第70談 サブカルハローワーク
今から11年ほど前のことです。
私は、友人であり作家・UMA研究家にして〝動く待ち合わせ場所〟で有名な中沢健さんのインターネット番組『サブカルハローワーク』に出演することになりました。
あの日の空は曇りがちで、湿気を含んだ風が肌に纏わりつくようでした。
私はその不快さを、ただの天気のせいだと思っていましたが──今思えば、あの時点で‶何か〟は始まっていたのかもしれません。
収録場所は、日頃お世話になっている作家の山口敏太郎先生の事務所内のスタジオでした。
通い慣れたはずの場所ですが、事務所に入った瞬間、鼻に触れる古い紙と埃の匂いが妙に強く感じられました。
普段は気にもしない程度の匂いが、その日はやけに濃く鼻腔に残るのです。
出演者は中沢健さん、アシスタントで女優のI・Sさん、私。
撮影スタッフは穂積昭雪さんの四名だけという、こじんまりとした収録でした。
※彼女は収録当時、ちゃんとした芸名を名乗っていたのですが、現在は引退してしまったため、イニシャル表記とさせて頂きます。
『サブカルハローワーク』は、隔週放送の番組でして、私が出演するのも二回分でした。
そのため、一日で二回分を収録する段取りでした。
この番組は、タイトル通り中沢さんが推す特撮やアニメ、漫画などのサブカルチャー作品の魅力を世間に伝えるというのがコンセプトです。
機材の準備が進む中、私はふと、壁に掛けられた時計の音が、必要以上に大きく響いていることに気づきました。
コチ、コチ、コチ……時間を刻む音が、事務所全体に板張りの床を伝って震えるように響いていました。
「今日は、時計の音がよく響きますね」
何気なく言うと、穂積さんは「そうですか?」と首を傾げました。
ほんの些細な違和感でした。
しかし、この時点で既に‶境界〟は揺れ始めていたのだと思います。
一本目の収録は、『とんねるずのみなさんのおかげでした』内で放送されていた懐かしの『仮面ノリダー』についてでした。
内容も楽しく、何事もなく収録は終わりました。
──ただ休憩中、私は小さな雑音が機材から漏れているような気がしていました。
遠くで針金が擦れ合うような、金属的なチリチリとした音。
誰かに言うほどでもないと思い、そのまま二本目の準備に入りました。
二本目のテーマは『ゲゲゲの鬼太郎(5期)』です。
中沢さんと私は、作中に登場する妖怪・白山坊の話で盛り上がり、笑いながら語り合っていました。
ちなみに、白山坊とは原作者の水木しげる先生が創作された妖怪です。
百年以上生きた狐が妖怪と化した存在ですが、稲荷神の‶白蔵主〟をモチーフにしたという説もあります。
収録中、私は突然背中にヒヤリとした冷気の流れを感じました。
エアコンの風かと思い振り返りましたが、送風口は別方向を向いています。
それにもかかわらず、まるで背後を誰かが歩いたような、空気の揺れがありました。
「……あの、すいません。この部屋……なんか、怖いんですけど」
沈黙を切り裂くように、Sさんが震えた声で言いました。
顔を向けた瞬間、私は固まってしまいました。
彼女の頬が青白くなり、歯の根が合わないほどガチガチと震えていたからです。
「え、どうしたんですか?」
中沢さんの声も、少しだけ硬くなっていました。
「さっきから言おうと思ってたんですけど……この部屋、すごく嫌な感じがするんです。白山坊の話に入ったあたりから、急に‶寒く〟なって……」
彼女が言った途端、事務所の空気がさらにヒンヤリと沈み込んだ気がしました。
私と中沢さんは、思わず互いの肩を見合わせました。
穂積さんが静かに言いました。
「Sさんは霊感が強いんですよ」
言われてみれば、Sさんの視線は一点を見つめていました。
しかし、その視線の先には、机と機材以外は何もありません。
それなのに、彼女は十秒以上も瞬きを忘れたように固定されたまま。
「一旦、収録は止めた方がいいんじゃないですか?」
その光景に鳥肌が立っていた私は、思わず声を出しました。
「妖怪の話……というより、狐の話が良くなかったかもしれませんね。もしかしたら、〝何か〟がここまでついて来ちゃったのかも」
穂積さんの言葉は、不思議と冗談には聞こえませんでした。
「いやいや、鬼太郎の話でそんなことある?」
中沢さんは笑おうとしましたが、その声は震えていたように聞こえました。
その言葉に対して、穂積さんは腕を組みながら言いました。
「白山坊は、創作といってもモデルになった存在がいますからね。Sさん、狐に憑かれやすい体質なのかもしれません」
彼の説明は突拍子もないようでいて、妙に状況にハマってしまう不気味さがありました。
とにかく収録続行は不可能と判断し、私たちは事務所を後にしました。
事務所の外に出た瞬間、Sさんの顔色がふっと和らぎ、徐々に体調も良くなりました。
それと同時に、あの妙に響いていた時計の音も、背後の冷気も、途端に遠ざかったように感じました。
外気は相変わらず湿っていましたが、事務所内ほどの重さはありません。
ようやく皆が息をついたそのとき、中沢さんがボソリと言いました。
「……アニメ業界では、ある妖怪を描くと‶病気になるから描かない方がいい〟って都市伝説があるんですよ」
その言葉に、誰も返事をしませんでした。
ただ、誰もが心のどこかで(今日の出来事と関係があるのでは?)と思ったはずです。
実は、Sさんが体調不良を訴える数分前、マイクに何度も正体不明の雑音が入り、撮影が中断されたのでした。
よくよく思い返すと、あの時、モニター越しに聞こえた音は、風でも、電気ノイズでもありませんでした。
──得体の知れない‶何か〟が、何かを擦るような、もしくは近くで呼吸しているような形容しがたい‶音〟でした。
本当に狐の妖怪の話題に反応して‶何か〟が寄ってきたのか──
人の気配とも、動物の気配ともつかぬ空気が、あの日の事務所には確かにありました。
そして、この出来事を境に、私は妖怪の話をするとき、背後の冷気にいつもより敏感になってしまいました。
この体験談については、今振り返っても説明がつきません。
ただ、Sさんの体調の急変と、ノイズ、そして事務所内の異様な空気の重さ。
これらが偶然同時に起きたと考えるには、どうしても無理があるように思ってしまいます。
妖怪の話題をしただけで‶何かを呼ぶ〟というのは迷信だと思っていましたが、人の思いや恐怖というものは、時に形のないものを引き寄せるのかもしれません。
些細な出来事がきっかけで、誰にでも起こり得る怪異──。
禁忌に触れてしまった時、日常は簡単に非日常へと変貌を遂げていくのだと、あの日の体験が教えてくれました。




