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第60談 忘れえぬ霧の中の村

 今回は、別小説投稿サイトで、ご活躍中の南悠先生から寄せられた体験談をご紹介いたします。


 南悠先生の以前の体験談については、「第57談 カローラ」をご参照ください。


 彼から寄せられたメールの冒頭には、こう書いてありました。


 ――「あの夜の光景は、霧の奥にまだ残っている気がしてならないのです」と。


 時は、八月十五日、旧暦のお盆の夜のことです。


 彼の故郷では、お盆の供養はあっさりとしたものでした。だからこそ、その夜に見た風景が、強烈な印象を残したのかもしれません。


 夏休み、彼はいつものように景色を眺めながら車を走らせ、山間の道を抜けて「ある町」へ向かっていました。


 しかし、夕方を過ぎる頃から空気が変わり始めました。川面から立ちこめる霧が木々や山肌を呑み込み、ヘッドライトの光はゆらゆらと揺らめきます。


 その時、風は吹いていないのに、カラカラ……と乾いた音が耳に触れたそうです。


 窓を閉めているはずなのに、霧が音を抱え込むせいか、車内に染み込むように届いてきたような気がしたそうです。


 最初は枯れ枝が風に揺れて擦れ合う音かと思いましたが、耳を澄ますにつれ、それは「霧の奥を歩く誰かの足音」のように聞こえてきたといいます。


 今にして思えば、その音は、後に目にした“風車を握る手”と重なっていた気がすると彼は記しています。


 やがて山間の集落に差しかかると、霧の中に蝋燭の炎が並んで見えました。風もないのに炎はゆらゆら揺れ、視界の端で常に動いているように映りました。


 その灯りの傍らには人影が立っていたのです。背筋をまっすぐに伸ばした老人のようでもあり、痩せた若者のようにも見えました。顔は炎と霧にかき消され、はっきりと確認できません。ただ確かに、こちらをじっと見つめていたといいます。


 目が合った瞬間、胸の奥が締めつけられるように苦しくなり、冷たい汗が背を伝ったそうです。


 村を抜けると、闇はさらに濃くなり、ヘッドライトの光は霧に吸い込まれていきました。視界の端にまた人影が浮かび、遠くの木立の陰から視線を感じたそうです。


 誰もいないはずなのに、微かに草を踏む音が聞こえ、背後から冷気が触れるような感覚に襲われました。鼓動は耳の奥で響き、全身が強張ったと記されていました。


 次の集落では、さらに異様な光景が広がっていました。小さな祠のまわりに蝋燭が灯され、子供たちが、その炎の周囲をグルグルと回りながら奇声を上げていたのです。


 その声は霧に反響して遠くまで響き、車内にいるはずの彼の耳を刺すように鋭く聞こえました。


 泣き声とも笑い声ともつかないその叫びは、幼いはずの声帯から絞り出されているにもかかわらず、どこか大人の嗄れ声が混じっているようにも聞こえ、背筋をヒヤリと撫でていきました。


 炎の明滅に照らされる子供たちの顔は、笑っているようで笑っていない――口だけが大きく開き、目は焦点を失い、仮面のように硬直していたといいます。


 そして、その傍らに立つ老人。風車を握りしめた両手は不自然に力み、節くれだった指が白く浮き出ていました。微動だにせず、ただジッと車内の彼を凝視していたそうです。闇に沈んだ顔の中で、目だけが異様に大きく開かれ、蝋燭の炎を映してぎらついていました。


 その瞳は確かに「生きた人間の目」であるはずなのに、生気をまったく感じさせません。むしろ深い井戸の底を覗き込んだときのような、吸い込まれる暗さを湛えていたのです。そこから放たれる視線は、皮膚を針で突き刺すように冷たかったそうです。


 彼の目に見つめられるだけで、彼のハンドルを握る手とアクセルを踏む足以外の身体が、まるで氷のように固まってしまった錯覚すら覚えたそうです。


 まるで人の形を借りた「何か」が、そこに立ち、息づいている――彼はその瞬間、そう確信したと語っています。


 やがて、大きなダムの入り口に到着したころには、時刻はすでに夜の八時を過ぎていました。闇と霧が重なり合う山道で、斜面から人影がゆっくりと下りてきました。


 車を止める必要はありませんでしたが、その人物はただ観察するようにこちらを見ていたといいます。目は大きく見開かれてましたが、無表情でした。手には布の束のようなものを握っていたそうです。


 今振り返っても、あれが誰で、何をしていたのかはまったく説明がつかないと、彼のメールには記されていました。


 峠を越え、ようやく町の灯りが見えたとき、彼はやっと安堵できたといいます。しかし、背後にはまだ微かにあの気配がまとわりついていたように感じたそうです。


 霧に紛れる人影、聞こえるはずのない足音――背筋を撫でる冷たさは、幽霊のそれというよりも、むしろ「生きた人間の異様さ」でした。


 ……彼の体験談を読み終えたとき、私は「人間こそが一番恐ろしい存在なのではないか」と思わされました。


 霧の夜に立ち尽くす無言の人影、虚ろな目でこちらを見つめる者――それは幽霊ではなく、確かに生きた人間の仕草であると思います。


 もしも、心の均衡が僅かに崩れただけで、人は誰にでも理解できない振る舞いを見せるのかもしれません。


 そして、そうした異様さがふとした瞬間に私たちの目の前に現れる――それが一番身近で、逃れられない恐怖だと、改めて感じさせられたのです。

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