第56談 赤子が泣き叫ぶ病棟
私が、その話を聞いたのは、秋雨がしとしと降る午後でした。
都内某所の喫茶店で、知人から紹介された浅田裕美さん(仮名30代)は、湯気の立つカフェオレを前に、ゆっくりと語り始めてくれました。
「これは……私の友人の体験なんですけどね」
彼女はそう前置きして、小さく息を吐きました。
カップの縁から立ちのぼる香ばしい匂いの奥に、どこか湿った空気が混ざっていました。
――あの瞬間から、(もう怪奇の世界へ足を踏み入れたんだな)と、私は感じたのです。
浅田さんの友人・矢島香代子さん(仮名・年齢非公開)は、幼い頃から不思議なものを感じやすい体質だったといいます。
夜の神社の前で、他の人には見えない存在を見かけて立ち止まってしまったり、街に漂う地縛霊に言葉をかけてしまったりすることもりました。
そんな彼女が二十代半ばの頃、胃腸の病で入院してしまいました。
その病院は、地方都市にある古い総合病院でした。
廊下の蛍光灯は一部がチカチカと瞬き、エレベーターの金属板には無数の爪痕のような傷が残っていたそうです。
受付では消毒液の匂いが強く漂い、時たま吐き気すら感じることもありました。
そんな日常の“病院の匂い”の中に、彼女は薄い違和感を覚えていました。
主治医は八代さん(仮名)という三十代前半の男性でした。
白衣のポケットから覗くボールペンが三本、神経質なほどキチンと並んでいます。
「矢島さんですね。これからよろしくお願いします」
爽やかな笑顔を浮かべて差し出された手。けれど、その笑顔を見た瞬間、彼女の背筋を冷たいものが走ったそうです。
それは風でも、病院の冷房でもない。まるで、冷えた手で首筋を撫でられたような――そんな悪寒でした。
(まただ……この感じ。きっと、これから先、何かある……)
過去にも同じような「寒気」を覚えた人とは、決まって良くないことが起きてきました。
だから、彼女は八代医師に対して、必要以上に近づかないよう心がけたといいます。
しかし、二日後の夜。‶それ〟は唐突に訪れました。
薄暗い病室。
窓の外では雨が降り始めていて、遠くで救急車のサイレンが細く伸びていた。
彼女は点滴のポールの金属音に目を覚ましました。
……と思った瞬間、全身が動きません。
胸の上に、じわりと重みがのしかかっていたのです。
何か、ヌメリのあるものが、服の上から這うように動く感触があります。
肺がうまく動かず、息を吸うたびに喉がヒュッと鳴りました。
耳の奥で、自分の心臓の鼓動が、不自然なリズムで跳ねているのが聞こえた気がしたそうです。
――ドクン、ドクン……ドクン……ドクン。
その音は、病室全体に反響しているようにも聞こえました。
その時でした。
廊下の奥から――
‶ある声〟が、ゆっくりと、だが確実に彼女の病室へ近づいてきたのです。
「……う……うう……ぎゃぁ……ぎゃあぁぁぁ……」
それは、“赤ん坊の泣き声”でした。
けれど、その間隔は不可解だったそうです。
普通の赤ん坊のように規則的ではなく、まるで水の中で声を漏らしているような、くぐもった、泡の弾けるような音を混じえていたのです。
「……ぎゅ……ぎゅぅ……ぅあぁぁ……」
その声にあわせて、病室の蛍光灯が一度だけ、チッと音を立てて瞬きました。
光が揺れるたび、壁紙の陰影がゆっくりと変形していく。
ぬるい風が、足元から這い上がってきます。
それはただの風ではありません。
湿った布のようなものが皮膚に触れ、冷たく吸いつくと同時に、鼻を突くような匂いが漂ってきました。
――消毒液に混じった、甘い匂い。
まるで、血と母乳を混ぜたような、どこか懐かしくも吐き気を誘う香りでした。
泣き声は、彼女の病室のドアの前で止まると、ピタリと静まり返りました。
ドアの向こう側で、小さな体が、ズル……ズル…と這っている音がします。
(いやだ……お願い……やめて……来ないで……!)
