第64談 廃神社から響く声
これは、私が怪談師の萬屋千絵さんから取材した体験談の一つです。
その話を、千絵さんがしてくれたのは、蒸し暑い夏の終わりごろでした。
都内のファミレスで、グラスの中で微かに揺らす氷の音が、妙に耳に残っています。
「今でもね、あの時の風の音が、ふとした拍子に聞こえる気がするんですよ」
彼女がそう言って笑った時、その顔の奥に、どこか湿った影が見えた気がしました。
千絵さんが大学生の頃、友人の池谷博司さん(仮名)が、代表のオカルトサークルに所属してました。
活動は、心霊スポットの探索や怪談会の企画など――いわゆる、若者の夏の遊びでした。
それでも池谷さんは真面目な性格で、調査ノートには日付と天候、同行者、感想までびっしりと書き込む几帳面さがあったといいます。
その年の夏、サークルは山奥にある廃神社を目的地に選んだそうです。
地図にも、載っていない朽ちかけた小道を登った先にある古い祠。
地元では「もう誰も祀らなくなった神様がいる」と噂されていました。
サークルメンバーたちは、夕暮れの山道を懐中電灯の光を頼りに進んでいきます。
湿った土の匂い、蝉の声の残響、遠くで鳴くカラス。
舗装が途切れるあたりから、空気が少しずつ重くなるのが分かったと池谷さんは語ったそうです。
その時、前方から、誰かが降りてきました。
フードを深く被った男でした。
体格は細身で、歩き方がどこかぎこちない。
すれ違う瞬間、男はポツリと「こんばんは」とだけ言いました。
声は妙にくぐもっていて、どこか遠くから響いてくるようだったといいます。
顔は見えませんでした。
けれど、男が通り過ぎた後、風が止み、蝉の声まで一瞬だけ消えました。
まるで、山全体が息をひそめたような静寂が訪れたのです。
神社に着くと、木々が強く騒めき始めました。
境内の鳥居は傾き、縄のような注連縄は、風に引き裂かれかけていたそうです。
それでも、若者たちは明るく振る舞おうとしました。
ライトを照らしながら、「ほんとに出るのかね、幽霊」などと冗談を言い合います。
だが、その時池谷さんは、ふと背中に冷たい風が流れ込むのを感じました。
そして――風に混じって、何かが微かに聞こえたのです。
「……たすけて」
最初は、あまりにもか細いので、虫の鳴き声かと思ったそうです。
けれど次の瞬間、確かに言葉になっていました。
「助けて……おかあさん」
池谷さんは懐中電灯を構えながら、
「誰かいるのか?」
と声を上げました。
だが、返事はありません。
ただ、風が木の葉を巻き上げるだけ。
――その時、山道を下るように小さな影が横切った。
それが風に揺れた木の枝だったのか、人影だったのか、誰も確かめられませんでした。
数日後。
池谷さんが帰宅すると、母親が青い顔でテレビを見つめていました。
「……あんた、この間、どこ行ったんだっけ?」
「〇〇〇神社だよ。オカルトサークルで」
その言葉を聞いた母親は、震える指でテレビの画面を指さしました。
「やっぱり……。その神社で事件があったんだよ」
ニュース映像には、見覚えのある鳥居と、立ち入り禁止の黄色いテープ。
アナウンサーの声が続く。
『〇〇町の山中で、行方不明だった女児が遺体で発見されました。現場からは――』
事件の発生時期は、サークルが神社を訪れたのと殆ど同じだったそうです。
池谷さんの話を聞いたサークルメンバーたちは顔を見合わせ、誰も何も言えませんでした。
あの日、風に紛れて聞こえた「助けて」という声。
もしかすると、殺害された女の子が、亡くなる寸前にこの世へ残した‶叫び〟だったのではないか?
そう考えると、池谷さんたちは背筋が凍ったといいます。
そしてもうひとつ――忘れられない疑問が残りました。
あの時、山を下りていったフードの男。
彼は、いったい何者だったのか?
もしかして――事件の犯人だったのではないか?と。
それ以来、池谷さんは、しばらくの間、奇妙な体験に悩まされたといいます。
眠る直前――耳元で〝あの声〟が囁くのだそうです。
「こんばんは」
あの、フードの男の声で!
「……あの事件、結局、犯人は捕まってないんです」
そう言って、千絵さんは静かにコーヒーを飲み干しました。
その直後、ファミレスのインターホンが、ピンポンと鳴ったのです。
振り向くと、黒いフードを深く被った男性客が、ゆっくり外へ出ていくところでした。
彼の後ろ姿が、しばらくの間、私の脳裏に残っていました。
取材を終えてから、私は何度もこの話を思い返しました。
事件として見れば、彼らが聴いたという子供の声は「現場近くで命を落とした少女の残響」だと考えるのが自然なのでしょう。
彼女の助けを求める想いが、風に乗って、たまたまサークルメンバーの耳に届いた――。
そう考えれば説明はつきます。
しかし、どうしても腑に落ちないのが、あの‶フードの男〟の存在です。
もし彼が犯人なら、あの時間帯に下山していたのも辻褄は合います。
けれど、彼を見た全員が「顔が見えなかった」と口を揃えているのです。
彼らの記憶の中では、フードの男は、まるで‶映らなかった〟ということになります。
まるで、現実と霊の境にいるような――。
私は、こう思います。
あの夜、山にいたのは‶二つの存在〟だったのではないでしょうか?
助けを求める少女の‶声〟と、その声を‶消しに来た何か〟。
もし、後者がフードの男だったとしたら――
あの夜、山を歩いていたサークルの一行は、‶消しに来た何か〟に‶見つからなかった〟のではなく、 ‶見逃されていた〟のかもしれません。
だからこそ、今でも千絵さんの耳には、風の中の声が混じっているのではないでしょうか?
助けを求めていた子供の声と、フードの男の『こんばんは』が、今も同じ山のどこかで重なり続けているのかもしれません。
萬屋千絵さんからは、他にも色々な体験談を取材させて頂いたので、別の機会に改めまして紹介します……。
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