第72談 幸運の部屋、怪異の部屋
今回ご紹介するのは、『帝都六家の隠し姫 かりそめの花嫁は氷の子爵に囲われる』(※全国書店やAmazonなどの通販サイトで発売中)の著者である加藤伊織先生から寄せて頂いた体験談です。
加藤先生が当時お付き合いしていた恋人にして、現在の旦那様(以下、イチローさん(仮名)とします)が住んでいたアパートの一室には、少し変わった噂があったそうです。
大家さんいわく「ここに住む人はみんな出世する。玉の輿に乗った人もいる」というのです。
古びた建物には似つかわしくない、妙に誇らしげな言葉でしたが、当時の加藤先生は軽い冗談のように受け止めていたそうです。
ところが、実際に部屋に出入りするようになると、ただの笑い話では済まなくなっていきます。
昼間に二人で過ごしている分には、特に不気味さはありませんでした。
むしろ陽射しがよく入る、のどかな部屋だったといいます。
しかし、彼が仕事に出て、彼女が一人で留守番をしていると、必ずと言っていいほど奇妙な現象に遭ったのです。
最初に襲ってきたのは金縛りでした。
胸が押し潰されるように苦しく、肺が石を詰められたかのように呼吸が浅くなっていきます。
全身の血が冷え、耳鳴りが高く響く中、耳元で女性の声がしました。
微かに湿ったような声で、唇をすぐ近くに寄せられたかのように生々しい吐息を伴っています。
言葉の意味は聞き取れず、ただ母音だけが間延びして流れ込み、頭の奥をじわじわと侵食していきました。
その時、確かに「誰か」がそこにいて、自分の耳に口を寄せて囁いているとしか思えなかったそうです。
別の日には、さらに不可解なものを見ました。
半ば夢と現の境目で、視界が薄く透け、壁の向こうの道路が覗けたのです。
そこをゾロゾロと行進していたのは、人の形をしていながら人ではない〝妖怪のような者〟たちでした。
顔が異様に横に伸び、目と口が裂け目のように広がる者。
背丈が二階建てほどもあり、頭が街灯に触れる度に、フラフラと揺れながら歩く者。
四つ足で進む獣じみた者は、アスファルトをひっかくたびに爪が火花を散らすように赤く光りました。
鼻を突くような魚と獣の体臭が混ざったような生臭さが一瞬漂い、ぞろぞろと連なっていく足音は、太鼓のように地面を震わせます。
影たちはこちらに気づかないはずなのに、どの視線も一度は加藤先生を向いたように感じられ、その度に皮膚の裏を冷たい刃で撫でられるような悪寒が走ったといいます。
その様は、まるで百鬼夜行そのものであり、ただの幻覚では片づけられない、底知れぬ現実味を帯びていたのです。
加藤先生は以前、いわゆる「霊道」が通っている職場に勤めていた経験があったそうです。
そこでは黒い塊が階段を駆け抜けたり、ライン上の席に座る人が体調を崩したりと、分りやすい怪現象が頻発していたそうです。
しかし、イチローさんの部屋はそうした霊道特有の流れを感じない。
昼間であれば不思議と恐怖もなく、静けさが保たれていたといいます。
だからこそ、夜や留守番中に起きる怪異が、かえって不可解さを増していたのです。
加藤先生は対策も試みました。
神社で授かったお守りを握って眠ったり、四神の色に見立てた猫のぬいぐるみと気を同調し、それを「結界」として認識して寝たりなどと、色々しました。
塩をアルミに包んで部屋に置いたこともありました。
しかし、どれも効果は一時的で、やがて再び金縛りに遭うようになりました。
お守りも吸湿剤のように多少の霊障は押さえてくれますが、ある程度経過すると「もう限界だ」と告げているかのように機能しなくなるそうです。
困り果てた加藤先生は、霊感の強い友人に相談しました。
すると、その友人は妙なことを言ったのです。
「筆と墨汁と半紙とチュッパチャプスを用意しておいて」
言われた通りに用意し、その友人を部屋に招いた日。
墨の匂いが漂う中、友人は半紙に文字を書き、火で燃やしました。
灰がフワリと舞い、部屋の空気が張り詰めていきます。
加藤先生が「やっぱり霊道なんだよね?」と尋ねると、友人は静かに首を振りました。
「違うの。ここは道じゃない。……彼氏さんが開けちゃってるのよ」
その言葉に、彼女は息を呑みました。
加藤先生の談によれば、イチローさんはホラー動画や怪談を好んで見ており、初対面の時も怪談で盛り上がったような方でした。
彼は、ホラー動画などが苦手な彼女が寝た後にYouTubeなどで関連動画をこっそり見ていたそうです。
その行為が無意識のうちに〝あちら〟と繋がる扉を開けてしまっていたのだそうです。
しかし、彼自身は跳ね返す力が強く、怖い思いをせずに済む。
だけど、その扉は開けっ放しだったため、その代償として、部屋に流れ込んだものの被害を一身に受けていたのが加藤先生だったのです。
そのことを知ったイチローさんは、すぐに心霊動画の類を視聴するのをやめました。
以来、金縛りや怪異は嘘のように消えたといいます。
儀式を終えた後、加藤先生が「チュッパチャプスは何に使うの?」と尋ねると、友人は笑って答えました。
「私の好物だから」
そのまま大きな飴玉を頬張る姿が、異様な緊張感の余韻を微かに和ませたのだそうです。
大家さんの言った「出世する部屋」という言葉は、今でも彼女の耳に残っています。
それは、本当に幸運を呼ぶ部屋だったのか?
あるいは、見えない世界と常に繋がっていたからこそ、何らかの代償を孕んでいたのか?
ただ、加藤先生は今も時折、夜更けにあの部屋を思い出すたび、胸の奥がうっすらと重くなるのを感じるのだそうです。
……この体験談を執筆している最中、私自身にも奇妙なことがありました。
深夜(23時45分頃)、机の隅に置いていたマグカップが、ひとりでに転がり落ちたのです。
もちろん部屋には私しかおらず、室内の風もエアコンの除湿レベル程度の脆弱なものでした。
まるで、見えない誰かが触って落としたように思えました。
さらに文章の中で「百鬼夜行」という言葉を打ち込んだ瞬間、モニターの画面が一瞬だけ暗転しました。
すぐに復帰しましたが、その後は指先が冷え、キーボードを打つ手がぎこちなくなったのを覚えています。
加藤先生が語った「扉を開けてしまう」という言葉。
あれは単に比喩ではなく、文章に記すことそのものが、僅かな〝隙間〟になるのかもしれません。
……そう考えると、今この文章を読んでいるアナタの部屋にも、ほんの少しだけ冷たい風が入り込むことがあるかもしれませんね。




