんには『写真の中の人形』と、『目の前の人形』が同じ物だとは、とても思えなかったと言います。


 「最近ね。この子たちに買い置きのピーナッツを食べられちゃうんだよ」


 相談の内容は意外なものでした。


 坂田さんが台所から持ってきた袋には、半分ほど齧られたピーナッツがいくつも入っています。


 その断面には、妙に細かな〝歯形のような跡〟がついていました。


 「国産のは口に合わないみたいでさ、途中まで食べて捨てちまうんだよ。贅沢で困っちゃうよ」


 冗談めかして笑う声が、部屋に乾いた響きを落としました。


 物音ひとつしない静かな部屋で、坂田さんの声だけが浮いています。外から聞こえるはずの車の音も、鳥の声も、なぜか千絵さんの耳には届きませんでした。


 千絵さんは、そっと人形たちを見つめました。八体の視線が、真正面を向いて揃っています。


 誰もいないはずなのに、背中にじっとりとした視線を感じます。


 「イタズラもひどくてねぇ。家の中のものがね、ちょくちょく隠されるんだよ。だから千絵ちゃん、この子たちに『悪さしちゃダメだよ』って言ってやっておくれ」


 坂田さんは、まるで本物の子供を叱るような口調でした。


 正直、千絵さんは内心で(ちょっと付き合いきれないな)と思ったそうです。


 それでも怪談師として頼まれた手前、八つの人形の前にしゃがみ込み、「悪いことはやめましょうね」と優しく語りかけました。


 それが終わると、千絵さんは半ば冗談のつもりで言った。


 「坂田さん、こんなことしてると……人形に魂が入りますよ?」


 ――その瞬間。


 坂田さんが、ケタケタケタと甲高く笑い出したのです。


 乾いた部屋に響くその笑いは、壁に何度も跳ね返り、音が増幅して聞こえるようだったと言います。


けれど──千絵さんは、その笑いに〝後悔の感情〟が混じっていた〟のを感じ取ったそうです。


 笑い終えた坂田さんは、急に声を落とし、ポツリと呟きました。


 「何言ってんだい。もう入ってるよ……」


 彼女の声は、先ほどの笑いとは正反対で、まるで〝気づいてはいけない事実を認めてしまった〟人のような弱さがあったといいます。


 坂田さんの視線は人形の方へ向いていましたが、そこに母親のような慈しみはなく、どこか怯えにも似た影が滲んでいたそうです。


 千絵さんが言うには、


 「魂が入っていることを、坂田さん自身がすでに分かっていて……でも、それを誰にも相談できずに、長い間ひとりで抱えていた。そんなふうに見えて仕方ありませんでした」


 とのことです。


 その時、部屋の空気はふっと冷たくなり、人形たちの沈んだガラスの瞳が、僅かに揺れたようにも思えたそうです。


 そして、この会話が、千絵さんと坂田さんが生前に交わした最後の言葉になりました。


 この出来事から、間もなくして、坂田さんは老人ホームに入居し、ほどなく亡くなってしまいました。


 訃報を聞いた時、千絵さんは言葉を失ったそうです。


 なぜなら、相談を受けた時の彼女は、どう見ても元気そのもので。病の影などまったく感じられなかったからです。


 その夜、千絵さんの頭にふと浮かんだのは、居間にいた人形たちの姿でした。


 (あの家は今どうなっているのだろう?あの八体は、誰が引き取ったのだろう?それとも、あの部屋に……まだあのまま座っているのだろうか?)


 坂田さんや人形たちに対しての色々な疑問が頭の中を駆け巡ったそうです。


 彼女は続けてこう言いました。


 「写真の中で笑っていた人形たちと、あの時目の前で見た人形たち……あれは本当に、同じものだったんでしょうかね?」


 その問いに対して、私は何も答えることが出来ませんでした。


 喫茶店の窓の外では、いつの間にか日が沈みかけていました。


 客足の少ない店内に、エアコンの風音だけが低く唸っています。


 まるで、その話を聞いてしまった私たちの背後で、誰かがじっと耳を澄ませているかのような気配がありました。


 この話を聞いた時、私は何より「写真の中の人形」と「実際に目の前にあった人形」が、全く別物のように見えたという点が強く心に残りました。


 古い人形にまつわる話の中には、『写真写りが別人のようになる人形』という内容は、少なからず聞いたことはあります。


 これはレンズ越しに〝写るべきではない感情〟が見えてしまうため、写真では生き生きして見えるが、実物は表情が消えている──そんな逆転現象が起きるという説もあります。


 千絵さんが見た二つの違いが、どちらが〝本来の顔〟だったのかは分かりません。


 そして――


 「もう入ってるよ」


 あの日の坂田さんの言葉は、本当だったのか?今でも答えは出ないままなのです。


  萬屋千絵さんからは、他にも色々な体験談を取材させて頂いたので、別の機会に改めまして紹介します……。


※萬屋千絵さんは、同じ名前でX(旧Twitter)アカウントをお持ちです。気になった方は、フォローしてあげてください。

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