彼女は目も動かせず、声も出せず、心の中で必死に祈ったそうです。
次の瞬間、金属音のような高い「カン……」という音が響き、赤ん坊の泣き声も、気配も、跡形もなく消えてしまいました。
病室には再び静寂だけが残り、その静寂が、かえって耳鳴りのように痛かった――ただ、胸の上の重みだけは、しばらく消えなかったといいます。
翌朝、看護師に尋ねても、この病棟には赤ん坊の患者などいないという回答でした。
そこで、彼女は自分の体験を夢だと信じようとしました。
しかし、廊下を歩くたび、どこかで“水気を含んだ赤ん坊の泣き声”が聞こえた気がしたそうです。
その一週間後には体調も回復し、退院の話が出ました。
「矢島さん、よく頑張りましたね。もう少しで退院できますよ」
そう声をかけてきた八代医師の笑顔は、初対面と同じく爽やかでした。
けれど、彼の背後――
点滴スタンドの影の中に、何かが“浮かんで”いました。
(え?白い煙?)
彼女は、最初そう思いました。
八代医師の背後、点滴スタンドの影のあたりに、空気の濃度だけが違うような、淡く白濁した“揺らぎ”があったのです。
よく見ると、とても白くて、小さな塊でした。
それは、まるで湯気のように微かに震えながら、ゆっくりと上下しています。
(この塊は呼吸をしているんだ……)
彼女が、そう思った瞬間、その背筋に氷の刃のような寒気が走りました。
その白い塊は、ただの光の反射や煙などではありませんでした。
――明らかに“意志”を持って、動いているように見えました。
(見てはいけない……見たら……)
そう思ったが、視線は吸い寄せられるように離れません。
目を逸らす前に、その“白い塊”が――ゆっくりと、形を取りました。
ぐにゃりと歪んだ輪郭が、骨と肉の記憶を探すように蠢き、頭、腕、脚といった「人の形」へと変わっていきます。
やがて、それは赤ん坊の姿になりました。
だが、その肌は透けるほど薄く、血の通う気配がありません。
頬も唇も生温いミルク色で、両目の部分だけがポッカリと、穴のように暗く抉れていました。
その赤ん坊は、泣いてませんでした。
ただ無音のまま、八代医師の背中に腕を伸ばしたのです。
その指先が白衣に触れた瞬間、まるで冷気が染み込むように、布の上からじわりと水の跡が広がります。
医師は何も感じていないのか、笑顔のままカルテに目を落としています。
赤ん坊の顔が、ゆっくりとこちらを向きました。
その空洞の眼が、矢島さんの視線と合った――気がしました。
次の瞬間、彼女の視界が僅かにぶれました。
空気が逆流するようにざわめき、赤ん坊の姿は溶けるように淡く消え、残ったのは、八代医師の白衣の背中に浮かぶ水の染みだけでした。
静寂。
そして、消毒液に似た匂いの奥に、ほんの一瞬、甘いミルクの匂いがしたといいます。
矢島さんはその後、何事もなく退院しました。
だが、あの病室の匂いだけは、退院してから数ヶ月ほど鼻の奥に残っていたと語ってくれました。
「消毒液の匂いに、少しだけ……血の匂いが混じってた気がするんです」
彼女はそう言って、遠くを見るような目をしました。
私は話を聞きながら、ふと気づいた。
この喫茶店の片隅――
私たちの隣の席に、乳児を抱いた女性が座っていた。
赤ん坊は泣きも笑いもせず、じっとテーブルのこちら側を見ていたのです。
浅田さんが語り終えた瞬間、彼女は立ち上がり、静かに去っていきました。
この話を聞いた私は、こう考えています。
初対面の時に感じた悪寒。
夜中に聞こえた赤ん坊の泣き声。
そして、八代医師の背後に浮かんでいた空洞のような眼の赤子。
――あれらは、すべて繋がっていたのではないか?と。
勝手な推測ではありますが、八代医師に取り憑いていた“水子の霊”が、矢島さんの前に姿を現したのかもしれません。
……ただ、ひとつだけ確かなのは、あの夜に聞いた赤子の泣き声は、この世のものではなかったということです。
この取材を終えてから、しばらくの間、たまに夜更けに耳を澄ますと、遠くで微かに、水の中から響くような泣き声が、聞こえる気がしました。
それは単なる錯覚なのか?もしかしたら……この世に生まれようとしても産まれることが出来なかった赤子の悲しみの声だったのかもしれません。




