第57談 カローラ
今回は、別小説投稿サイトで、ご活躍中の南悠先生から寄せられた体験談をご紹介いたします。
今から、約40年程前の話となります。
彼は、土曜の夜に新潟市内の関連会社へ出向く仕事がありました。
仕事を終えて新潟市を出たのは、午後9時過ぎだったそうです。
寒くもなく暑くもなく、少し湿気を含んだ風が鼻先をくすぐっていました。
車内は、ほんのりとタバコの残り香が漂っています。灰皿に残った火種が、ときおり赤く瞬きました。
カーラジオからは、軽快なフォークソングが流れていました。
彼は、気楽な夜のドライブ感覚で曲に合わせて、小さく口ずさみながら、アクセルを踏みました。
――国道17号線。当時の道は今ほど整備されておらず、三条までは対面1車線。そこからは短い2車線区間になり、またすぐに1車線へ戻る、そんな構成だったそうです。
その夜、彼は(明日は休みだし、急ぐ必要もない)と思い、ゆっくりとした40キロ走行で進んでいました。
窓の外には街灯が少なく、フロントガラスの向こうに浮かぶヘッドライトだけが、夜道を無言で切り裂いていきます。
しばらく走ると、前方にポツンとテールランプが灯る車を見つけました。
速度は、自分の車と同じくらい、いや、やや遅いかもしれないと感じたそうです。
なぜか、‶その車〟に目が引き寄せられました。
――車種はシルバーのカローラ。ナンバーは「 新○○△ー○○」。
普段ならば、こんな所まで覚えたりはしません。しかし、妙に記憶に残った。いや、‶残された〟。そんな気がしたそうです。
(同じ帰り道か、気が合うな)
彼は、冗談まじりに、そんなことを思いながらツーリング感覚で、カローラの後ろを走りました。
やがて三条に差し掛かると、道は2車線に広がります。
軽くウィンカーを出して、カローラをゆっくりと追い越しました。
その瞬間、ミラー越しに見た車内に人影は見えなかったそうです。
しかし、夜のガラスは反射するから、よく見えない事もあります。
(まぁ、気にすることでもないか)
そう自分に言い聞かせるように、彼は再び前を向きました。
カローラを追い越して三条を抜けると、道はまた細くなり再び1車線となります。
速度を落とし、ヘッドライトに浮かぶセンターラインをなぞるように走っていました。
その時です。
ふと、視界のずっと先に、また赤いテールランプが灯っているのが見えました。ゆっくり走っているらしく、すぐに追いつきました。
――その瞬間、身体の奥底から、ゾワリとした悪寒が這い上がってきたといいます。
目の前の車は、シルバーのカローラ。ナンバープレートは「新 ○○△ー○○」……。
(間違いない。さっき追い越した車だ。おかしい?あのカローラは三条で抜いたはずだ。こんな場所にいるはずがない!?)
確かに追い越した……はずでした。自分の記憶に、曇りはありません。
しかも、この道路に脇道は少ないので、先回りできるような抜け道もなかったそうです。
それにも関わらず、先ほど追い越した車と、全く同じ車が、目の前を走っています。
その車のテールランプの光は、どこか濁っていました。
赤というより、どこか黄ばんだような色味で――それが、まるで‶腐った目〟のように見えて、彼は無意識にブレーキを踏んでしまいました。
何かが‶おかしい〟。何かが〝ずれている〟。
脳裏に、追い越した瞬間に見えたカローラの車内が蘇りました。
――あの時、運転席には、見間違いではなく本当に誰も……いなかったのではないか?と。
否定しようとしても、頭の中に不気味な空白だけが広がっていきます。
息苦しさを感じた彼が、窓を開けた瞬間、車内に風が吹き込んできました。
生温かい風でした。車内に残っていたタバコの匂いが一気に散って、代わりに、どこか焦げたような、濡れたような――古びた布団のような匂いが充満します。
鼻を突く臭いに、思わず咳き込んでしまいました。
「こっちの道から帰ろう」
そう呟いた彼は、反射的に進行方向の右折路へハンドルを切ったそうです。
予定していたルートを外れて遠回りになってもいいから、とにかくこの道を避けたかったからです。
カーステレオは、いつの間にかノイズ混じりになっていて、フォークソングの歌声が不気味に歪んで聴こえました。
目の奥がチリチリと痛んだのは、眠気のせいだったのか、それとも……?
帰宅してからも、しばらく手が震えていました。
翌朝、愛車を見た彼は、‶ある事〟に気づきました。
リアウィンドウの外側に、指の跡のような細長い曇りが一本。何かに沿うように、ゆるやかに曲がって残っていたのです。
誰かが、そこを触っていたかのような形に思えました。
それを見た瞬間、背筋が凍ったそうです。
前夜、鍵をかけた車庫の中に車を停めたにも関わらず、なぜか翌朝になってリアガラスだけが濡れていたからです。
朝露ではないし、雨も降っていませんでした。
まるで誰かが、そこに息を吹きかけたかのような、まだ新しい湿り気だったそうです。
いくら考えても、あり得ない事だったし、さっぱり訳が分からない出来事でした。
けれど、ひとつだけ確信した事があります。
(あの車は、俺を追ってきたんじゃない。あの道の、あの場所で、俺が来るのを‶ずっと待っていた〟んだ)という事でした。
何十年も経った現在でも国道17号線を通る度に、彼の足は無意識にペダルを緩めてしまうそうです。
私がこの話を伺ったとき、最も印象に残ったのは「車内に人がいなかった」という点ではありませんでした。
むしろ――
その車は淡々と、こちらを先導するように走っていたという事実です。
一台の車が夜道に佇むことに不自然さはありません。
けれど、「本来、存在しないはずのものが、まるでそれが当然であるかのように、同じルートを走り、同じ速度で寄り添ってくる」――その状況が、何よりも生理的な恐怖を呼び起こしてきます。
〝見えてしまう幽霊〟よりも恐ろしいのは、〝日常の中に異常が溶け込んでしまうこと〟なのかもしれません。
そして……。
その不自然なカローラの存在は、あの夜にだけ現れたわけではなく、今でも、あの国道のどこかで待っているような気がしてならないのです。
皆様も、もし深夜のドライブ中に、ふと視界に赤いテールランプを見つけた時は。
それが、ただの前走車であることを願ってください……。




