第55談 資料館の大洪水(後編)
「あの時、あの公園のベンチで、‶何か〟が私の中に入ってきた気がしたんです」
そう語った宮坂真理さんの目には、疲れと安堵が入り混じっているように見えました。
私は、体験談を取材させて頂くため都内の喫茶店の隅で、彼女と向かい合っていました。
休日の午後、窓際の席には柔らかな陽が差し込んでいましたが、今まで聞いた彼女の話は、例えるなら光の届かない地下水脈を辿るような冷たさを纏っていました。
これから綴るのは、彼女が某資料館を訪れた日の「その後」に起きた出来事です。
前話を読まれていない方は、まず『第54談 資料館の大洪水(前編)』をご覧ください。
某資料館を後にし、駅前の小さな公園に足を運んだ宮坂さんは、そこでも奇妙な違和感に包まれる事となるのです。
風のない午後だったのに、木の葉が不規則に揺れておりました。
耳を澄ませば、微かに笛のような音が木立の奥から聞こえた気もしました。
だが、周囲には誰もいない。子供や大人などの人の気配が無かったのです。
まるで、世界に自分ひとりだけが取り残されたかのような――そんな感覚に囚われたといいます。
それでも、彼女はその場を離れる事が出来ませんでした。その理由は宮坂さん自身にも分からなかったそうです。
ただ、ベンチに腰を下ろした時、胸の奥に押し寄せてきたものがありました。
重く、苦しいような、誰かの感情に触れてしまったような気配だったそうです。
そして、唐突に深い眠気が襲ってきました。
睡魔に抗えなかった宮坂さんは、ベンチに横になり目を閉じました。
全身が泥の中に沈んでいくような感覚。意識がジワジワと遠のいていきます。
頭の中には、誰かの〝囁き〟が混ざったような幻聴が響きました。
古びたラジオのノイズのような音の中から、微かに誰かが、彼女の名前を呼んでいるようにも聞こえた気がしました。
「ま……り………」
慌てて目をこじ開け、ベンチから立ち上がった彼女は「あのまま眠っていたら、戻ってこられなかったような気がしたんです」と、語りました。
それから数日後。
霊感の強い知人である美穂さん(仮名および年齢非公開)と顔を合わせた瞬間、彼女は言いました。
「真理さん。〝どこ〟に行ってきたの?」
唐突な問いに戸惑う宮坂さんをよそに、美穂さんは微笑んでいたものの、その声は妙に張り詰めていたそうです。
「後ろに、〝大勢いるよ〟。百人くらい……いや、もっとかも」
その言葉を聞いた瞬間、ゾッとする感覚が、彼女の背筋を這い上がりました。
風もない室内で、彼女の背後のカーテンが僅かに揺れた気がしました。
美穂さんは、続けて問い直します。
「最近、どこかへ行ったんでしょ?」
彼女は某資料館の事を話すと、美穂さんは、しばらく沈黙した後、フッと笑ってこう言いました。
「なるほど。そこにいた人たちが、新幹線に乗って〝一緒に来ちゃった〟んだね」
宮坂さんは、彼女の言葉の意味を理解出来なかったそうです。
今度は、彼女が美穂さんに問いました。
「それって、どういう意味なんですか?」
その言葉を聞いた美穂さんは、うっすらと笑いながらも、視線はどこか遠くを見ていました。
「その資料館はね。色々あるんだよ。戦時中に亡くなった人、行方不明になった人、遺品だけが戻ってきた人。みんな、まだそこにいる。――というか、いた。〝真理さんが来るまで〟はね」
「私が……?」
「うん。真理さんは優しいからね。『この人なら気づいてくれる』って。だから、憑いてきたんだよ。百人以上の人たちが。重かったでしょ?あの日、眠かったのは〝そのせい〟だよ。貴女の体に、大勢の人たちが乗ってたから」
美穂さんはそう言って、お祓いをしてくれました。
その瞬間、宮坂さんの背中から、〝何か〟がスッと抜けていく感覚があったといいます。
お祓いが終わり、気持が落ち着いた宮坂さんは、ポツリと呟きました。
「……そういえば、あの公園のベンチ、私が立ち上がった時に、誰かが代わりに座ったような気がしたんです。見えてないはずなのに〝何か〟が、そこにいた気がしたんです」
その言葉を聞いた美穂さんは、静かに頷いたそうです。
――あの日、某資料館で起きた出来事。無人女子トイレに響く流水音、公園での突発的な眠気、誰もいないはずの木立から聞こえる笛の音……それら全ては、美穂さんの言う通り資料館に憑いていたという大勢の霊的存在の仕業だったのでしょうか?
「今はもう、大丈夫なんですか?」
私は、そう尋ねました。
彼女は、しばらく沈黙し、コーヒーカップを口元に運びました。
香ばしい豆の香りが、一瞬だけ私たちの間を和らげました。
「ええ。もう、〝乗ってる〟感じは、ないです。でもね――」
視線を伏せたまま、宮坂さんは少し笑いました。
しかし、その笑みには、どこか拭えぬ余韻がありました。
「たまに、電車の中で見知らぬ人の声が聴こえる事があるんです。『会えてよかった』って。聞こえるはずのない声が、今でも」
それが、今だに彼女に乗ってる〝誰か〟なのか、あるいは単なる余韻なのか。
私には断定出来ませんが、一つだけ分かった事がありました。
宮坂さんの語る言葉の全てに、確かな「重さ」を感じたのです。
日常と非日常の境界線は、私たちが思っているより脆く、そして曖昧なのかもしれません……。




