第68談 メル友と女性
今回は、園部麻里子さん(仮名・年齢非公開)から寄せられた体験談の1つをご紹介いたします。
以前の体験談については「第53談 とあるアパートの怪異談」などをご参照ください。
この話は、まだスマートフォンではなく、折りたたみ式の携帯電話が主流だった頃の話です。
当時、彼女は流行っていた‶メル友〟という文化を自分なりに楽しんでいました。
知らない誰かから送られてくる短いメール。
園部さんは、無意味な悪戯でない限りは、なるべく返信するようにしていたそうです。
深夜、ポツリと光る受信ランプを眺めながら、送信相手の顔を想像する――そんな小さなやり取りは、退屈な日常を少しだけ色づけてくれました。
やがて、園部さんは、Tさん(仮名)という相手と、毎日のように連絡を取り合うようになりました。
2人の会話手段は、メールから電話に変わり、生活の中で彼の声を聞くことが当たり前になってきました。
その夜も、彼女はベッドの上で膝を抱えながら、彼の話を聞いていました。
部屋の中はエアコンの微かな唸り音と、時おり外を通る車の音だけ。
――だからこそ、異変に気づくのは、早かったといいます。
突然、背後から、湿った気配がしました。
振り返ると、そこに‶女性〟が立っていました。
暗がりの中、女性の姿は、照明の光をほとんど吸い込むように沈んで見えました。
長い髪は湿った藻のように額へ張りつき、顔の半分を覆っている。その隙間から覗く皮膚は、不自然なほど白く、青みを帯びていたそうです。
女性の額から、首筋へと赤黒い血液が、ゆっくりと流れ落ちていました。
その血は、滴るたびにブラウスの胸元へと吸い込まれていきました。
白かったはずの布地は、すでに茶褐色の染みで、まだら模様を描き、乾いた血がごわついて形を保っていたそうです。
部屋の空気が、微かに鉄の匂いを帯びてきました。園部さんの吐く息の温度が急に低く感じられ、肌に薄い鳥肌が立ってきます。
‶女性〟は、何も言いません。
口を動かす事も、瞬きする事もなく、ただ立ち尽くしていたそうです。
その姿から察するに(恐らくは交通事故で亡くなられた霊だろう)という事は、園部さんには想像できたそうです。
だが、その眼は――園部さんを見ているようでいて、彼女の肩越し、もっと遠くの闇を見透かしているかのようでした。
彼女は息を呑み、電話の向こうの彼に思わず聞いてしまいました。
「ねぇ、話変わるんだけど…Tくん、付き合っていた彼女で、交通事故で亡くなった人っている?」
電話の向こうで一瞬、息が止まる気配。
やがて低く押し殺した声が返ってきました。
「……うん。いる。なんで?」
「今、私の部屋に来てる」
数秒の沈黙の後、彼の声が少しだけ揺れました。
「見えるのか?」
「うん。私、霊感強いから」
「今から行く。車で十五分くらいだから、待ってて」
電話を切った途端、部屋の空気が僅かに重くなったのです。
時計の針の音が、やけに大きく響き、ベランダのカーテンが風もないのにフワリと揺れます。
園部さんの視線の端では、件の女性が少しずつ近づいてきました。
女性が、園部さんの間近に迫った時――
アパートの前に停まった車のライトが部屋を白く染めました。それと同時に、女性の気配はフッと薄れていきました。
外へ出ると、Tさんは無言で園部さんを助手席へ促し、そのまま夜の街へと走り出しました。
カーステレオからは、微かに古いバラードが流れているが、互いに言葉はありません。
やがて、ラーメン屋の灯りが見えました。
開け放たれた戸口から漂うスープの匂いが、妙に現実感を連れ戻してくれました。
二人は黙々と麺をすすり、支払いを済ませる。
店を出て再び走り出すと、彼がバックミラーをチラリと見て、低く呟きました。
「今、ここにいる?」
園部さんは、窓の外を見たまま答えます。
「後ろの席に、座ってる」
車が、ゆっくりと路肩に停まりました。
彼は後ろを振り返らず、ハンドルから手を離し、彼女の手を強く握ります。
「……俺さ、お前の事を幸せにしてやれなかったけどさ」
その声は、少し震えていました。
「今、隣に座ってる〝この人〟を幸せにしたい。だから、見守っててくれないか。そして……早く生まれ変われよ」
その瞬間、車内の温度がスッと下がった気がしました。
ミラーの向こう、夜の闇が微かに歪み、〝何か〟が薄い煙のように形を失っていきます。
「……消えたよ」
園部さんが、そう告げると、彼は小さく頷き、再び車を走らせました。
その後。お二人は正式に付き合い始めたそうです。
園部さんから、この体験談を伺った時、私はまず‶霊そのものよりも、人の想いの行き場〟 というものの重さを考えさせられました。
彼女の部屋に現れた女性の霊は、恨みを伝えるわけでも、何かを訴えるようでもない。
ただ、湿った髪を垂らし、遠くを見るような目で立っていただけだといいます。
もしかすると――
彼女は、Tさんの心の奥に残っていた「別れきれない想い」そのものだったのかもしれません。
人が人を失うとき、その喪失だけが残るのではなく、言えなかったこと、謝れなかったこと、伝えられなかったことが、形のないまま心の片隅に沈殿していきます。
それは時に、‶気配〟 という形をとるのだと、私は思っています。
今回の出来事は、怖いだけの怪談ではありません。
ひとつの区切りであり、残された者が前へ進むための通過儀礼でもあったのでしょう。
あの夜、バックミラーの中で薄れていった影は、単なる幽霊ではなく――
ようやく成仏することを許された 想いそのもの だったように感じられてなりません。
そしてそれを見届ける役目を担ったのが、園部さんの「視える」という特性だったのだと思います。
読者の皆様も、過去に誰かを想った記憶がふと胸をよぎる夜があるかもしれません。
その時は、この体験談を少しだけ思い出していただければ幸いです。




