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第66談 十万円と優しいおばさん

 これは、私の職場の取引先で働く早瀬好美さん(仮名40代)が、小学4年生のときに体験した出来事です。


 彼女の話を聞いた時、あまりの内容に私はしばらく言葉を失ってしまいました。


 その頃、好美さんの家はごく普通の住宅街にあり、どこにでもあるような下町の風景が広がっていたそうです。


 夏の夕方には、商店街から魚の匂いや焼き鳥の煙が漂い、遠くでは子どもたちの遊ぶ声や自転車のブレーキの音が聞こえてくる――そんな日常だったといいます。


 しかし、ある日突然、その日常は燃え落ちました。


 近所でスーパーマーケット兼魚屋を営んでいた山中さん(仮名)の家から、火柱が夜空を赤く染めたのです。


 炎は恐ろしいほどの勢いで、油を撒いたように一気に広がりました。焦げた木材の匂い、魚の脂が焼ける甘ったるい匂い、そして人々の悲鳴。好美さんの幼い心には、その地獄絵図が全て焼き付いてしまったのです。


 その火事で、山中さん一家の次女――高校3年生の娘さんが命を落としました。


 山中さん一家と好美さんのご家族は、とても親しい関係でした。


 彼女の父親は、亡くなった娘さんの弟を釣りに連れていってくれたり、祝い事には、好美さんの家に赤飯を持ってきてくれたりするような間柄でした。


 だからこそ、火傷を負って入院した母親と三女を見舞った時、声を失った彼女たちの姿を目にして、好美さんは泣き崩れてしまったのです。


 「どうして……こんなことになったのだろう?」


 そう思うしかなかったといいます。


 けれど、違和感は火事そのものよりも、その後の町全体の空気に漂いはじめました。


 火は放火によるものだと警察が発表したのです。


 それ以来、マスコミが毎日のように押しかけ、三姉妹の美貌を取り上げては、亡くなった次女の元交際相手や、近所の牛乳屋に疑いの目を向けました。


 ――まるで町全体がひとつの巨大な噂話に巻き込まれていくようだったように見えたそうです。


 そんな中、好美さんは母親と一緒に、仮住まいにいる山中さんのご主人と長女におかずを差し入れに通いました。


 そこで、いつも顔を合わせる女性がいたそうです。


 近所の社員寮に住むおばさん(以下、笑子さん(仮名)とします)で、明るく気さくな性格。場を和ませるように差し入れを持ってきては、「大変やねぇ」と笑っていました。


 しかし、その笑顔にはどこか奇妙な翳りがありました。


 ふとした瞬間、彼女の視線は焼け跡の方へと向かい、その目は哀れみでも同情でもなく、何かを確かめるように、じっと炎の残り香を探るようだったのです。


 さらに、差し入れを手渡す時には、必ず警察の捜査の進展について尋ねてきたといいます。


 「犯人、まだ捕まらんのやろか?」


 「どんな方法で火をつけたんやろなぁ?」


 その口調はあまりに自然すぎて、逆に記憶にこびりついたのだそうです。


 数日後。犯人が捕まったという知らせが届きました。


 その瞬間、好美さんは血の気が引いたといいます。


 ――逮捕されたのは、あの社員寮のおばさん……つまり、笑子さんだったのです!!


 放火した動機は、山中さんへの店へのツケが払えなかったため。額にして十万円ほどの借金でした。


 たったそれだけのことで、あの火災が生まれたのか?――そう思ったと同時に、好美さんは嘔吐してしまったそうです。


 しかし、恐ろしいのは、その後でした。


 笑子さんは証拠不十分で釈放され、まるで何事もなかったかのように隣町で暮らし始めたのです。


 焼け跡を前に涙した人々の記憶とは裏腹に、彼女は平然と笑い、挨拶をし、買い物袋を下げて歩いていました。


 あの火災事件など最初から存在しなかったかのように――。


 恐ろしいことに、その笑顔からは一片の後ろめたさも感じられませんでした。


 罪の影に怯えるどころか、むしろ人混みの中に溶け込み、堂々と暮らしていたのです。


 そんなある日。お使い中の好美さんは偶然、笑子さんが犬を散歩していた女性と道端で揉めている場面に出くわしました。


 最初は何気ない口論に見えましたが、その瞬間、彼女の顔は歪み、般若のような形相になったのです。


「……あたしに逆らったら生きていられなくなるかもしれんで!」


 低く絞り出すような声とともに放たれたその脅し文句に、好美さんは思わず息を呑んだといいます。


 彼女の瞳は、人間というより〝鬼女〟のようで、ぞっとするほど冷たい光を宿していました。


 その姿を見た時、好美さんは言い知れぬ戦慄を覚えました。


(もしも、人の心というものに色があるのなら……彼女の中は、もう真っ黒に塗り潰されているのだろう。この世には悪魔みたいな人間が本当にいるんだな)


 そう感じずにはいられなかったそうです。


 ただ、好美さんが忘れられないのは、笑子さんが最後に差し入れを持ってきた日のことでした。


 ご主人に手渡された煮物の湯気の向こうで、一瞬だけ、黒い煙のようなものが立ちのぼったのを見た気がしたといいます。


 それは気のせいだったのか?あるいは火災を見たショックからくる錯覚だったのかもしれません。


 しかし、鼻を突いた匂いだけは確かにあったそうです。焦げた木材と魚の脂、そして灯油の匂い――あの日の炎と同じ匂いが、なぜか笑子さんの体から漂っていたように思えました。


 好美さんは、後々になってこうも思ったと、私に語ってくれました。


 「あれは煙じゃなかったのかもしれない。あのおばさんの心の奥底に潜んでいた‶悪意そのもの〟が黒い煙みたいな形となって体から滲み出ていたんじゃないか?」と。


 この話を聞き終えた私は、その凄まじい内容に気分が悪くなるのを感じました。


 火事や放火という事実以上に、人の心に潜む悪意が時に目に見えることがあるのだと考えると、理由のない恐怖が押し寄せてきます。


 炎や煙よりも恐ろしいのは、目の前にいる“普通の人間”の奥底から、それがいつ姿を現すのか分からない!ということなのです。


 ……好美さんからは、他にも色々な体験談を取材させて頂きましたので、別の機会に紹介します。

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