第74談 事故物件の病院で(前編)
これは、霊感体質で不動産会社に勤めてる智子さん(仮名30代)の体験談の1つです。
私と彼女の知り合った経緯は「第62談 買い手を選ぶ物件」をご参照ください。
その日、彼女は上司とともに、事故物件の確認に向かっていました。
平日の昼下がり、普段なら事務所で書類に追われている時間帯です。
外回りというだけでも気分は少し軽くなるはずでしたが、その日は妙に空気が重く感じられたそうです。
夏の終わりの午後にもかかわらず風が無く、車窓から見える街並みが、どこか色を失って見えたと語ってくれました。
「ここだ」
上司が車を停めた先にあったのは、病院の建物でした。白いはずの外壁は灰色にくすんでいて、ガラス窓には薄い曇りが広がっていました。
その瞬間、智子さんの胸が強く脈打ちました。
(無理だ!この建物には入れない!!)
吐き気に似た拒否感が込み上げ、思わず口にしたそうです。
「……私、この病院は無理です。入れません」
「何を言ってるんだ智子さん。これは仕事だぞ!甘えるな」
上司の声は、苛立ちを含んでいました。
結局、二人は中へ足を踏み入れることになったのです。
重たい硝子戸を押し開けると、ムワリと冷気のようなものが頬を撫でたそうです。
それは冷房の名残ではなく、湿った地下室のような匂いと、強烈なアンモニアの臭いを帯びた空気でした。
廊下は水を打ったように静かで、靴底の音さえ吸い込まれていくように感じられたといいます。
壁に並ぶ案内板の文字はボンヤリと滲み、読みにくく感じられたそうです。
「ここが診察室か」
上司が扉を開けると、埃をかぶった診察台が一つありました。窓から射す光が粉塵を浮かび上がらせ、舞うその形が一瞬、人影のように見えました。
智子さんの違和感は募るばかり。そして、それが決定的なものに変わったのは、レントゲン室に入った時でした。
突然、智子さんの喉に冷たい縄のようなものが、ピタリと巻きつきました。
「……っ!」
空気が喉の奥でせき止められ、吸おうとしても胸に届かない。まるで〝見えない手〟が首を締めあげているかのようでした。
呼吸を奪われた肺が必死に膨らもうとするたび、喉の奥に鋭い痛みが走ります。冷たく湿った圧力がジワジワと強まり、頸動脈を押し潰すように脈打ちました。
胸の内側では酸素を求めて心臓が暴れ、頭の中には血の音が轟々と響き渡ります。
目の前の風景がグニャリと歪み、影法師のようなモノが幾重にも重なって見えました。
涙は止めどなく溢れ、頬を熱く濡らします。両足は力を失い、床が波打つように遠ざかっていきました。
「助けて」と叫びたくても声は出ず、ただ喉の奥で掠れた呻きが泡立つばかりでした。
その様子を見た上司が、驚いて声をかけました。
「おい、大丈夫か!?」
その声が智子さん耳に入り込みよりも前に、彼女の頭の中には別の音が響いていたそうです。
――ギシリと木が軋む音。
――梁が締まっていくような重い音。
咳き込む智子さんを上司が支え、二人はよろめくように外へ飛び出しました。
すると、呼吸は戻りましたが、涙だけは止まらなかったそうです。
会社に戻ると、上司の判断で彼女に塩を撒くことになりました。白い粒が体に振りかかた瞬間、嘘のように症状は収まったそうです。
そこで初めて安堵しましたが、喉の奥に何かか詰まっているような違和感が残っていたと、智子さんは語ってくれました。
その夜、帰宅後に父親へ体験を話したときのことです。
彼は大工さんで、昔から娘の智子さんと同じく霊感が強いことで知られていました。
「お父さん。今日、首を絞められたんだよ」
智子さんが病院での出来事を説明すると、父の表情が険しくなりました。
「その物件が、何で事故物件になったかを知っているか?」
彼女は首を横に振りました。
彼は低い声で告げました。
「あそこは昔、大工の事務所だったんだ。事業が失敗して、社長が事務所の中で首を吊った。その後に売られて病院になったんだ」
私は、ここまでの話を聞いて、奇妙な共通点があることに気が付きました。
それは、智子さんが感じた「首を絞められるような苦しさ」と、大工の社長が命を絶った方法が一致しているということです。
偶然と言ってしまえば、それまでですが、私にはどうしても単なる偶然とは思えなかったのです。
父の話を聞いた智子さんは、思わず自分の首に手を当てたと語っていました。
冷たい感触がまだ皮膚に残っているように思えたそうです。
あの日、喉を締めつけたのは、首を吊った社長の怨念だったのでしょうか?
それとも、あの建物に漂う〝何か〟が、偶然智子さんを選んだだけだったのでしょうか?
確実に言えるのは、あの建物を見た瞬間の智子さんの直感は間違っていなかった!ということです。
もしも、アナタが、説明のつかない強烈な拒否感をある建物の前で覚えたなら――その感覚を無視してはいけません。
そこには、まだ誰かが居座っているのかもしれないのです。
そして何より恐ろしいのは、智子さんを襲う怪奇現象は、これで終わりではなかったのです……。




