第75談 事故物件の病院で(後編)
今回の話は、私の知人で不動産会社に勤める智子さん(仮名)の体験談の続きとなります。
ある日、彼女は仕事で事故物件となった病院を訪れたのですが……。
詳しくは「第69談 事故物件の病院で(前編)」をお読みください。
病院での出来事から数日後。智子さんは自分の首に、ひどい凝りと赤黒い痣のような跡が浮かんでいることに気づきました。
朝、洗面所の鏡に顔を映す度に、その痣はまるで縄が食い込んだように見えました。医者に診てもらっても「寝違えでしょう」と軽く片付けられるばかりです。
しかし、彼女自身には、ただの疲れや筋肉痛という医師の診断には、どうしても納得出来ませんでした。
この話を聞いていて、私は〝見えない誰か〟に自分の首を絞められてるような気がしました。医師に診てもらっても原因が分からない「首の痕」。それが、まさに彼女が事故物件の病院で体験した「首を絞められる苦しさ」と重なっていたように思えたのです。
やがて、職場の事務所でも奇妙な出来事が続きました。
彼女が夜遅くまで残業をしていると、誰もいないはずの奥の廊下から、ギシリ……と木材が軋むような低い音が聞こえてきました。
また、別の日には、コピー機の上に何故か細かい木屑のような粉が積もっていたこともあったそうです。
さらに、別の日には、彼女が出勤すると机の書類の上に細い鉛筆で「返せ」と書かれた落書きが残されていました。
周囲の同僚はそんなことをするはずもなく、夜中に事務所に出入りする人間もいないはずです。
智子さんは恐ろしくなり、誰にも言えずに落書きを破り捨てました。
しかし、その瞬間にも「見られている」という得体の知れない気配が背後に纏わりついていたといいます。
そしてある夜、彼女は夢を見ました。夢の中で智子さんは、古びた大工事務所の中に立っていました。
天井から吊るされた男の足が揺れ、古い梁がギシリと軋む音が響いています。怖くて目を逸らそうとしましたが、次の瞬間、吊るされた男が動き、ゆっくりと首をこちらへ傾けてきたのです。
「やめて!」と声を出したところで目が覚めましたが、喉には冷たい圧迫感が残っていました。夢だったはずなのに、まるで現実に首を絞められていたような感覚です。
この話を聞いた私は、悪夢だけでなく身体に感触が残る怪異の恐ろしさを改めて実感しました。
ただ、それで終わりではありませんでした。
数日後、智子さんは車を運転している最中に、さらに奇妙な体験をしました。信号待ちで何気なくバックミラーを見た時のことです。
そこには、夢に出てきたあの〝吊るされた男〟の顔が、真っ青な皮膚で映り込んでいました。白く濁った目が彼女をジッと見つめています。
「ひっ!」
慌てて振り返ると、後部座席には誰もいませんでした。ミラーに目を戻した瞬間、その男の姿も消えていました。しかし悪寒は止まらず、ハンドルを握る手が小刻みに震えていたといいます。
恐怖に耐えかね、智子さんは再び父親に相談しました。前話で触れたように、彼女のお父様は大工で、昔から霊感が強いことで知られていました。
娘の話を聞くと、彼は深刻な表情でこう言ったのです。
「……あの社長は、まだ〝そこ〟にいるんだな。病院に縛られているんじゃなく、あの土地そのものに縛られているのかもしれない。次に来る時は、もっと強く引き込まれるぞ」
父の言葉は、ただの忠告というよりも、確信を持った警告のように響いたといいます。
そんな折、さらなる異変が智子さんを襲いました。
ある真夜中、自室で眠っていると、天井の方から〝ギシ ギシ〟と軋む音が聞こえてきました。
まるで縄が梁に擦れているような不吉な音です。恐る恐る目を開けると、暗がりの中から黒ずんだ縄の先端が垂れ下がってきたのです。
「……!」
その縄は、恐怖で硬直した彼女の眼前でフワリと揺れ、やがて煙のように消えていきました。翌朝には天井に何の痕跡も残っていませんでした。
しかし、その日の出勤前、智子さんはスーツのポケットに違和感を覚えました。手を入れてみると、中から錆びた釘が数本出てきたのです。
そのスーツは、あの事故物件の病院に初めて行った日に着ていた服でした。何故そこから釘が出てきたのか?もちろん彼女には、釘を入れた記憶などありませんでした。
薄気味悪いことに、釘の赤茶けた錆びは、まるで血が乾いた跡のように見えました。
智子さんは恐怖に駆られ、すぐに父に相談しました。父は真剣な表情で「このまま持っていては危ない」と言い、二人で庭の片隅に穴を掘り、その釘を埋めました。そして線香を三本立て、手を合わせて祈りました。
智子さんが錆びた釘を庭に埋め、父と一緒に線香を焚いて祈った後、不思議なことに怪異はパタリと途絶えました。
あれほど悩まされていた首の圧迫感も、夢も、職場での不可解な現象も起こらなくなったのです。
彼女はようやく日常を取り戻したかに見えました。
――と思いきや、この話には奇妙な余白があります。
祈った翌週、智子さんの家の近くを工事業者が通りかかったそうです。トラックの荷台には古びた梁が積まれており、そこから何本もの錆びた釘が飛び出していました。
偶然とはいえ、その光景を見た瞬間、智子さんは足がすくみ、体が動かなくなったといいます。
また、祈祷後からしばらくして、彼女の同僚が事故物件の調査に行った時、不思議なことを口にしたそうです。
「診察室の床に、古い釘が一本だけ落ちていた」と。
同僚は深く気にせず釘を捨ててしまったそうですが、その数日後に首を痛めて会社を休んでしまいました。
智子さんは、その話を聞いて全身の震えを止められなかったそうです。
自分が見つけた釘は本当に〝全部〟だったのか?まだ病院のどこかに、あるいは自分の知らない場所に、〝残り〟が隠されているのではないか?と思いました。
そして、現在も件の病院は某所に廃墟として残り続けています。窓は割れ、外壁はさらに灰色に沈み、人の出入りは殆ど無いそうです。
……私は、この話を聞いて、自殺した大工社長個人の怨念でなく、「土地に縛られた怨念」が物理的な痕跡として形を持ち始めているのではないか?と考えました。
個人的には「釘」という具体的な物が現れたことに強い不気味さを覚えました。見えない気配や夢であれば「気のせい」という説明も出来ます。
だけど、実際に手に取れる〝物〟が出てきた以上、そこに何かしらの現実的な干渉があったことは否定できないでしょう。
もしも、アナタが古びた建物を訪れた後に、スーツやコートのポケットから覚えのない釘を見つけてしまったなら――どうかすぐに処分せず、静かに土に埋め、線香を焚いて祈ってください。




